妊婦と傑物

「君」


 いつの間にか馬尾に回り込んでいたルナルカさんは、額から血を流す男に声をかけた。

 声をかけられた人間は、目の前を蝿か虻でも飛び回っているかのように、頬を歪める。詰問するような口調が信じられない、とでも言いたげに。


「この者は?」


 この者というのは、馬の後肢につながれていた、全裸の妊婦だ。

 腹が、球根のように膨らんでいる。両手首をロープできつく結われ、汚泥にまみれた身体のあちこちに、内出血の痕がある。左足首が外側へ曲がり、そこは腹よりも硬く、いびつな球形をかたどっている。

 俺たちとすれ違うまで、ずっと引き回されていたのだ。


 人間の姿をした人狐を突き飛ばし、彼女のもとへ駆け寄る。

 魔族の連中にこれ以上、弄ばれる前に――いや違う、このひとを引き回していたのは人間だ――とにかく救急車を呼ぶためには、電話をかけなくては。

 いやだめだ、携帯電話を持ってきていない。役に立つはずもないし紛失したらまずいと、置いてきてしまった。

 救急車? なんの話だ? 異世界にそんなもの、あるわけがない。


 細くて強い力に、肩を掴まれる。

 心底から怖気おぞけが駆け上がる。振り返ると見知った顔が、見たことのない焦燥を浮かべている。


「おい」


「やめろ、この、何する気だ、くそったれ」


「落ち着け!」


 ルナルカさんは俺に向かって叫んでから、甲高い声で絶叫し始めた女性と目線を合わせる。


「俺の眼を見るんだ」


 その表情は、この角度からは見えない。

 ただ女性の眼光が混濁し、やがて瞼が降りる様子はつぶさに観察できる。四肢が弛緩し、ぐったりと横たえられる。

 ルナルカさんは獣の姿態したいに復した黒い爪の先を、ゆっくりと胸元へ差し入れる。


「心臓は動いている。胎児も無事だ」


 肋骨の張り出た脇腹へと移りながら、自分に言い聞かせるように告げる。遠目では切り裂き、内臓を掻き出そうとしているように見えただろうが、この距離であれば何をしているのかはつぶさに観察できる。呼吸を止め、細心の注意を払いながら腕を動かしていることもわかる。

 それでも警戒はしてしまう。結果としてこちらも、息を呑んで見守る。


 人差し指の爪を、硬い音を立てて剥がし、チョークのようにつまんだルナルカさんは、慣れた手つきで空中に魔方陣を描く。

 軌跡が光線になり、光線が紋様になる。


「何を」


「彼女を病院へ搬送する。ニンゲン専用の。副総統殿、悪いが例のものを」


「わかった」


 命令を受けたクーベルツェさんは、胸ポケットから小さな紙片を取り出し、紙飛行機を折って放る。

 途端、霜柱を踏むような乾いた音を立て、鉤爪が、翼が、くちばしが出来しゅったいする。

 染みひとつない純白の雲雀ひばりは、ばたばたと羽を鳴らしながら、綿飴のように膨らんでいく。


 橙色の舌をのぞかせる鳥が、くちばしを鳴らして、青黒い蔓を縦横無尽に吐き出す。それらは伸長を繰り返しながら妊婦の肢体に絡みつくと、ゆっくりと持ち上げ、宿主の上背の羽毛に、まさしく背負うようにして、めり込ませる。

 鷹と同じ、鋭い声で空気を裂くように鳴いたそれは、連なる家屋の低い屋根の上端を、身体を傾けながらすれすれに飛び去った。



 男はここらの豪商であり、人間向けに下界から輸入される食品類の貿易を行っているのだという。先祖代々、この土地が中空に飛ばされるよりもふるくから住んでいるのだと主張した。

 女に罰を加えていたのは、商品を勝手に盗まれたからだ。箱に詰めておいた根菜を、軒先から抜き取り、ひざまずいたまま、生でかじっているところに、偶然に居合わせた。


 腹を膨らませ、しゃくしゃくと音を立て、あふれる灰汁あくを口から垂らしているところを殴りつけ、有燐馬に繋ぎ、市中を引きずり回した。

 腹が膨れていたのは、商品を平らげたからだと勘違いしていた。、こんな風にはしなかった。

 男はそうも主張した。そしてこんなことを言った。


「それにしたって旦那がた、何をそんなに狼狽えていらっしゃるんで?……ねえ、よくご覧じたほうがよいんじゃねえですか? あのあばずれときたら、肋骨が浮き出るほどに痩せて、病気の畜生同然だ……餓鬼だって流れちまうに決まってる。いったいどこの男に突き込まれたんで?……このへんの乞食のにでもなったんじゃねえですか?……乞食の餓鬼は生まれたところで乞食でしょうが?……へへ、そうじゃねえですか?」



 男は最終的に、副総統によって呼ばれた警邏けいらの人間に逮捕された。

 木製の手錠は、手首を嵌めると内側に棘の出る仕組みになっている。さきほどまでの媚びた声音を忘れたかのように、喉を裏返したような悲鳴を上げて、濁った泡を口角こうかくから飛ばし、聞いたことのない言語で悪罵あくばを投げつけてくる。


