8 八雲の兄


 今日は父親の正嗣が耳塚邸に帰宅する。彼は突然、自分の子供たちと夕飯を共にすると希望した。中学校の春休みで耳塚邸にずっと居る八雲以外の二人の兄は、県内の国立大学の寮で暮らしている。父親の呼び出しに兄たちは、急遽、天埜村へ帰省することになったのだった。


「絹代!ヒオリが呼んでるぞ」


 八雲は台所で何人かの女中たちと一緒に夕飯の支度をしている雪平絹代ゆきひら きぬよを呼んだ。


「あっ!はい!今行きます」


 のんびりとした絹代の声が聞こえた。濡れた手をえんじ色の割烹着で拭きながら八雲のもとに近寄った。ふっくらとした頬が可愛らしい女性だ。


「……えっと、なんでしたっけ?」

「だから!ヒオリが呼んでるんだ!」


 ぼうっとする絹代に八雲はおおげさにがくっと肩落とした。

 絹代は耳塚家のお手伝いさんのなかで一番仲のいい女性だ。歳は長男兄と同い年の二一。以前は十七という若い頃から耳塚家の経営する旅館に勤めていた。彼女は真面目で優しくはあるのだがどこか抜けている性格であった。それが災いし旅館の上客に失態をしたのだ。しかし失態といっても酔っ払った壮年の男に襲われかけたと噂で聞いたことがある。

 絹代は父子家庭で父親が病で臥せっていた。だから学校にも通わず十七という若さで働いていたのだ。旅館をクビにされ絹代の家庭事情を知った正嗣は、耳塚邸に彼女を招いた。学費を援助をするのを条件に女中として働いてもらうことになった。

 今は確か長男兄と同じ大学に通いながら、耳塚邸でも一生懸命にやっている。

 絹代は子供好きで、八雲の小さい頃からよく遊び相手になってくれた。だから八雲は自然と彼女に懐くようになった。


「ヒオリさま、どうなされたのでしょう……私、またドジしちゃったのかしら」

「……そうなんじゃないか」


 八雲は絹代とヒオリの部屋につづく廊下を歩いていた。

 ヒオリはあれから座敷牢にはもう行かず、正嗣からちゃんとした部屋を与えられた。そのヒオリの面倒を任されたのが絹代だった。ヒオリは最初は絹代に心を許そうとしてなかったが、彼女の優しい人柄に気付くと、あっという間に仲を深めた。相変わらず風呂嫌いだったが、絹代が居ると何とか入るようにもなった。今や用事があってもなくてもすぐ『絹代はどこ』と言う。

 しかし正直──絹代よりヒオリのほうがしっかりとしている。ヒオリが急に絹代を呼びだす時は、大体、絹代が彼女に何かをやってしまったときだ。だから八雲も絹代が自覚してるとおりのことが起きてると思ったのだ。

 ヒオリの部屋の襖をガラッと開ける。


「ヒオリ、絹代を呼んできたぞ」

「ありがとう」


 ヒオリは鏡台の前で髪を梳かしていた。八雲はゆったりとした動きで髪に触れるヒオリをじっと見つめた。

 ヒオリはあれからますます美しくなった。着物を毎日着せてもらい、体も綺麗にして、絹代と遊びで化粧をする。耳塚邸から外出することはそこまでなかったが、時々、散歩すると、村の者がコソコソと話し始める。ヒオリという名の美少女の噂はあっという間に村中に広まった。


「……絹代、また着物が左前になってるの。着直すの手伝ってくれる?」

「えっ?!きゃー!申し訳ありません!」


 絹代の甲高い声に八雲は耳を塞ぐ。絹代は何度も深々と頭を下げる。

 ──やっぱりそうだったか。八雲は苦笑いした。


「なにを大声で騒いでる」



「き、霧夜さま!」


 絹代が驚いたように声をあげた。

 八雲の隣に立っているのは、長男兄の耳塚霧夜みみづか きりやである。大学生らしくポロシャツとスラックスの格好をし、八雲と同じ黒い髪に端正な顔。しかしいつ見てもどこか冷たい眼差しをしている。


「絹代、お前の騒々しさはもっとどうにかならないのか」

「す、すみません……」


 霧夜は呆れた溜息を大きく吐いた。

 ちらりと視線をヒオリのほうへ向ける。


「……気味の悪い娘だ」


 霧夜がヒオリ本人にも聞こえるようにぼそりと呟いた。

 八雲は思わずカッと頬が熱くなる。抗議しようと口を開いた瞬間、八雲の目の前で絹代が大股で、霧夜に近付いた。


「霧夜さま!ヒオリさまのことをそんな風に言ってはいけません!私にはどんなことを言ってもいいですが、ヒオリさまを侮辱するのは許せません!」


 ふん、と息を荒げて、絹代が言った。八雲とヒオリは互いに顔を見合わせて唖然とする。

 一方、霧夜は恥をかかされたように顔を赤くしていた。


「──っ!お前は本当にうっとうしいな!家だけじゃなくて大学でも俺の前をウロチョロとして!いつも母親みたいな小言を!」

「べ、べつにウロチョロなんてしてません!偶然会ってるだけで……!」


 絹代の桃色の頬がもっと濃く染まっていく。


「……勝手にしろ」


 霧夜は絹代からそっぽ向くと、大きな足音を立てて居間に行ってしまった。霧夜は自分の存在に気付いていただろうかと八雲は考える。兄弟であるのにまるで空気のような扱いを受けてしまい困惑する。

 絹代のほうを見ると彼女はうつむいてもじもじとしていた。


「またやっちゃった……もー!やだ!私ったら!」


 絹代は頭を自分でクシャクシャとしながら、縁側に照らされる満月に向かって叫んだ。絹代の奇行が心配になった八雲はヒオリにへ耳打ちした。


「……ヒオリ、彼女はなにを一人で悶絶してるんだ」

「八雲は本当に鈍感ね」


 ヒオリは自分のことでもめている状況であるのにも関わらず、鏡台の引き出しにあるかんざしをのんきに眺めて、ふふと楽しそうに笑っていた。八雲はハッキリとしないヒオリの物言いに、疑問を抱くばかりであった。

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