第四十話 黒面のレイス
……まあ、見間違えただけだろう。
円状の空間だから、方向感覚が狂っただけだ。そう考えて辺りを見回す――しかし思考のずっと奥底の感覚つまり直感は、けたたましく警笛を鳴らしていた――そして、案の定、フォズは階段の姿を捉えられなかった。
「えっ……?」
「き、消えてます……よね?」
信じられない、といった調子でマルゥクが呟いた。その声は驚愕の色を帯びていたが、すぐに恐怖に震えだす。
「じゃ、じゃあ、ぼ、僕たち……」
「……っ!」
遅れてローニャンも気が付いた――動いたのはローニャンが一番早かった。彼女は階段があったはずの場所へと駆け寄ると、外壁、それと墓石に手を触れる。フォズとマルゥクも彼女の隣に並んだ。
「ろ、ローニャンさん、なにを……?」
「……この壁や石が本物か確認してるんですよ」
「そうよ。でもこれは――」
こういう手合いはフォズも経験したことがある。決して経験豊富とは言えないが、幻覚を操る怪物は少なくない。しかしこれは……。
「――触れられる。感触がある。ただの幻覚じゃないわね……」
ローニャンが手の甲で軽く墓石を叩く。たん、と音が反響する。……これはただの幻覚ではない。質量がある幻など存在しない。
「力のあるレイスは現実に干渉できる。存在しないはずの自分の姿を人に見せてる訳だから、同様に臭いや音を“この世に存在するかのように”発することができる。……その延長線上として、自身以外のものの現象を操れるのよ」
ローニャンの解説に答えるように、フォズ達の鼻腔がある臭いを捉えた。鼻に付く、どんよりと鈍いのに刺さるようにつんと鋭い――簡単に言うのならそれは腐臭だった。
だけれどそれだけではない。腐臭の奥に、まるでビャクダンのような、すっきりとしたさわやかな甘い香り。
「腐臭と香……覚えておきなさい、これがレイスの臭いよ」
「慣れたくは、ないですね。……――!」
背後に気配があった。反射的に振り返ると、そこにはドレスを纏った女性の姿があった。ドレスの造詣には明るくはないが、それが相当に古めかしいものだということは分かる。
これがレイスだということは直ぐに分かった。
状況的にもそれしかありえないのだけれど、身体が芯、言うならば魂が、凍えて震えるような感覚があったからだ。
肝心の顔は――分からない。灯の光が当たっているはずだし、頭髪がかぶさっている訳でもないのに、何故だか影のような闇に覆われてしまっていて、眼孔や鼻などの僅かな凹凸すらも認識できなかった。
唯一見える特徴らしきものは尖った耳。それはエルフであることを示していた。
「ひっ……」
マルゥクが息を飲む。ローニャンがマルゥクを庇うように一歩前に出た。
「随分と姿がはっきりしてる……」
「……これは、普通じゃないんですか?」
「ええ。もっと……誰しもが想像する幽霊って感じ。半分透けていて……。それに顔も――普通なら腐乱死体みたいな顔してるの」
「それほど強い力を持ってると……」
「ええ。自分の見た目に気を遣えるくらいね」
ローニャンはドレスのレイスを睨みつけるが、彼女は呆然とこちらに顔の正面を向けて突っ立っているだけだった――と思いきや「お、おおおお、おお……」。言葉に無理矢理直すのならそんな“音”を鳴らしながら、右腕をゆっくりと振りかぶった。
いつの間にか彼女の手には剣が握られていた。ローニャンの身体よりも長い、剣と鍔、柄が一体となった、奇妙な形の剣だ。
刀身には墓石に刻まれたものと同じような文字が刻まれ、鍔は不自然な形にうねり、踊っている。柄は鉄がむき出しで皮も縄も巻いていない。
観賞用、もしくは儀式用の剣だ。人を切るためのものではない。
だけれど、相手はそんな常識は通用する相手ではない。
「お、おおお……」
音を鳴らしながら、レイスが剣を振り降ろした。フォズは弓を取り出しながら、ローニャンはマルゥクを抱えて、それぞれ反対方向に飛んだ。
剣が振り下ろされた場所は、杭で穿ったかのように石畳が抉られていた。しかし破壊音はまるで聞こえなかった。溶けるように。まるで石畳が抉られることを許容したかのように……。
フォズは弓を構え、流れる動作で矢を射った――矢は吸いこまれるようにレイスの胸へ――矢じりがレイスのみぞおちに食らい付いた――と思ったのもつかの間だった。矢は彼女の身体を通り抜けて背後の壁へと突き刺さった。くそっ! フォズは続けて二本目、三本目を、今度はレイスの顔へ。しかし結果は変わらなかった。
「とりあえず逃げなさい!」
ローニャンが怒鳴った。「獣や怪物と同じだと思わないで! 相手はレイス、合理から外れた存在なのよ!」。そして続ける。「合理的に、生物的に動く獣とは真逆、あんたみたいなやつにとって天敵なんだから!」
おおおおおおお――レイスがまたもや音を鳴らす。ぞく、と、フォズの身体が動きを止めた――止めてしまった。それは恐怖。恐怖だった。レイスに睨まれた、見つめられた。あの黒いのっぺらぼうで睨まれた恐怖で、身体が、脳が、一瞬停止した。
そしてレイスが動いた。足を動かさず、かといって宙をつられているという動きでもなく、剣を振り降ろした姿勢のまま、まるで床や世界がずれるようにして――フォズの後ろに回り込んだ。
「――!」
素早い動きだったが、反応できない速度ではなった、反応できたはずの速度だった、しかし――もちろんレイスの動きは警戒していたのにもかかわらず、フォズは対応することが出来なかった。
フォズは狩人である。獣の、生物の狩りのプロフェッショナルだ。生物の動きは合理的で、動作にはすべて意味がある。息を止めたら行動の合図、毛が逆立ったら警戒のサイン、というように。その動作から相手の行動を予測し、先回りし、追いつめる――それが狩人の能力である。
だからこそ、フォズは対応することが出来なかったのだ。非合理的な、姿なんて意味を持たないレイスだからこそ、そしてフォズが油断せずレイスの動きの機微に気を払っていたからこそ、フォズは背後を許してしまった。
レイスは剣を持ち上げる勢いのままフォズを薙ぎ払おうとした。慌てて前に飛ぼうとするが――身体が動かない。恐怖、それと驚愕。
時がゆっくりに感じる。こういうことはまま起こる。命を奪う時、そして奪われる時。だけれど遅く感じるだけで、つまり思考が働くだけで、身体はそれに付いて行けないということも知っている。
捻った首の視界の隅で、剣が迫って来るのが見える。近づく。近づく。近づく。
「――ズさんッ!」
時が加速する――視界の中で何かが弾ける、熱が肌を焼く、悲鳴のような音が鼓膜を叩く――フォズはいつの間にか石畳の上に倒れ込んでいた。
「こ、このために、僕が、付いてきたんです!」
フォズの視線の先では、震えながら、恐怖に顔を青くしながらも、右手を顔の前に突き出したマルゥクが立っていた。彼の指先は、わずかに電気を帯びていた。
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