9-2 忍び寄る影


 陽桜李は八雲邸の裏山のほうへ歩いて行った。八雲と初めて出会った黒い桜へ向かう。夢で見たのと同じ山の森。陽桜李は『立入禁止』の看板を見なかったふりをして中に入った。

 涼しい風が肌をなでた。気持ちよくて瞑った目をあける。見上げると木々の葉が揺れる度に日が白く光る。綺麗な空模様に立ち止まってしまった。はっとして陽桜李は焦る気持ちを抑えられないで再び歩きだす。


 大きな黒い影が見えてくる。


「……着いた……」


 影だと見間違えるそれは桜だった。

 木の花は散ることなく黒々と咲いている。異様で不気味で美しい。陽桜李は思った。


(……私はここで生まれた)


 陽桜李は髪の毛に肩に服に花びらがくっつくのを払いながら黒い桜に近づいた。そっと木をさわる。指先が枝で切れて小さな傷口からぷくっと赤い液体が流れた。血は雫のように木の下に落ちる。

 陽桜李は歩き疲れて地面に座り込んだ。幾枚もの黒の花びらが雲のようにふわりと柔らかい。そのまま木に寄りかかり目を閉じた。


(静かで落ち着つく……眠い……)


『これより劉条様と恋墨様の婚姻関係を発表する』


 陽桜李はすぐに夢を見た。

 劉条と恋墨が広間で大人数に囲まれて並んでいる。中で一人の白髪の青年が立ち上がった。彼は目に涙をためてその場から立ち去った。恋墨がそれに気づくと隣の劉条をひと睨みし、青年の後を追っていく。


『恋墨!どうしてなんだ!義理の兄とはいえまさか劉条となんて!』

『私だってお兄様を説得したのよ!許せない気持ちは影彦様と同じです!』

『もういい……』

『もういいってどういうことです……?』

『……もういいと言ってるんだ。お前は僕を裏切った。この僕を、”兎山”である僕を──』

『え──?』

『命と引き換えにお前を──誰のものにもさせないぞ』


 純粋だった青年の目が曇っていく。怒りを込めてそう言うと羽織りをひるがえして去った。


『恋墨!行ってはいけない!あの男はその桜に呪いを──お前は呪われている!』


 喪服を着た恋墨が桜の木へ歩いて行く。枝には白い縄がかかっている。恋墨はそれを生気を失った瞳で見ていた。 


『恋墨!お願いだ!行かないでくれ!』


 劉条が必死な顔で手を伸ばしている──。


 息が苦しい。水の中で酸素を求めているような苦しさだ。


「……はぁ、はぁ、……今の、は……?」


 陽桜李は目を覚ますと、まさに水から上がったかのように大きく息を吸った。


「なに……?どういうことなの?行かないでって?恋墨は……」


 ──自ら命を絶ったのではなかった?


「そうだ。お嬢ちゃん。いや陽桜李……何処にも行ってはいけない」


 突如、体が宙に浮いた。腹のあたりをがっしりと誰かに掴まれる。次の瞬間には布のようなもので口元を抑えられた。陽桜李は驚いて目を見開く。


「んー?!離して!離して!」


 陽桜李は八雲邸まで聞こえるような勢いで叫んだが、広大な裏山では虚しく響くだけだった。また睡魔が襲ってくる。はたしてこれは夢なのか現実なのか。陽桜李は懸命に判別しようとして閉じたくないまぶたをおろした。

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