1-2 陽桜李



 少女はよく眠る子であった。八雲に拾われてからは、三日間ほど起きては寝てを繰り返していた。はっきりと目が覚めたとき、少女は女物の白のワンピースを着せられて、布団の上に居た。


 少女は目を擦りながら、ゆっくりと起き上がる。

 昼のあたたかな日差しが差す、縁側に腰を掛けている八雲がふりむいた。


「起きたか、眠り姫」


 八雲は少女を見ておかしそうに笑った。八雲は縁側から立ち上がり、茶箪笥を引くと、半紙を取り出した。少女はぼうっとした眼で八雲の様子を眺めていた。八雲は布団の前に半紙を広げる。達筆な習字で何かが書かれていた。


「お前の名は陽桜李ひおりだ。これからは俺の娘として育ってもらう」

「……あ、……」


 少女は声が出なかった。言葉がわからないのだ。


「そうだな、まずお前には人間の言葉を覚えさせる」


 八雲は半紙を懐にしまうと、そっと陽桜李の両肩に触れた。


「ひ、お、り。お前の名だ。言ってみろ」

「……ひ……あ……?」

「違う、口の動きをよく見てみろ」


 ぱちんと高い音が響いた。八雲が陽桜李の手を軽く叩いたのだ。陽桜李は自分の手の甲をじっと見た。だんだんと赤く色が染まっていくのを、不思議そうにながめた。

 陽桜李の見た目からしての歳の少女であれば、泣きだしているだろう。しかし陽桜李は痛覚はあるが、それがどうして感じるのかは、分からない。八雲の怒りも全く通じず、小さな首をゆったりと傾ける。そんな陽桜李の様子に気が付いた八雲は、参ったように肩を竦めた。


「人間の世界で生きていくにはしばらくは耐えてもらう、辛いだろうが死よりは苦しくないだろう」



 八雲は陽桜李に徹底的に言葉を教え込んだ。ひらがなから漢字の読み書きを一日中させ、ありとあらゆる書物を文机に積み重ねて、読み終わるまでごはんも与えなかった。陽桜李は空腹でおなかをさすりながら、まだあと何冊も残っている本を見た。

 陽桜李はふと襖を見た。外の日は沈み障子越しに月光がふりそそいでいた。


 手が疲れた。体が重たい。だが陽桜李には疲労というものが分からない。視界がぐらぐらとしながらも八雲に言われたとおりに書く手を止めなかった。


 ごつん、と文机がぶつかる音がした。振動で文字が歪む。


「こんばんは、あなたがこずみ様の?」


 陽桜李は表情を変えなかった。文机の下にだらりと長い茶髪を伸ばした女が居た。


「ずっとここに隠れておどかそうとしたのに全然反応してくれないんだものぉ」


 女は「よいしょ」と陽桜李の体をすうっと通り抜ける。


「私はゆみこ」

「……ゆ、」


 陽桜李の口が動いたがうまく喋れない。ゆみこはふふと笑う。


「しばらく八雲様の屋敷に居座っちゃおっかな、あなたがいると面白そうだし、よろしくね」

「……」

「お友達になりましょ」

「……」

「うーん、どっちなんだか」


 ゆみこは困ったように眉を下げる。たが途端にはっとした顔になった。


「誰か来たみたい、琥珀様かしら」


 ゆみこはすっと目の前で透明になって消えた。


 陽桜李の耳にも足音は静かに聞こえた。襖の前に人影が差し込んだ。がらっと開くと陽桜李は体をびくりと震わせた。


「これじゃまるで監禁だね」


 襖が開けられると、呆れた笑みをした男性が、陽桜李の部屋に入ってきた。手にはお盆が乗せてあり、陽桜李の分の夕飯が並べられていた。


「父上は厳しい人だけど、ああ見えて本当は優しいんだよ。許してあげてね」


 男性の声に陽桜李の光景は現実に戻る。


「俺は琥珀こはく。一応、この家の長男」


 琥珀は片目を閉じて「内緒だよ」と小さく呟くと、卓子にお盆をのせた。陽桜李は読み書きを続けている手を止めて、隣に置かれた食事をじっと見た。白米と味噌汁に淡いピンク色の焼き鮭が、温められて湯気が立ちのぼっている。陽桜李は匂いにつられてぐうとお腹が鳴る。しかしどう食べたらいいのか分からない。思わず手で焼き鮭を掴もうとした。


「おっと、ちょっと待って!……そうか、箸の使い方はまだ教わってないのか」


 琥珀は慌てて陽桜李の手を抑えた。琥珀は仕方ないというように笑顔でためいきをつく。琥珀の雪のように真っ白な手が、美しく箸を持ち、焼き鮭を崩して小さく分けた。


「はい、あーんして。口を開けるんだよ」


 琥珀は自分で口をぱくぱくと開けて見せた。陽桜李は何をすればいいのかを理解し、あんぐりと口を開けた。目を閉じると口の中に箸と一緒に鮭が入ってゆく。陽桜李は鮭の原型がなくなるほどに咀嚼し、ごくりと飲み込んだ。琥珀は面倒見の良いことに、すべて食べ終わるまで何度も陽桜李の口に運んだ。


「どう?美味しい?」

「お、い、し……ぃ?」

「おお、もう喋れるじゃないか。それじゃあ僕の名前は言えるかな。こ、は、くって言うんだ」


 琥珀はもう一度、口で表現した。陽桜李は八雲に言われた通りに口の動きをよく見ることにしていた。そうしないと彼と会話するときもよく叱られたのだった。


「こ……は、く」

「君のおにいさんだよ」

「お、にい、さま」

「はは、様なんていいのに、さては父上だな」


 琥珀はちらりと卓子の上に、何枚も散らばっている紙を見遣る。拙いひらがなで「やくも おとうさま」と何度も鉛筆で書かれている。そのあとには「こはく おにいさま」と続いていた。まず家族の名前を頭に入れさせられているようだった。


「や、ま、と、おにいさ、ま」

「ああ、まだ会ってないのに大和のことも教えられたのか。彼は今、合宿中だからね。帰ってきたら驚くだろう。なんせ思春期真っ盛りだから、君のような可愛い子がお家にいたら、ね」

「……?」

「まあ、君はまだ知らなくていいよ」


 琥珀は楽しげに笑うと、陽桜李の頭を撫でた。そのときに陽桜李は、初めて体中に暖かいものを感じた。今まで表情がなかった陽桜李はふんわりと微笑んだ。


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