5 涙の川

 八雲たちがやってきたのは上春村の『涙川なみだがわ』というところだ。水面は透明で奥底で魚が泳いでいるのがはっきりと見える。流れはゆっくりでさらさらとした落ち着いた音が聞こえる。川の音が女が涙を流しているようだから『涙川』と名付けられたと、八雲は正嗣に教えてもらったことがある。

 八雲は小さい頃から友人たちとこの川で水遊びをしたものだ。しかし八雲は中学生になった。川遊びはだんだんしなくなり、涙川に来るのも久しぶりだった。


「……とても綺麗な川ね」


 ヒオリは涙川をうっとりと眺めている。八雲はヒオリが喜んでいるなら連れて来て良かったと思っていた……ところだ。ヒオリは突然、白装束を脱ぎ始めたのだ。


「……ちょっと待て!なにをやってるんだ!」

「ここで体を清めようと」


 八雲は思わず「はあ?!」とすっとんきょうな声が出た。しかし自分の手に持っている彼女の着替えとタオルを見る。そういうことだったのかと合点がいく。ヒオリはすっと白装束をそのまま地面へ落とした。八雲は顔を真っ赤にし、視線を逸らした。


「体を洗いたいなら風呂にでも入ってくれば良かったじゃないか!」

「あそこは嫌いよ。熱いもの」

「当たり前だろ!風呂なんだから!」

「でも熱いのはキライなの」

「じゃあ冷水を浴びればいいじゃないか!」

「あの風呂の狭いところがイヤなの。イヤなものはイヤ」

「ようするに子供の風呂ギライか……」

「なんですって?」

「い、いや、何でもない」


 八雲は川から後ろを向く。目の端でヒオリの真っ白な美しい足が見えて、胸がどきりとする。ヒオリはそのまま静かに川の中へ入っていった。ぴちゃ、ぴちゃりと体を洗っている楽しげな音が耳に響く。

 一方、八雲はこっそり見ても罰が当たらないのでは?ここまでヒオリのわがままに尽くしている自分は、少しくらい見てもいいのではないか?と一人で煩悩と葛藤している。


『ほお……あの美しい体……あれがこずみの娘というものか』


 八雲の隣でしわがれた声がし、はっとする。いつの間にかひげをだらりと伸ばした男の老人が居た。一瞬、人間かと見間違えた。しかし足が宙を浮いている。


『胸もいいが……あの桃のような尻も……いやはや久々にいいものを見たな、ほっほっほ』


「じろじろ見るな!このスケベじいさん!」


 八雲は老人に掴みかかるが、彼はすばやく身をかわす。八雲は情けなくそのまま地面に倒れ込んだ。相手は幽霊なのに無意味なことを……八雲はよほど自分が冷静さを失っていることに気付く。


『そもそもこの涙川のぬしはワシじゃ。主のワシが川の景色を見ようが勝手じゃろ』


「な……主……?」


 八雲は老人を上から下までじっくりと見た。格式高い着物を着ているが、それ以外はどこにでも居そうな何の変りもない老人である。


「涙川の神が……こんなスケベなじいさんとは……」

『お前さんよく見たら劉条の子孫だな?あいつもワシと初めて会った時に同じことを言っていたのぉ』

「……劉条?彼を知っているのか?」

『知ってるもなにもあの男とは友人であった』

「彼には貴方が見えていたと言うのか?!」


 八雲は涙川の主の方を向いた。


『ワシら主にとってはつい最近のことのようだが……耳塚家といえば劉条を筆頭とした霊能力のほうで有名だった。今はただの土地成金に落ちぶれたようじゃがのぅ』


 八雲は驚いた。それは初耳であった。

 耳塚の者で自分のように霊能力があるのは八雲しか居ないと思っていた。。父と次男兄はそれを咎めはしなかったが、長男兄には不気味がられたものだ。きっとほかの親戚にも言えば長男兄のような反応をされるに違いない。それを理解していて父の正嗣は、八雲をそっとしておいているのだ。

 だから自分だけは、耳塚家で外れ者なのだとばかり。

 しかしこの間の、正嗣が持っていた劉条の墨絵を思い出す。あれが彼が描いたものなら、あのような不思議な現象が起こったことも納得がいく。

 ──彼も八雲と同じ霊能力者だ。

 しかも絵を操れるようなかなりの力があったいたと言える。

 八雲は涙川の主の話を聞いて、今さらになって真実に気付いたのだった。


「そうか……劉条殿が……彼もそうだったのか」


 八雲はふと涙が出そうになった。

 ずっと一人ぼっちだと思っていた。だけどそれを気にしないように今まで生きてきた。

 ただ幽霊が見えるだけ。それが何だっていうのだ。ほかの人間と、どう変わりがあるのだ。自分はおかしくなんてない。

 そう言い聞かせては幽霊たちをあしらっていた。

 たまにみずから『私は霊感があるの』と言うクラスメイトは居た。八雲はそんなに話したこともない彼女をはっとした顔で見た。周りから幽霊がどこにいるか当てて見せろと言われると、誰も居ないところを指を差す。八雲はがっかりした気持ちになる。

 違うのだ──仲間が欲しいだけ──自分の悩みを打ち明けられる、友人が欲しかった。



「八雲、着物を着せてちょうだい」


 八雲は目の前に現れた素っ裸のヒオリに、あんぐりと口を開ける。艶のある黒い髪の水滴がぽたりぽたりと八雲の足首に落ちる。八雲は油断してばっとヒオリの全身を見てしまった。八雲はボーっとしていた意識をどうにか取り戻した。


「せ、せめてタオルを巻け!ばかもの!」

「馬鹿とは何よ、失礼ね」


 八雲は目をつむって持ってきたバスタオルを差し出す。


「早く。着せてちょうだい」

「む、無茶なことを言うなよ」

『どれどれ……お困りのようならワシが……』

「……」

『というのは冗談じゃ。おい、やってやれ』


 涙川の主がきまじめな声をかける。どこからともなく二人の美しい女の霊が、すーっとヒオリの前に現れた。


『わたくしたちが着方をお教えしますわ』

『ご安心くださいませ』


 女は八雲の手に持っていた桔梗ききょうの柄の着物をとっていった。着物をひらひらと広げて飛んでいく。八雲はその女たちのうしろ姿が蝶の羽のように綺麗であった。


「彼女たちは?」

『ワシの眷属けんぞくのようなものじゃ。こう見えてもワシはもてる。そもそもこの川もワシが昔、泣かせた女の涙が水たまりになっただけだからの』

「……聞きたくなかった」

『劉条の子孫よ、お前は将来、相当いい男になるぞ。ワシといい勝負かもしれん』


 八雲は呆れた顔になる。


『しかしまだ子供よ。そのうじうじとした考えは捨てんといかん。男は強くなければな。体も、心も』


 思わず八雲はぎくりとする。まるでこの主は八雲の心のうちをのぞいているようだった。八雲は気まずそうに主の顔を見る。しかし彼は何とも穏やかな笑顔だった。


『大丈夫じゃ、お前は一人じゃない。お前にはあの子が居る。ずっと、な』


 主はヒオリのほうを見て言った。八雲も一緒になって彼女を見る。

 ヒオリも不思議な力を持っている。自分と同じか、それ以上に。


 八雲は蔵に出ようとした時のヒオリのことを思い出す。八雲がいくら手を差し伸べても、彼女はその力を借りようとしなかった。一人で、自分の一人の力で、立ち上がったのだ。突然、震えてたのがうそのように、すらっと伸びた手足。蔵から一歩踏み出し、陽の光の恩恵を受けたヒオリの凛とした横顔を、八雲は忘れられない。

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