青年とステンドグラス
あたりを見回すが、やはりここには俺たち以外、誰もいない。
頭を下げる相手は俺しかいない。
「……何がですか?」
「ニンゲンにとって魔族は、脅威以外の何物でもない。わたしが臍を曲げていれば、それだけでセンセイは、さぞ恐慌に駆られたのではないか?」
自嘲気味に苦笑している。
こういう表情を、誰かにさらけ出せるほど強い大人が、どこにでもいるわけではないことを、俺は知っている。
「本当は先ほどから、ずっと謝りたかったのだが、機会がなくてな」
いきなり、食い物の味がわからなくなる。
この子は俺の考えていることなど、すべて理解しているのだ。そのうえで頭を下げている。
「……ルナルカから、とても不愉快な話を聞いた。この地の、あるニンゲンの女性の話」
がちゃんと音を立て、少女はフォークを置いて天井を仰ぐ。それから指を組み、目を閉じて額を伏せる。
何かを考えるような、あるいは祈るような身振り。
「……市中を引きずり回されたとあらば、腹部に打撲が加わっている可能性はきわめて高い。胎児は無事だといっても、それは安産が保障されているという意味ではない。そうだな?」
俺はうなずきもしないし、首をふりもしない。そういう反応を意に介さず、反応を見る素振りもなく、彼女は続ける。
「流産で済めばいいが、適切な処置がなされなければ母体の生命も危機にさらされる。第一、見聞した様子からはとても、合意に基づく夫婦関係によって子宝に恵まれたものとは思えない」
父親は案外とあの男かもな、冗談とも本気ともつかない口調でルナルカさんが言っていたのを思い出した。
いったい、いつ話をしたのだろう? 妊娠した女性を、罰として引きずり回す。子どもにしていい話か? それとも魔王だからこそ、すべき話だとでもいうのか?
「その男についても、わたしは単純に、罰を求める気になれない。話のかぎり、彼は自分の罪を信じていない。罪を知らない者に罰を与えることが、罪と罰を司る法において、正当な行為であると、果たして言えるかどうか。わたしにはわからない」
俺は口を開きかけ、また閉じた。
「ニンゲンどもの、特に〈自治区〉の者どもの在りようについて、……噂には聞き及んでいたし、覚悟もしていたが、……わたしひとりの手にはあまる。なんだか、わかりかねることがどんどん、増えてしまって……」
そりゃそうだろう。誰の手にだってあまる話だ。
だからわずかばかりでも、大人の俺は彼女に手を差し伸べたいと思う。思ってしまう。おそらくは傲岸さゆえに。
「異界には、こんなつくり話があります」
話している相手がつくり話を好まないことを知りながら、喋り始めてしまう。
不愉快に思うかもしれないのに。相手に合った話の切り出し方じゃないのに。出過ぎた真似じゃないかと、内心のやりきれなさを怒りに替えて、こちらにぶつけてくるかもしれないのに。
「今から、だいたい200年ぐらい前の話です。北のほうに、とても寒くて大きな国がありました。大きな国がみんなそうであるように、富めるものはさらに富み、貧しいものはさらに貧しくなっていく、そんな国です」
俺は話し続ける。挑発でもするかのように。
「そんな大きな国の大きな街に住む貧しい青年が、ある日、こんなことを考えます。自分の近くに住んでいる、金持ちのばあさん。あいつを殺し、財産を奪ってやろう。でも青年は、自分のやろうとしていることが卑劣な行為であることを、心の底ではわかっていました」
向かい合う相手は黙っている。話を聞いているのか、考えごとをしているのか、そのどちらでもないのか。
「だから青年は、こう考えようとします。自分は貧しい。ばあさんは金持ちだ。この国では、金持ちは貧乏人から金を吸い取って、ますます金持ちになっていく。だったら、貧乏人が金持ちを殺し、その金を奪うことの何が悪い? 奪われたものを取り返すことの、何が?」
俺は串焼きをもうひとつ口に運ぶ。
まずい。ゴムのような感触も、薄皮を破って出てくる生ぬるい汁も、その苦味も好きになれない。
口直しにスープを飲んだ。当然のようにこれもまずい。吐き気がする。
「続きは?」
「続きですか」
「そうだ。その青年は、それからどうなる」
「つくり話に、興味があるんですか」
偉大なる魔王陛下は黙り込む。食事はどんどん冷めていく。俺は壁際に設えられた、濁ったステンドグラスをながめる。
「質問を替える。罪の自覚がない者を罰するのは、正当な行為だと、センセイは思うか?」
「こちらからも質問させていただきますが、それは、人間を滅ぼすことと、どんな関係があるんでしょうか?」
ステンドグラスは、柱時計のようには音を立てない。口をつぐんだまま、澱んだきらめきを吐き出している。
「……僕は、つくり話が好きです。それは現実だから。つくり話とは、想像力による変形にさらされた、現実そのものだから」
答えになっていない。会話が噛み合っていない。けれど
しばらく沈黙が続き、やがて俺たちは食事を再開した。
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