20-1 嘘の月


 陽桜李はまぶたの裏に赤い光が見えて、目を醒ました。何度かまばたきしたあと、うとうとしながら横になってた体を起き上がらせる。陽桜李はハッとして左右に顔を振った。


「……寝てしまった!……今は、何時……?」


 陽桜李はそう言うと勢いよく立ちあがる。あたりはもう真っ暗だ。寝ているあいだに昼から夜になってしまったのだ。そう思って陽桜李は空を見上げた。


「……月が、赤い」


 陽桜李がぽつりと呟くと、黒い瞳のなかに淡く赤い点が映った。

 上春村で見る夜空と同じではなかった。

 陽桜李は光につられる虫のように、ゆったりとした動きで月に向かって歩き出した。


 月は低いところにあるときは赤く見えることがある。大気の影響で色が変化するのだ。村のような建物が少ない広大な地で、地平線が見えやすい場所でなら尚のことだった。


 しかしこの赤い月はどうだろう。

 耳塚邸よりも大きな屋敷で空高く昇っているではないか。自然現象としてはありえない光景だった。


 常世、異界──。


 陽桜李は真っ先にそのような言葉が頭に浮かぶ。


 陽桜李はただ真っ暗に続く背後を振り返る。来た道に戻りたいような気がして、自分の兄たちとそして風見のことを思い出した。


(……ここに、あの三人は来れただろうか)


 陽桜李はふと思った。そう思っただけだった。


 なのに、とんでもないことに気がついて、陽桜李は口をおさえる。


 ──二十年、次男、耳塚の血が流れる者。

 違う!来れたかどうかじゃない!


 ここには


 陽桜李は眩暈と吐き気がして、橋の上にふらふらと行く。手すりにつかまって水の流れる音も聞こえない深淵のような川をながめても、月光に照らされた、目に涙を浮かべた自分の情けない顔が見えるだけだった。


(風見おじさまも!耳塚家も!初めから!お兄さまたちを私のにするつもりだった!)


 風見がどうして何も知らない兄たちを十詩の森に連れて行ったのか。耳塚家の者はなぜあんなにも協力的だったのか。陽桜李は今になって分かったのだ。


 すべて耳塚家の闇に塗られた歴史を終わらせるためだ。


 長年、はっきりとした手がかりのなかった兎山家の、影彦との因縁を切る。


 耳塚家は劉条と恋墨の子を隠すために、孤児を利用して偽りの系譜を作った。そして今度は、跡継ぎの代わり身、血の繋がりがないといった、風見や琥珀や大和の命を捨てても良かったというのか。


(──吐き気がする、なんてひどい、なんてむごい)


 陽桜李はその場でうずくまってしまった。屋敷に入る前にくじけそうになる。

 優しかった琥珀が狂って大和に暴力をふるったこと、弓子が十詩と戦い消えたこと。


 どれも陽桜李の一生の心の傷になった。


「……だからなんだっていうの……だからなんだっていうの!しっかりして!私は八雲お父さまの……恋墨桜の娘だ!」


 陽桜李は両頬をぱちんと叩く。


 きっとこれから、いくつもの傷をつくり、時には犠牲もあるのだ。


 まれたからにはきるしかない。どうなっても──。


『……陽桜李様!聞こえますか?聞こえますか?』


 落ち着いた声が耳にひびいた。


「その声は……機織さん?」


 陽桜李は覚えのある人物を思い出して口にする。入り口に戻ろうとした。だが、陽桜李が手を伸ばした先に水面をえがくような透明な壁があった。


「なんだろう……窓ガラスがあるみたい」

『それは結界です。私が外そうと思えば外せますが……戻りますか?』


 首を傾げた陽桜李に機織が心配そうに返事する。


「……ううん。大丈夫です。八雲お父さまをまだ見つけていないもの」


 出来たら機織が一緒に来てくれたら心強い。そう思っても兎山家だった彼は彼なりの事情があるのかもしれない。陽桜李は急に一人なのが不安になった。それを察したのか機織はどこか気を遣うような話し方だ。


『そうですか……。どうかご無理はなさらないでください。そして申し訳ありません。色々とお伝えしたいことがありました。まず常世の食べ物は絶対に口にしてはいけません。なにがあってもそれだけはおやめください』

「は、はい……」

『あと、あとは、人形師の名前です。その方に出会ったら一目散にお逃げください。人形師の名は──』


 一瞬、声がするほうの空間が歪むと、ぶつりと鼓膜がやぶれるような音がした。


「……機織さん?機織さん!」


 機織の声が途中で聞こえなくなった。陽桜李は何度も結界を叩きながら問いかける。

 一体どうしたのだろう、今、機織は明らかに何か言おうとしていた。

 陽桜李は一歩、二歩と後ろに下がる。

 やっぱり、この場所は、なにか、変だ──。


「わっ!」


 ふわっと陽桜李の背中にやわらかい感触があった。人の手のようなものが自分の両肩を掴んだ。陽桜李はぞっと鳥肌がたつが、ある人物の顔が浮かぶ。


 もしかして──。


「八雲お父さ……」

「おやおや、お客様は珍しいですね。こんばんは」


 陽桜李はその名を呼んだ。しかし全くの見当違いの光景に、しょんぼりとした顔をする。


「誰……?」


 陽桜李が顔を見上げると、青い瞳の金髪の男が立っていた。陽桜李は外国人をみるのは初めてだった。男は白いシャツに格子柄こうしがらのスラックスというめずらしい格好だった。


「私ですか?私はここのしがない使用人ですよ……」


 男は愛想よく笑ってそう言った。

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