7 黒い桜の正体


 どれほど歩き続けたのだろう。八雲は額に汗をにじませながら、袖でぬぐった。日の当たらない森林の影の道。風に吹かれ木々の葉がざあっと立て、ぱき、ぱき、と枝を踏みしめる二人の足音だけが聞こえる、とても静かな時間だった。八雲もヒオリもお互い決して手を離そうとしなかった。八雲は迷い込んで、もう家に戻れなくなっても、たった二人でこの森で生きていける気がした。

 八雲はぴくりと眉を動かした。

 目先に木と木の間が大きく離れている空間があった。そこに一筋の陽の光が差し込んでいるのだ。輝きをみせる眩い光によってはっきりと見えたあるものに、八雲は大きく目を見開いた。


「……なんだこれは……」


 八雲は唖然としながら言った。

 黒い雨が降ったような現実ばなれした花吹雪。八雲が手を広げると、一枚、二枚、ひらりと黒い花びらが舞い落ちた。花びらのかたちは八雲がつい最近、見たものだ。

 ──桜だ、桜の花びらだ。

 しかし目の前の桜の樹は、桃の色をしていない。真っ黒なのである。

 八雲の身長よりもずっと大きく空まで届きそうな黒い桜の樹を、彼は首がこりそうになるほど見上げた。八雲は夢でも見ている気分であった。


「私は……ここで生まれたのよ」


 一緒に立ち止まり、黒い桜を見つめているヒオリが、ぽつりと呟いた。


「この黒い桜が、私のお母さん」

「……なんだって?」


 この樹が──母親?

 ヒオリが今まで言っていた『お母さん』とはもしや──。

 八雲は目の前の黒く咲き誇る桜を見上げる。黒の花びら同士の隙間には太陽がチラチラと光る。枝木が揺れると同時にこもれびの地面の影がゆらゆらと動く。


「私は、初めて目が覚めたとき、目の前が真っ暗だったの。体がこの黒い花びらだらけで……」

「そんな!かぐや姫じゃあるまいし……」


 八雲は大きな声をあげる。驚きからぱっとヒオリの手を離してしまった。八雲はしまったと思った。自分の手のひらを見つめ、視線をヒオリのほうへ持ち上げる。真っ直ぐと前を向いていたヒオリは八雲に微笑した。


「いやになった?」

「何が?」

「私が……普通の人間じゃないことに」


 あのヒオリにしては気が落ちている声色だった。

 自分たちは異質同士だと思っていたのに。自分の霊感を兄に蔑まれた時に、胸がチクリと針が刺したように痛み、どれだけ辛かったか分かる。なのに今、自分はそれをヒオリにしてしまった。

 ヒオリの正体があまりにも壮大であった。この場所を立ち入り禁止区域にするしか出来ない、村の者も手に負えない怪異、そしてヒオリはその怪異の娘であると?

 八雲はぶるぶると首を振る。

 どうして耳塚の者がヒオリを軟禁していたのか、父の正嗣が八雲にヒオリと関わらないように言っていたのか、八雲は点と線がつながるように全てを理解したのだ。

 ──でも、だから何だというのだろう。

 八雲は、桔梗がひらりと風に揺れるヒオリの美しい着物姿を、ほうっと息を吐いて見つめる。ヒオリは綺麗で、気が強くて、わがままだが──普通の女の子だ。

 八雲と同じ、それ以上に不思議な力はあるかもしれない。だが何も危害を加えたりしない。昔ばなしの鬼や妖怪のように人を喰ったりなどもないだろう。


「今さらそう言われたって……ヒオリはヒオリだろ」


 八雲は黒い桜の樹の下を見た。地面には花びらでめいっぱいだ。八雲が足でどかしてもどかしても、花びらがわいてくる。


『フフ』


 りん、──と鈴の音が鳴った。

 八雲はびくりと顔を上げる。

 樹の前に、さっきまで誰も居なかったのに。待ち合わせでもしているかのように、女が立っていた。八雲は見覚えのある女の恰好かっこうに、目を見開く。


「あ、貴方は……劉条の絵の……」


 八雲が声をかけると、喪服を着た女は──真っ赤な唇に笑みを浮かべた。八雲は劉条の墨絵に描かれていた、桜の樹の前の喪服の女を思い出した。そして彼女は八雲の前で首を吊って実体化したのだ。

 瞬間にぶわりと大きな風が吹き、花吹雪の渦が舞った。花びらがかまいたちのようになり、八雲の頬を切る。

 ヒオリはどこだ──?

 「うっ」と呻き声をあげながら、突然、閉ざされた視界のあたりを見回す。


『オドロカセテ、ゴメンナサイ』


 雑音の混じったざあざあとした女の声がした。上手く聞き取れなかったが、八雲には確かにそう言われた気がした。八雲の頬に流れる血を、すくうように触れる白い手があった。


「お母さんだわ」


 ヒオリの声がした。八雲は一瞬見えたヒオリの手をもういちど掴んだ。だが、ヒオリは八雲の存在に気にもとめないで、樹の中に渦巻く花びらの闇の中へ、どんどんと進もうとするのだ。八雲は危険を感じた。自分の手を引っ張るヒオリの着物の袖をぎゅっと握る。


「ヒオリ!待て!行っちゃ駄目だ!」

「お母さん!この人は、私の……私の友人の八雲よ!」


 八雲が聞いたこともないヒオリの必死な声だった。


「お母さん……私、ヒオリって名前をつけてもらったの。八雲のお父さんの正嗣という方から……」


 ぴたっ──と、真っ黒な桜吹雪が静まった。ふわふわと浮いている花びらの中で──喪服の女がもうヒオリの目の前に近づいているのが分かった。

 喪服の女はヒオリにそっくりだった。

 おしろいを塗ったような真っ白な肌に、艶のある唇。どこまでも続いているような長い黒髪が、空を舞う黒々とした花びらたちと一帯になる。


『ヒ、オ、リ……ステキ、ナ、ナマエネ……』


 喪服の女は微笑みながら、ヒオリの頭をそっと撫でた。途端にヒオリの瞳からポタリと水滴の一筋が、頬に伝わった。八雲が初めて見たヒオリの涙だった。


「また会いに行くから!私のこと、忘れないで……お母さん……!」


 ヒオリは笑顔で泣いていた。涙でかすれたヒオリの声が八雲の耳にやけに響く。八雲はヒオリの手を握りしめるしか出来なかった。

 陽の光が母と娘の間に差し込んでくる。花びらは黒いはずなのに、八雲にはその瞬間だけ、白く輝いて見えた。

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