7-1 ヒオリ川


 また勝手に逃げ出してしまった。しかも人の話の最中に。

 陽桜李はひたすら川を沿って下っていく。だんだんと水の流れる音が小さくなり下流に来たことが分かる。陽桜李はこの胸のざわざわとした気持ちの正体を知らない。息が詰まったように苦しくて、頭が痛くて、泣きたくて泣いてしまう。

 

 ──母親とはなにか。辞書の意味としては理解している。

 自分は人間から生まれた子供ではない。八雲はそう言った。八雲は桜とという植物の怪異と関わった。ヒオリという女のために。その結果、自分が存在する。にわかに信じがたいことを告白したわけだ。


 だけど何だか実感がわかない。


 自分が何者なのか。考えなかったわけではない。

 八雲邸に連れられてから人に迷惑をかけては訳の分からないことばかり起こった。その意味の正解を教えてもらっただけだ。


『そこの可愛いお嬢さんや、あまり深い場所には行ってはいかぬぞ』


 聞こえたしわがれ声にはっとする。首を左右に振って正気を取り戻そうとした。

 陽桜李はぐるっと景色を見渡す。足元を見て「きゃ!」と小さく悲鳴をあげた。自分の膝上にまで川の水が浸かっている。あと一歩で深い水底に踏み入れようとしていた。


「いつの間に──?」


 陽桜李はふしぎに自分に問いかけた。


『……たまーにおるんじゃ。我を忘れた瞬間、川に入り込んでしまう人間がな。昔はそうでもなかったんじゃが……時代かのぉ』


 陽桜李はさっきから自分に話しかけている声のほうへ振り向く。

 白いひげを伸ばした着物の老人があぐらをかいて宙に浮いていた。陽桜李はにこりと笑いかけてくれた老人を表情もなくじいっと見つめてしまう。


『おや、なにをそんな目に水をためてるのか。おぬしを泣かすような男はろくな奴じゃないな』


 老人は自分の目を指差して陽桜李に見せてみる。陽桜李はあせってまぶたをこすった。老人は『赤くなるから駄目じゃぞ。もう川で顔を洗ってしまえ。すっきりする』と気を遣ってくれる。陽桜李は思いきってパシャッと川の水をすくう。冷たくて気持ちいい。頭に糸が絡まったように落ち着かなかった思考がはっきりとしてくる。


「……でも八雲お父さまは悪くない。私、どうしてか頭が熱くなっちゃって、こんなの初めて」


 顔を濡らしながら陽桜李は老人のほうを見た。


『八雲……?お前さん、名はなんと?』

「陽桜李……太陽の陽に桜に桃の李」

『……ああ、そうか……。お前さんが新しいこずみの……』


 老人は眉を下げると悲しそうに言った。


「……おじいさま、八雲お父さまを知っているの?」

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