リコーダーと豆知識

 粘ついた感触が、全身に襲いかかる。

 ペンキ缶に頭から突っ込んだような、粘り気のある不快感とともに、壁を通り抜ける。箱の外へ踏み出した一歩目、裸足のつま先が赤土を砕いた。

 倒れ込むのを防ぐための二歩目は、ぬかるみの中心に着水した。波紋を描く枯草色を見下ろし、それから雲ひとつ浮かばない、藍色に墨を溶いたような夜空を見上げる。


 地表には、灰と木材を泥で練り固めた、褐色の廃墟がいくつも突き出ている。回らない水車、壁にかけられた角笛、黒ずんだ柘榴ざくろの果皮。

 見慣れつつあるルペーニヤの街区。ただし魔樹はない。生えていてしかるべき十字路の交差する座標、すなわち今いる場所には、大きな白い立方体が置かれている。

 振り返っても、中にいるはずの人間の声は聞こえない。


「どうかな、センセイ。見事に再現されているだろう」


 うれしげな声が聞こえ、正面の軒先からクソガキが姿を見せる。

 襟元のやたら広い、ダッフルコートのような上着を着ている。胸元から銅にかけてシンメトリーな瀝青れきせいの刺繍が入っていて、視界の端でそれがわずかにきらめいた。


「……そこで何されてるんですか」


「爆風への耐久性が知りたくてな、建物の構造を確かめていた。おや、これはなんだろう?」


 いたずらっぽい笑みを浮かべて言うと、土壁に向き直り角笛を手に取る。リコーダーのような縦笛で、穴は全部で7個空いている。ためらいなく吹き始めると、あからさまな不協和音がよどみなく流れ出した。

 そういえば昔のヨーロッパには、へたくそなミュージシャンを拷問する道具があったらしい。


「うん、いい音だ。ひとつ買って帰ろうかな」


 ひどく幼げな横顔は、うっとりと角笛をながめている。

 横目に見ながら、ため息をついた。



 実験に利用するのは実際のルペーニヤではなく、〈造成術〉で再現した、等身大サイズの中心街だ。俺が殺された菓子の家を造成したのと、理屈としては同じことらしい。

 ちなみに〈虚数空間〉とか呼ぶらしいが、実際の虚数との関係は知らない。俺は私立文系だ。


 幸いにもというべきか、人間はいない。

 代わりに俺の死体が、軒先や街路の曲がり角で串刺しにされている。全裸のまま、剥き出しの肛門から歯列の並ぶ口腔にかけて、原色の赤や青や黄の槍に貫かれている。

 〈複生術〉を使って製造されたものだ。人間の炭化過程について、場所ごとの差異を調べるのに使う。串には温度計が内蔵されており、中心部分の温度を測定できる。


「思い出しちまうな。魔獣をこうやってブッ刺しとくんスよ、皮がぷちぷち言って、腐りかけのとろとろしたのが美味いんでね。天然の熟成肉っすわ」


 ぬははとジアコモが哄笑し、魔王様は笑顔を引きつらせ、クロフュスはこめかみをおさえ、ルナルカさんは何も言わず、俺とクーベルツェさんは深呼吸をした。


「そ、そうか、そうなのだな」


 全員を代表してクソガキが感想を総括し、とにかく本題に入る。


「本日の演習では、およそ638.312851897198473メートル上空に、〈複生〉したセンセイを〈虚数空間〉のはこごと〈転送〉する。同時に〈縮小〉し圧殺、心停止をもって炸裂させ、その後の経過を観察する」