 隣の老婆は手を合わせ、天を仰ぎ、歯ぎしりをしながら鼻を鳴らす。

 青や茶色や鳶色の眼をした、7人の全裸の子どもたちが、男を指さして笑う。いちばん背の低い、たぶん5才ぐらいの女の子が、目尻を親指で押し上げながら舌を出す。

 ふたたび笑いが沸き起こり、するとそれをかき分けるようにして、吶喊とっかんのように怒鳴りながら、異様に腕の長い男が現れる。右手の鞭が空を切ってしなるのを合図に、子どもたちも、他のひとびとも一斉に離散する。


「あれは、なんですか」


 手首から黒い血を滲ませる姿を見ながら、俺はルナルカさんに問いかける。

 男は馬尾と両手を縄で繋がれている最中で、脚は自由に動かせる。しばらくもつれるように足踏みをしていたが、いきなり激しく躍動し、鱗を光らせる馬の浅葱色あさぎいろの腹に、臙脂色えんじいろの布を張り合わせた、長靴のつま先をめり込ませる。

 馬は跳び上がり、銀の火を吐いた。炎の穂先ほさきが紙吹雪のように、と光りながら回転する。


「まさか、引きずり回す気じゃないですよね」


「そのだ」


 木製の胸当てや胴当てを身に着けた警邏の男が、骨の突き出た拳骨げんこつで、長靴の持ち主の頬を殴りつける。

 倒れ込んだ相手の頭に向かって、腰に吊り下げた棍棒を何回か振り下ろすのを見届けてから、クーベルツェさんはようやく懲罰を制止した。彼らのあいだに割って入り、何事かをぼそぼそとつぶやく。


「言っておくが、嗜虐趣味サディズムでああいうことをやってるわけじゃないぜ。多少は見せしめをしておかないと、こいつらが何をしでかすかわからんからな」


 おそらく魔族語で、口を歪めて肩をすくませて、仕方なさげに、けれど自信に満ちあふれた調子で、ルナルカさんはよどみなく言う。それから、何事かを期待するかのようにふたたび集まり始めた市井しせいのひとびとへ、素早く視線を走らせた。

 どこかで甲高い角笛の音が聞こえ、爆竹の弾けるような音が続く。まるで祭りのように。


「たとえば、どんなことですか」


「あいつに石やら泥やら人糞やら、腐った根野菜の芯やらがいっせいに投げつけられる、みたいなことだ。おい副総統様よ、このあとどうするね!?」


「この者に任せる。こんな些事さじにかかずらっていたら、陽が暮れてしまう」


 ルナルカさんの叫びに、視線を合わせずに答えたクーベルツェさんは、やはり木製の兜の頭頂部を軽く小突く。彼らの背丈や体格の差は歴然としていた。成人を控えた息子とその父親、そんな関係を想像しても違和感がない。

 俺は周囲の人だかりを見回す。誰もがみな、抑えつけられたように低い上背うわぜしか携えていない。人間そのものが縮こまってしまったような、奇妙な印象を与える。


「些事か。ささいなこと、か」


 ルナルカさんが、俺に向かって笑いかける。視線を逸らした先には、まさに蹄を鳴らして駆け出す奇妙な動物と、その後ろにつながれた者がいる。

 男は走り出す瞬間、俺を見た。吊り上がった、濡れた瞳はおびえているようにも見えたし、憤怒に燃えているようにも見えた。

 その、前歯の折れた上唇の裏から、錆びた臭気が流れてくる。血の臭いだと気づいたときには、彼は街路の左右を取り巻く観衆に見送られて、泥と打撲の肉塊に転じていく最中だった。


「前にも似たようなことがあったな。以前、ちょっと目を離した隙に、お手製の拷問器具で私刑リンチにかけられてな。どっから持ってきたのか、全身をこう、十字架っていうのか、あれで磔にされてな」


 ルナルカさんは両手を水平に掲げてから、ぐえっと舌を出す真似をしてみせる。


「それでだ、背骨ほどの太さの杭を、こう、尻の穴から頭まで……」


「またその話か。お前も好事家こうずかだな、外交長官殿」


「滅相もない、この新入りにわが猖獗しょうけつの醍醐味を説いているだけだ。――それでな、まだ続きがあるんだ、その杭というのがな、巨大なを模したものでな、いやはやご立派にそそり立つものもあったもんだ!」


 甲高い声で人狐が笑う。何かを振り払うかのように。

 また爆竹の音がして、目の前をほうきにまたがった全裸の女が駆けていく。黄土色に濁った乳房を揺らしながら。

 その後ろを追いかけるのは、異様に太った髭面の男だ。両目を灰色に濁らせて、しきりに鼻を鳴らしながら短い言葉を叫んでいた。

 女はそのひとつひとつに泣きながら叫び返し、そこだけ肉のついた尻を揺すりながら、土煙に汚れる建物の影に消える。



 陽の高いうちに、俺たちは来た道をまっすぐ戻った。

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