第七話 歩みを止めてはいけないよ

 布袋を握り締めたままエトバルが去った後の扉を見つめていたフォズは、鳥の鳴き声を耳にして慌てて動き出した。


 フォズがこの村を立つことは、姉の事情と同じようにエトバル以外には告げていなかった。別にやましいことだとは思っていないので隠しだてする理由もないのだが、何となく、言わない方が良い気がしたのだ。


 ほとんど片付けもせず、机の上に村の皆へ宛てた置き書きだけ残して、後はそのままにしておいた。自分はあくまで姉に会いに行くだけ、目的を果たしたらその後この村に戻ってくる、その意思の表れだった。


 姉に会ったところで、自分がどうするかは分からない。説得するかもしれない。それに彼女が応じないかもしれない。むしろ姉に同調して自分が”染まって”しまうかもしれない――どのような道を選ぶかは分からないが、いずれにせよ一度必ずこの村に戻ってくる。フォズはそう決めていたのだ。


 こうしている今も日は昇りつつある。出立は少しでも早い方がいい。今日中に森を出ることは叶わないだろうから、少しでも早く村を出て、安全な場所に今晩の寝床を作っておきたい。

 ここ最近森の獣の様子がおかしいという話もある。フォズは差し込む朝日の眩しさに目を細めながら、背嚢の荷物の最終確認を済ました。


 ドアの前に立ってから、何気なしに振り返り、家の内装を一通り眺めた。箪笥たんすが一つ、机が一つ、寝台と椅子が二つずつ。目に付く家具なんてそれくらいで、あとは細かい雑貨のみ。

 二人だけでも狭かったこの家。一人になってもやはり狭くはあって、でも広く感じた小さな家。しばらくここともお別れだ。


「…………」


 フォズはもう一度机と椅子を見つめると、ぐっと目を瞑った。背嚢はいのうに括った弓を、指先で撫でる。彫り込まれた意匠を、爪でなぞる。これは姉からのお下がりだった。まだフォズが幼いころ、姉の使うこの弓をずっと羨ましがっていた。


 お姉ちゃんが狙ったところに矢を射ることができるのは、きっと弓が良いものだからに違いない。自分の技術を棚に上げたひがみでしかないが、本気でそう考えている時期もあった。

 そんなフォズの幼稚な言葉を覚えていたのかは分からないが、カフェトランが村を立つ数日前に、この弓を譲ってくれたのだ。……。


 正面に首を戻してからまぶたを開き、もう彼女は振り返ることは無かった。ノブを捻り、押し、他の村人の気配を窺いながら、慎重に村を後にした。




*




 村を出てから半日ほど経ってからようやっと気付いた、というか思い至ったことがあった――エトバル様はあれほどの大金をどこから用意したのか、ということだ。


 あの時は旅に出る興奮と緊張で深く考えられなかったが、エトバルはもう狩りも何もしていないから、財産なんて殆ど持って無いはずなのだ。そもそもこの村の貿易は物々交換で成り立っているから、貨幣なんてもの、わざわざ求めなければ手に入らない。


 まさか――――。


「……っ」


 その懸念の先は、考えないようにした。だとすればあまりにも申し訳なさすぎる。有難すぎる。自分は村に対して何もできていないのに、村の人たちはこんなに良くしてくれたのだ。


 村に引き返して、ちゃんとお礼を言いたかった。黙って出てきて申し訳ない、ありがとう、ありがとうと、そう言わなければならなかった。まだ村を出たばかりなのだ、今なら戻れる。……だけれど彼らがそれを望んでいないということも、分かっていた。


 黙って村を出ようとしている自分にこれほどの大金を持たせてくれたのだから、ここで引き返すことは彼らの気遣いを無下にすることになってしまう。だから、その想いを受け止めて。このまま旅を続けなければならないのだ。


 必ず、帰ろう。フォズは改めて誓った。必ず村に帰る。帰らなければいけない。そして皆に謝って、お礼を言うのだ。フォズは背嚢はいのうの、貨幣の詰まった布袋をしまった辺りに手を当ててから、止めていた脚を動かした。

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