リコーダーと豆知識
粘ついた感触が、全身に襲いかかる。
ペンキ缶に頭から突っ込んだような、粘り気のある不快感とともに、壁を通り抜ける。箱の外へ踏み出した一歩目、裸足のつま先が赤土を砕いた。
倒れ込むのを防ぐための二歩目は、ぬかるみの中心に着水した。波紋を描く枯草色を見下ろし、それから雲ひとつ浮かばない、藍色に墨を溶いたような夜空を見上げる。
地表には、灰と木材を泥で練り固めた、褐色の廃墟がいくつも突き出ている。回らない水車、壁にかけられた角笛、黒ずんだ
見慣れつつあるルペーニヤの街区。ただし魔樹はない。生えていてしかるべき十字路の交差する座標、すなわち今いる場所には、大きな白い立方体が置かれている。
振り返っても、中にいるはずの人間の声は聞こえない。
「どうかな、センセイ。見事に再現されているだろう」
うれしげな声が聞こえ、正面の軒先からクソガキが姿を見せる。
襟元のやたら広い、ダッフルコートのような上着を着ている。胸元から銅にかけてシンメトリーな
「……そこで何されてるんですか」
「爆風への耐久性が知りたくてな、建物の構造を確かめていた。おや、これはなんだろう?」
いたずらっぽい笑みを浮かべて言うと、土壁に向き直り角笛を手に取る。リコーダーのような縦笛で、穴は全部で7個空いている。ためらいなく吹き始めると、あからさまな不協和音がよどみなく流れ出した。
そういえば昔のヨーロッパには、へたくそなミュージシャンを拷問する道具があったらしい。
「うん、いい音だ。ひとつ買って帰ろうかな」
ひどく幼げな横顔は、うっとりと角笛をながめている。
横目に見ながら、ため息をついた。
*
実験に利用するのは実際のルペーニヤではなく、〈造成術〉で再現した、等身大サイズの中心街だ。俺が殺された菓子の家を造成したのと、理屈としては同じことらしい。
ちなみに〈虚数空間〉とか呼ぶらしいが、実際の虚数との関係は知らない。俺は私立文系だ。
幸いにもというべきか、人間はいない。
代わりに俺の死体が、軒先や街路の曲がり角で串刺しにされている。全裸のまま、剥き出しの肛門から歯列の並ぶ口腔にかけて、原色の赤や青や黄の槍に貫かれている。
〈複生術〉を使って製造されたものだ。人間の炭化過程について、場所ごとの差異を調べるのに使う。串には温度計が内蔵されており、中心部分の温度を測定できる。
「思い出しちまうな。魔獣をこうやってブッ刺しとくんスよ、皮がぷちぷち言って、腐りかけのとろとろしたのが美味いんでね。天然の熟成肉っすわ」
ぬははとジアコモが哄笑し、魔王様は笑顔を引きつらせ、クロフュスはこめかみをおさえ、ルナルカさんは何も言わず、俺とクーベルツェさんは深呼吸をした。
「そ、そうか、そうなのだな」
全員を代表してクソガキが感想を総括し、とにかく本題に入る。
「本日の演習では、およそ638.312851897198473メートル上空に、〈複生〉したセンセイを〈虚数空間〉の
魔術というのは、種類がとてもいっぱいあるなあ。感心してしまうよ。
「ところで、
「陛下、僭越ながらこの人狐めにお任せを」
ルナルカさんが挙手すると、少女はうなずき、音を立てて吐息を漏らした。
「ああ、緊張する……」
それはこちらの台詞だ。協力者のイキリキツネがグイグイ行くので、勘繰られたらどうしようと考えてしまう。
「何言ってんスか、こんなことでキンチョーしてたら一生卒業できねェでしょうが」
バンバンと音を立てて、ジアコモは厚い手のひらで魔王様の背を叩く。
俺が同じことをされたら、脊椎が破裂するにちがいない。
「そうなのだが、魔樹のことがあるからな。時計の針が止まってしまったらどうしよう? 母上にどんな申し開きをすれば……」
「んだよそっちか。てっきりこの奴隷がきちっとくたばるのか、そいつをご憂慮されてんのかと」
突如、手首が脱臼するかと思うほどの強い外力にさらされる。
斑模様の浮き出た、樹幹のように太く荒々しい腕が、俺の手首を引き寄せる。足底は簡単に宙に浮いた。脇腹に抱き寄せられると、獣の体臭が鼻腔を占領する。
「センセイはさほど難しくないさ、いつものように死んでくれればいい。そうだろう?」
「ぐはは、いつものように死ねだとよ、傑作だな!」
ジアコモは腕をふりかぶった。
呼吸を止めて、ざわめく毛並みを見上げる。夜の輪郭に溶け込まない、汚れた雑巾のような焦げ茶色。
打撃は訪れない。そのまま、とても穏やかな手つきで首筋を撫ぜられる。
「ま、せいぜい頑張って何万匹でも殺せ」
囁きは低く、喉の奥で唸り声と
ゆっくりとひざまずき、わざとらしく首をかしげながら俺を見上げる。ハイエナとは思えない、愛嬌のかけらもない釣り目を細め、歯茎をあらわにして
*
「揉めていたが、大丈夫か?」
「ちょっとびっくりしましたね。大丈夫ですよ」
そう言っておけば、それ以上追及されるでもない。そのことがありがたかった。
「さて、話ってのは?」
〈防御膜〉は小腸のような薄紅色で、巨大な泡のように俺たちを覆っている。風呂に入ったときのシャボン玉と仕組みは一緒だ。
そんなんでいいのかと眉をひそめると、あのときだって突風をものともせず重力さえ無視しただろ、と抗弁された。見た目よりずっと高度な魔術だと言いたいらしい。
そんなわけで、俺たちは
術者のルナルカさんが念じると、行きたい方向へ自由自在に
実験の開始に及んで、眼下ではクロフュスが、箱の周囲を忙しなく動き、〈転送〉を準備している。
魔方陣を描いているようだ。
手描きではない。よく見えないが手のひらをかざし、すると拡大されたシンメトリーの紋様が、地上絵のようにひとりでに顕現していく。
ジアコモは近くの瓦礫に腰かけ、手裏剣のような武具をいくつも取り出し、ジャグリングをしていた。
そのうちひとつを、肩を振りかぶって天高く放り投げる。驚異的なスピードで、俺たちのシャボン玉にめがけて向かってくる。
「おっ、ちょちょちょちょっ!」
あわてたのは俺だけだ。ばいん、と安直な効果音がして、武具は潔く弾かれる。
そのまま垂直に落下する銀色をキャッチすると、眼下のハイエナもどきは唾を吐いて舌を出す。小学生かよ。
「小学生かよ。死ね」
聞こえないのをいいことに本音をぶちまけると、
「あれは若い。お前のひとつかふたつ上だな」
とキタキツネが教えてくれた。
だからどうした。一生使うことのない豆知識だ。
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