竜の居ない洞窟(2)

 カフェトランは目を覚まして、そして今まで自分が眠っていたことを知った。


 ……眠っていた? その事に酷く違和感を覚える。それにこの光景にも、だった。

 自分はこの川べりを知らないし、眠ろうと横になった記憶もない。どうにかして目を覚ます前の記憶を手繰たぐり寄せようとする――しかし自分がどこで何をしていたか、その部分の記憶はぽっかり抜け落ちてしまったのかのように思い出せなかった。


 いや、分かる。自分が意識を失う瞬間のことは思い出せないものの、自分に何が起こったのかは察せられた。連合の追手から逃げ、まともな食事も睡眠もとれないまま、今いる場所が地図のどこかもわからないまま彷徨さまよい続け――そして意識が消えたのだ。


 逃走の過程で、同じように記憶が抜け落ちることは多々あった。おそらく極度の疲労でほとんど気を失ったまま走ってるのだろう、気が付いたら全く知らない場所で倒れているのだ。これも、おそらくそれなのだろう。


「ん、目が覚めたか……」


 ふと、声が聞こえた。涼しげな女の声だった。

 咄嗟とっさに身体を起こそうとするものの――身体は芯が抜けてしまったかのように、力が入らない。それでもどうにか上体を起こし、声のした方に身体を向けた。


「うっ……!」


 目に鋭い痛み。思わず顔を覆った。恐る恐るまぶたを開いて、寝起きの目に焚火たきびの眩しさが突き刺さったのだと理解した。そして焚火の向こうで岩に腰を下ろしていたのは――。


「……ダークエルフ――!」


 その人物はゆっくりとカフェトランに視線を向ける。ガラス玉のような、何の感情も些細ささいな意思も窺えない無機質な瞳に、カフェトランの赤さび色の毛髪を映した。

 彼女は小さく口の端を吊り上げた。それが冷笑のような微笑みであることに、カフェトランはすぐには気が付けなかった。


「……ダークエルフか。私たちは基本ナイトエルフと名乗ってるんだが……まあ、好きに呼ぶといい」


 彼女はもう一度小さく笑うと、そばの焚火の様子を窺った。


 カフェトランは咄嗟とっさに自分の太ももに手を伸ばした。が、ない。愛用のナイフが失くなっていた。そこでカフェトランは自分の格好が変わっていることに気が付いた。いつも身にまとっているものではなく、見慣れない薄ぺらい肌着に変わっていたのだ。


「あたしの荷物をどこにやった――!」


「別に盗んでないよ。そんな、大したものもなかったし」


 そう言って、ダークエルフはカフェトランのすぐそばを指さした。そこには彼女の愛用の雑嚢ざつのうと、その脇に折りたたまれた衣類や武器類が置かれていた。


「……一体どういうつもり!?」


 カフェトランはダークエルフを睨みつける。しかしダークエルフは、頬杖を突きながら興味なさそうに「何が」と言うだけだ。


「まさかあたしを助けたの? ダークエルフが、エルフのあたしを?」


 カフェトランは自らの胸に巻き付いていた包帯を剥ぎ取る。しかし傷口に張り付いていた包帯を乱暴に引きはがしたものだから、針で刺してそのまま引き裂かれたような、鋭い痛みが走った。遅れてじわっと血が染み出す。

 痛みに表情を歪めるカフェトランを見て、彼女は目を細めた。


「行き倒れてたから助けた、ただそれだけ」


「そんな訳!」カフェトランは声を荒げる。


「あのね、」だから嫌だったんだ、と言わんばかりに、彼女は大きなため息を吐いた。「ナイトエルフとエルフは犬猿の仲、だなんて言われるけど、あんたらが私たちを勝手に嫌ってるだけじゃないか。私たちはあんたらのこと、別にどうとも思ってないから」


 別にエルフに興味がない訳じゃない、ただ等しく興味がないだけ。言葉通りのひどく冷めた目でカフェトランの顔を一瞥すると、彼女は焚火に身体を向けてしまった。灰色の身体にほむらの生み出す淡い光が吸い込まれる。


「なんでエルフが私たちのことを敵視するのか知らないけど、故郷を持たない私たちにとっては、どの種族も同じ、どいつもこいつも“自分以外”。どうしてあんたたちが私たちのことを嫌うのか、私たちからすればそれが不思議だ」


