竜の居ない洞窟(14)

 アリツクシラは岩山や渓谷けいこくに住むワイバーンだ。比較的大柄なその身体は、光沢のあるレンガのような色の鱗で覆われている。目をいたように丸いオレンジの瞳と真っ黒の瞳孔、牛のような細長い尻尾が特徴的の、ワイバーンの中ではおとなしい種類である。

 身体が大きい割に翼は小さく、空を飛ぶことはあまり上手ではない。その代わりに脚は丸太のように太く、爪はどんなものでも容易に抉り取る。――。


 ――……ランタンの灯りで、闇の向こうにうっすらと、カフェトランの知識とたがわない姿の怪物が横たわっていた。

 傍らには林檎などの果実や肉や魚、……残飯のような物までもがぐちゃぐちゃに混ぜ合わされた“餌”が積まれていて、空の荷車が隣で倒れていた。ワイバーンは口の周りを餌で汚しながら、その場に寝そべってじっとこちらを見据えていた。


「……なかなかの迫力だな」


 流石の丸焼きも、間近で見るワイバーンには息を飲んでいた。それはカフェトランも同じ。恐ろしい毒を持つ怪物、人間のように二足で歩き武器を操る怪物、翼もないのに飛ぶ怪物……様々な怪物を相手にしてきたが、単純な大きさというのは本能的な恐怖を煽る。


 それになにより目だった。闇の中で輝く、こちらをじっと向いている濁ったオレンジの瞳。それはすべてを見透かすようでいて、それでいて全てを無関心に見ているような無機質でもあって――不気味、だった。脚が、竦んでしまいそうになる。


「丁度食事の真っ最中でしたね」


 しかしヤリニケラは恐怖や緊張など抱いていないようで、アリツクシラを見るとにこっと微笑み、早足で傍に寄って行った。

 そして信じられないことに――目の下の鱗の薄い部分を、手の甲で三度、撫で上げた。


 もちろん彼にとっては普通のことだということは分かっている、だけれどワイバーンを手なずけていない者――つまり普通の人間からすれば、それは夢とか幻覚とか、そう考えた方がしっくりくるあまりに非現実的なものに見えた。


「……ニルスの姿が見えませんね」


 ヤリニケラはアリツクシラに手を置いたまま、ランタンで辺りを照らした。

 この洞窟の最奥は円状に開けていて、その半分近くをワイバーンが占領している。ランタンを少し掲げるだけで、その灯りは簡単に反対側の壁に届く。だから、ここには他に誰もいないことはすぐに分かった。

 丸焼きなら何か見えるんじゃ、と思って彼女を見るが、しかしゆっくりと首を振るだけだった。


「……一体どうしたのでしょうか。用を足しにでも行ったのでしょうかね。何か分かりませんか?」


 ヤリニケラが冗談っぽくアリツクシラに尋ねる。当然その巨体が何かを答える訳もなく、ただじっと、瞳にぼやけたヤリニケラの姿を映すだけだった。


 ……何か、嫌な予感が頭をよぎったのは、その時だった。


「……おい」


 ……丸焼きも、ほとんど同時に同じ疑念を抱いたようだった。


 二人はヤリニケラの隣……アリツクシラの前に並んだ。カフェトランはランタンでアリツクシラの瞳を照らし、彼女は手傍に転がる餌の中から林檎を手拭い越しに拾い上げ、顔に寄せた。


 アリツクシラのオレンジの瞳。その中でくっきりとした輪郭を刻んでいる、丸くて真っ黒の瞳孔――光を当てても、その形は変わらないのだった。


「うっ……」すぐ隣で丸焼きが呻いた。「何だこりゃ……鼻が焼けるところだった……」


「……ということは」


「ああ」


「……ど、どうしたんです? 何が、何なんですか?」この中で唯一状況の理解できていないヤリニケラが、頭に大きな疑問符を浮かべていた。「お二人とも、どうしたんですか」


 ……私たちは頷いて、


「死んでいます」

「死んでるんだよ」


 静かに、確かに、そう告げた。


「……は?」


「死因は毒殺。餌に混ぜられた猛毒が原因だ。これは――」


「恐らくサフ・ラスの毒ね」丸焼きから林檎を受け取って、慎重に鼻に近づけたカフェトランが言った。「サフ・ラフはエルフ領にしかいない竜で、その意味は“苦しみ終る”。毒を持つ数少ないワイバーン……」


 サフ・ラスの猛毒は、ごく稀に狩りに用いられることがある。カフェトラン自身がこれを活用したことはないが――幼い頃に村を上げてのワイバーンの狩猟がおこなわれた際に、サフ・ラスの毒を塗布した毒矢を作ったことがある。


 口や目を含めた体中を覆っての作業だったにもかかわらず、作業の途中にカフェトランは倒れ、三日目を覚ますことはなかった。意識を取り戻したころには狩猟が終わり、自宅のベッドで妹と長老に看病をされていた。


「……毒?」わなわなと、ヤリニケラの唇は震えていた。「毒。毒なんて、そんなもの、私の竜が死んでしまうではないですか」


「ええ、だから……死んでいるんです」


「死んでいる? 竜が? どうして?」


「それはサフ・ラスの毒で……」


「毒?」


「だから――」


「もういい」と丸焼きがカフェトランの肩を引いた。「何を言っても無駄だ。……もう、まともじゃない」


「ふふふ……」


 ヤリニケラは何故か笑っていた。力が抜けて、気が抜けて、大事な何かが切れてしまって、体中の筋肉が緩んでそこに座り込み……力なく笑っていた。「ふふはは……」。その姿を見て居られなくて、カフェトランは視線を逸らした。


 と、逸らした先――アリツクシラの身体の陰から、何かが飛び出すのが見えた。

 それは人影だった。足跡を押さえることもせずに、ばたばたと一目散に駆け出して洞窟の出口へ向けて駆け出していった。


「貴様――」


 その人影が視界に映った途端、脱力していたヤリニケラの身体は跳ねるようにして立ち上がり、そのまま目を疑う速度で人影を追いかけていた。貴様。ニルス。走りながらぶつぶつと呪詛のような言葉を唱えていたが、かろうじて聞き取れたのはその二言だけだった。


「その、餌やり当番だったニルスという男が殺したのだろうな……」毒餌の山と動かないアリツクシラを交互に見ながら、丸焼きが嘆息交じりに言う。「しかし一体なぜ……?」


「……おそらく彼は――最初からそのつもりで、この村に居たんだと思うわ」


「……ああ、そうか、そういうことか。異端であるヤリニケラのたくらみを妨害するために潜入していたのか……」


「サフ・ラスの毒はそう簡単に手に入るものじゃないわ。価値はもちろんとして、エルフの狩人の間でごく少数だけ流通してるの。エルフ領の外で、アリツクシラを殺すほどの量を手に入れるだなんて……」


「不可能だと?」


「……そうとまでは言わないわ。でも、相当な時間と労力がかかっているのは、確かね。ずっと昔から、毒を集めつつ、様子を窺っていたんだ……」


 おそらくこの犯人にとっても、カフェトラン達がやって来るのは想定外だったのだ。それで咄嗟とっさに隠れて、様子を窺い、逃げ出した……。


「なんか、なんて言うか、」


「ええ」


「宗教ってのは、やっぱり、私にはよく分からんね」


「……ええ」


 全く、カフェトランは頷くしかなかった。

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