10-1 淡い想い


 煙草の匂いで目が覚める。陽桜李は重たいまぶたをゆっくりとあけた。誰もいない薄暗い和室の寝室。陽桜李が寝ている隣にもうひとつ布団が敷いてある。枕元には硝子の灰皿があって多くの吸い殻が残っている。


(……どこだろう、ここは)


 陽桜李は不安な気持ちでいっぱいになりながら、寝室の襖を開けた。八雲邸の居間のようなこじんまりとした一室だった。陽桜李は部屋を出て行こうとしたが何故か扉の襖が外側から鍵がかかっている。陽桜李はすぐに窓のほうへ行く。飛び下りて外に出て行こうとした。でも──。


(……高い)


 部屋は最上階のようだった。地面までが遠い。そして陽桜李の視線の先に山が見える。あそこは──。

 

「八雲んの裏山の本当の名前を知っているか?”兎山”だ。可愛い名前して恐ろしい場所だよなぁ」


 陽桜李が黒い桜の山を見つめていると耳がくすぐったくなる声が近くでした。陽桜李はびくっと体を震わせる。抱き締められるように触れられていた両肩の手を無理やりはがした。

 陽桜李はニヒルに笑った風見を睨みつける。

 風見は白の浴衣を着てタオルでくしゃくしゃと濡れた髪を拭いていた。だらしのなかった無精ひげはきれいに剃られていて、本来の美形な顔立ちになっていた。


「上春村の隣にはもうひとつの村があったんだ。”鬼百合村”。だけど上春村に吸収された」


 風見の蘊蓄うんちくを聞いている場合ではなかった。


「……ここはどこ?」

「耳塚家が経営する小さな旅館。辺境な場所だからいわゆる隠れ宿だな」

「隠れ宿?」

「ま、やましい男女が来るところさ」


 陽桜李は冷や汗が流れる。

 それは恐怖心からなのか。それともあの桜のせいなのか。


「……からだが、うごかない……」


 陽桜李はそう言うと倒れてしまう。頭を床にぶつけるところを風見が「おっと!」と慌てて陽桜李の体を抱きかかえた。


「おい、言っておくが俺は眠らせたりしてないぞ。嬢ちゃんが気絶しちまったんだ。朝にうなされたといいどうしちまったんだ?」

「わからない……恋墨と、影彦……あの二人はどうなったの?」


 陽桜李が頭をおさえて呟いた。そう言った瞬間だった。風見の今までの穏やかな雰囲気がガラリと変わる。表情がなくなり陽桜李をじっと見ている暗い目と合う。


(……なに?どうしたんだろう?)


 陽桜李は顔が近い風見に首を傾げる。


「……俺が人生をかけて調べ上げたことをあっさり手に入れちまうわけか。人ならざる者ってのは」


 風見が低い声で言った。そしてひょいと軽く陽桜李を抱き上げるとそのまま寝室に戻される。陽桜李は変に心臓が鳴り続ける。日の当たらない布団の上におろされると風見の手が目の前に伸びてきた。陽桜李はいつの間にか押し倒されていた。

 朝のようなじゃれ合う空気ではない。そう感じた陽桜李は風見の腕を噛みつこうかと思う。


(噛みつくなんて……女らしくない……女らしくない?)


 陽桜李はよぎった自分らしくもない考えに混乱する。


「俺がこの世で一番貪欲なものは何か教えようか」


 風見がぽつりと呟く。彼は抵抗しない陽桜李を確認すると起き上がる。部屋の端に投げてあったように置いてある煙草の箱とライターをとった。


「”怪異”だ」


 風見は不格好に浴衣をはだけさせる。あぐらをかいた足にはすね毛が生えているのが見えた。


「研究室に引きこもるとイカれちまうんかね。俺は長年、どうして上春村にはあのおかしな桜があるのか。父上は母上を裏切ってまで”ヒオリ”で何をしようとしてたのか。孤独に調べ続けた。時には国外で、あちこちまわって、そしてやっと全てが分かった。俺は家を出てから、人生は、すべてこずみ桜にあったといっても過言ではない……」

「……何がわかったの?」

「陽桜李、俺が何年もかけて得た情報だ。タダってのは虫のいい話だろ」

「じゃあどうしたら教えてくれるの?」


 陽桜李は寝転がったまま聞いてみる。


(どうして私はこの男に噛みつかないのだろう。腕に噛みついて首元をかじりついて血を飛び散らせるのだ。風見がもう、自分にこんなことしないように、おんなは鬼になるんだ。ならなきゃ。じゃないと。

 この男を早く噛まなければ──。)


「俺との子を産め」


 陽桜李は黙った。なにか言おうとして小さな魚のように口をぱくぱくさせてみては、やっぱり閉じる。風見から視線をそらして、窓もない薄暗い部屋で淡く光る行灯をぼうっと見つめる。


「……どうしたらおじさまとの子供が出来るの?」


 陽桜李は意を決したように起き上がる。風見のほうへ向くと言った。


「それを教えたら俺はお縄だろ」

「うそ。もう知ってる。本でいっぱい読んだ」

「本だけじゃ分からないこともあるぞ」

「そう。じゃあ引き替えに私はおじさまとの子供を産む」


 いつもの陽桜李の淡々とした口調だった。


「本気で言ってるのか。……陽桜李」

「それで恋墨のことが知れるなら。八雲お父さまのためになるなら。私の生まれた村のためになるなら。何だってする」


 風見はぽかんとした顔をすると、格好悪くまばたきを何度もして陽桜李を見つめた。意味もなく灰皿を引きずり、吸っていた煙草をもみ消す。そのままうつむているから何を考えているのかと思えば、くすくすとした笑い声が聞こえてきた。


「くく……はは!村のためねぇ……こんな村のために陽桜李が俺に抱かれるってのか」

「おじさまだってそう言いながら上春村のこと調べてる。人生かけてるって言った」

「へりくつな嬢ちゃんだ。俺たち、意外なことに根本は同じかもな」

「同じ?」

「桜に呪われている」

「どういうこと?」

「簡単に言えば研究熱心なんだな、お互いきっと、はは」


 風見の穏やかな笑い声を聞いていると、朝に出会った彼の優しい雰囲気に戻っているような気がした。風見が気分屋なのはいいが陽桜李は迷惑きわまりなかった。陽桜李は機嫌わるそうな目で風見をじとっと見た。


「おじさま、結局どうしたいの?どうして私にこだわるの?」

「さあな……狂った研究者の末路だな。怪異の娘が子を産めるのか。それが知りたいだけに……」


 風見が思ったより気の沈んだ声だったのことに陽桜李は気づいた。むしゃくしゃしたように煙草をもう一本とるとライターで火をつけた。ふう、と息を吐くと煙が部屋に小さく漂う。


「おじさま、つらいの?」

「俺が?つらい?」

「わからない……けど、おじさま、つらそう。私もね、最近、悲しくて仕方ない」


 陽桜李は死んだ小鳥のように情けなく言った。


「嬢ちゃんが?なんでだ」

「分からない……お父さまを見てると、悲しいの。息が苦しいの」


 また絹代と八雲の光景が目に浮かぶ。見たこともないヒオリという女性を考えてしまう。すると陽桜李は叫びたくなる。心臓は狂った時計のようにリズムが整わない。


「それは……まさか……」


 具合悪そうに布団のなかにもぐった陽桜李に、風見はもっとなにか言おうとしていた。

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