 魔術というのは、種類がとてもいっぱいあるなあ。感心してしまうよ。


「ところで、魔族われらはいざ知らず、センセイと副総統殿には〈防御膜〉を展開する必要がある」


「陛下、僭越ながらこの人狐めにお任せを」


 ルナルカさんが挙手すると、少女はうなずき、音を立てて吐息を漏らした。


「ああ、緊張する……」


 それはこちらの台詞だ。協力者のイキリキツネがグイグイ行くので、勘繰られたらどうしようと考えてしまう。


「何言ってんスか、こんなことでキンチョーしてたら一生卒業できねェでしょうが」


 バンバンと音を立てて、ジアコモは厚い手のひらで魔王様の背を叩く。

 俺が同じことをされたら、脊椎が破裂するにちがいない。


「そうなのだが、魔樹のことがあるからな。時計の針が止まってしまったらどうしよう? 母上にどんな申し開きをすれば……」


「んだよそっちか。てっきりこの奴隷がきちっとくたばるのか、そいつをご憂慮されてんのかと」


 突如、手首が脱臼するかと思うほどの強い外力にさらされる。

 斑模様の浮き出た、樹幹のように太く荒々しい腕が、俺の手首を引き寄せる。足底は簡単に宙に浮いた。脇腹に抱き寄せられると、獣の体臭が鼻腔を占領する。


「センセイはさほど難しくないさ、いつものように死んでくれればいい。そうだろう?」


 莞爾かんじとして微笑する、上品なかんばせから眼を逸らし、すると遠方の自分の死体と眼が合う。肛門から直腸がずり落ちて、温度計に絡みついていくところだった。


「ぐはは、いつものように死ねだとよ、傑作だな!」


 ジアコモは腕をふりかぶった。

 呼吸を止めて、ざわめく毛並みを見上げる。夜の輪郭に溶け込まない、汚れた雑巾のような焦げ茶色。

 打撃は訪れない。そのまま、とても穏やかな手つきで首筋を撫ぜられる。


「ま、せいぜい頑張って何万匹でも殺せ」


 囁きは低く、喉の奥で唸り声と混淆こんこうして届けられる。

 ゆっくりとひざまずき、わざとらしく首をかしげながら俺を見上げる。ハイエナとは思えない、愛嬌のかけらもない釣り目を細め、歯茎をあらわにしてわらった。



「揉めていたが、大丈夫か?」


「ちょっとびっくりしましたね。大丈夫ですよ」


 そう言っておけば、それ以上追及されるでもない。そのことがありがたかった。


「さて、話ってのは?」


 〈防御膜〉は小腸のような薄紅色で、巨大な泡のように俺たちを覆っている。風呂に入ったときのシャボン玉と仕組みは一緒だ。

 そんなんでいいのかと眉をひそめると、あのときだって突風をものともせず重力さえ無視しただろ、と抗弁された。見た目よりずっと高度な魔術だと言いたいらしい。


 そんなわけで、俺たちは雁首がんくびそろえて内臓色の泡の中にいて、空中に浮かんでいるのだった。

 術者のルナルカさんが念じると、行きたい方向へ自由自在におもむけるので、俺とクーベルツェさんは何もしなくてよい。


 実験の開始に及んで、眼下ではクロフュスが、箱の周囲を忙しなく動き、〈転送〉を準備している。

 魔方陣を描いているようだ。

 手描きではない。よく見えないが手のひらをかざし、すると拡大されたシンメトリーの紋様が、地上絵のようにひとりでに顕現していく。


 ジアコモは近くの瓦礫に腰かけ、手裏剣のような武具をいくつも取り出し、ジャグリングをしていた。

 そのうちひとつを、肩を振りかぶって天高く放り投げる。驚異的なスピードで、俺たちのシャボン玉にめがけて向かってくる。


「おっ、ちょちょちょちょっ!」


 あわてたのは俺だけだ。ばいん、と安直な効果音がして、武具は潔く弾かれる。

 そのまま垂直に落下する銀色をキャッチすると、眼下のハイエナもどきは唾を吐いて舌を出す。小学生かよ。


「小学生かよ。死ね」


 聞こえないのをいいことに本音をぶちまけると、


「あれは若い。お前のひとつかふたつ上だな」


 とキタキツネが教えてくれた。

 だからどうした。一生使うことのない豆知識だ。

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