「……以前、旅の途中でダークエルフに襲われたことがあるわ。私だけじゃない、ダークエルフに殺された同族の話はいくつも聞いたことがある」


「エルフだって私たちの同胞を殺した者は少なくないだろう?」唇を薄く引き伸ばした。「私たちは関心がなくとも、お前らはそうじゃない。森で一目私たちを見れば、いつもはケチケチしてる矢を惜しまずに打ってくる。だから私たちは自分の身のためにエルフを殺すんだ。何かされる前に殺すんだ。でもそれは生き延びるためのまっとうな考えで、あんたらみたいに差別意識は無い」


「……」


「差別をする方にしろされる方にしろ――それを殺しの理由をするやつは多いけど、どっちにしてもそんなの、それらしい理由付けと私は思うね。持て余した暴力衝動を、それっぽい理論で振りかざしてるだけさ。その証拠にって訳じゃないけど、これといった被害も思想もないのに“血脈”に染まるやつも少なくなかっただろう?」


……カフェトランがばつの悪そうな表情を浮かべているのを見て、ダークエルフは苦笑を浮かべた。「性に合わなずお喋りになってしまったな」。彼女は枯枝を焚火に放り込んだ。


「まあいい、この話は終わりだ。食べるか?」


 彼女は焚火にかざしてあった焼き魚の串を一本引き抜き、カフェトランに差し出した。肘から手首くらいまでの、やや大振りの魚だった。「毒でも入ってると思うなら、捨てても構わないけど」。冗談めかしてそう言うと、肩をすくめた。


 カフェトランは黙ってそれを受け取った。……ダークエルフが渡してきたものだ、信用ならない。そういう気持ちは勿論あったものの――食事。久しぶりにありつける、まともな食事。どうしても、本能には抗えなかった。

 食欲ではなく、生存欲。カフェトランには、生き抜くために最低限必要な栄養すら不足していたのだ。


 恥も見栄も捨てて、魚に喰らいつく。しかし噛みちぎった魚の身に舌が触れた途端、えぐみと苦みが味覚を襲う。まさか本当に毒が――? 

 しかしすぐにそれが誤解だと気付く。


「これ、なんにも下処理してないじゃない……」


 ぴりぴりと舌を刺激するの味に表情筋が引きつる中、なるべく舌に触れないようにしてどうにか飲み下す。「その苦味がいいんじゃないか」。自らも魚に喰らいついてから、彼女は言った。


あゆとかならともかく、これくらいの大きさの魚は内臓を取った方がいいわよ」


「どうして?」


「肉食の魚は、虫とか蛙が胃の中に残ってることがあるから」


「エルフなのに虫も蛙もダメなのか?」


「それが毒を持ってる種類だったら危ないでしょ!」


 しかし彼女は、「毒があれば舌で分かるさ」と、カフェトランの言葉をまともに捉えていなかった。「私は慣れてるから、飲み込まなきゃ平気だしね」。


「……あたしは、内臓は遠慮させてもらうわよ」


「お好きにどうぞ」


 カフェトランが丁寧に内臓を取り除く様子を横目で見ながら、ダークエルフの旅人は魚の身を小さく齧った。


……カフェトランの妹は“味を楽しむ”という、娯楽としての食事にあまり関心がなかった。特に幼い頃は酷いもので、ほとんど咀嚼をせずに、飲み水で流し込むようにして飲み込んでいた。

 胃に食べ物を詰め込むことだけを目的にしているような食べ方をする妹に対し「最低でも十回は噛みなさい」と注意をしたのは一体何十回になるだろうか。


 ……そんなカフェトランが「そこまでしなくていいんじゃないか」と言いたくなるほど、そのダークエルフはずっと顎を動かして、延々と魚の咀嚼を続けていた。

 結局先に完食したのは、手間をかけて食べていたカフェトランの方だった。


「……あたしは、アーフェンのカフェトラン」


 ようやく彼女が焼き魚を骨だけの姿にしたところで、カフェトランは気まずさを隠しきれない声色で名乗った。


「……?」ダークエルフは喉を動かしながら首を傾げ――「ああ」、合点がいったように頷いた。「エルフは姓の代わりに出身地を名乗るんだったか」


「そうよ」


「アーフェン……村? 聞いたことないな」


「エルフ領でも辺境よ。トロル領のすぐ傍」


「ああ、あの辺りか……」


「……それで、そっちの名前は?」


「名乗る必要、ある?」


「……っ」ぴく、と眉が動くのを感じた。


「冗談だよ」と彼女は笑った。「私の名前は、」


 そこで一旦言葉を切って、すう、と息を吸い込んだ。


「『淡泊たんぱくで落ち着き払った丸焼き』――もう一度言った方がいい?」

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