第七章 帰る場所など

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 絶え間なく響く雑音が耳に障る。駅構内を埋め尽くすほどの人の波をかき分けるように、目的の路線に向けて歩いていく。肩から下げたバッグがあたらないように慎重に進まねばならないが、ノロノロしてても後方からくる人の迷惑になるので、そちらにも注意を払わねばならない。相変わらず気の休まる場所ではないと骨身に染みた。


 どこに行っても人、人、人、これだから嫌なんだ。


 つくづくこの街の高校に行かなくてよかったと、実感する。穂高は帰省のために、実家のある横浜まで帰ってきた。

 奏との旅行から一週間ほど経っており、彼女もお盆は一度帰省する、とのことなのでお互いにタイミングを合わせる形で知瀬を離れることにした。

 彼女との旅は、思い出すだけで頬が緩んでくるほど楽しいものだったが、それゆえに知瀬に帰った後も離れるのがつらく、そのまま奏の家に泊まりこんでしまった。

 静かな高原で彼女と過ごした時間を思えば、今ここの喧騒が煩わしくしかたがない。奏もあまり帰省には乗り気ではなかったようだが、穂高に気をつかってか彼女の方からその旨を伝えてきた。彼女の祖父の会社であった三崎貿易の方で、処理しなけらばならない事柄もあるらしい。一時の別離とはいえ、ひどく寂しそうな表情を湛えて、何度も抱擁してからリニアに乗り込んだ。


 リニアのある駅から乗り継いで、この市のハブ駅までやってきた。そこからさらに実家の最寄り駅の路線まで行く。

 ようやく目的の路線まで来たが、

「……ッ」

 舌打ちしてしまった。ホームには溢れんばかりの人だかり、やはり時期をずらした方がよかったかもしれない。

 やってきた電車は当然満員、手荷物は最小限の衣類しかないが、それでも迷惑がられるだろう。内部まで進むと、バッグを足元に置いて吊革をつかむ。古ぼけた材質で、使っていた人間の体温が感じられ気色悪く思ってしまう。電車が発車すると、勢いに揺られてのけぞりそうになってしまった。

 知瀬に比べてなにもかもが前時代的だと思う。あそこでの暮らしが日常化した穂高にはそう感じられるのが、この街だった。


 窓の外を見れば、絶え間ない車の群れ、電機駆動車や水素車への入れ替えが遅れており、汚らしい排煙をこれでもかというほど空に打ち上げている。

 さらに進むと考えもなしに乱立されたまま放置されたゴーストタウンのような古ぼけたマンション群が視界に入ってきた。二十世紀に造られたものすらある。解体処分を悠長にやっていたせいで、勝手に住み着く人間が現れ、壊すに壊せなくなってしまったのだ。あたり一帯は半ばスラム化しており、街の治安上の大きな不安定要素となっている。

 複雑に絡み合った利害の糸は決してほどけることはなく、場当たり的な弥縫策を重ねるだけでひたすら問題を先送りにする。加えて人権や環境の保護を名目に遅々として進まない再開発、かつて憧れる人々も多かったであろうこの都市は、今や時代から取り残された掃き溜めの様相を呈していた。


 みんななんとなくここで生まれて、なんとなく生きてきたってだけなんだろ、この街を出ていく気概も意気地もないから……!


 唇を軽くかんだ。そのような考えは、ここに残ったかつての同級生たちに失礼だと思い、思考を中断する。


 俺は……母親が遺してくれたお金と市からのBIで生きているだけの小僧に過ぎない……。そんなこと言える資格なんてない……。


 そう自戒した。徐々に住宅街に近づき、空いた座席に腰を落とした。話し声のする方向を見ると、中学生くらいの子どもたちが歓談している。どこかのスポーツ施設かプールから帰ってきたのだろうか、スポーツバッグを抱えていた。目をそらす。自分が避けていたものを、彼らは持っている。どことなく劣等感を覚えてしまった。


 俺ってやつは……。まだあのことを引きずって……少しはマシになったかと思えば、


「うるせえよ!」

 突然の怒号に息が詰まりそうになった。自分が言われたのでは、思いかけたが口に出した覚えはない。目をやると、中学生と思しき集団に誰かが罵声を浴びせたのだと理解した。

「電車の中だぞ、ボケ!」

 怒り心頭の男を見る。年の程は五十代だろうか、無理に若さを演出するようなファッションだが、頭皮の一部が露出している。

「何様のつもりだ、ガキども!」

 男の声が怨嗟含みになってきた。少年たちは、気まずそうに沈黙している。確かに彼らも少々やかましかったが、今となっては男の方が迷惑だろう。


 あれが大人か、いい年して……。


 辺りも、男に軽蔑めいた視線を送り始めたが、止めようとする気配はない。面倒ごとには首を突っ込まないようにするのが大都市での処世術と言えるが、情けなさも感じる。

 ため息をついてから、立ち上がった。

「お兄さん、お兄さん」

「ああ⁉」

 案の定、仲裁役にも食ってかかってきた。

「もう、その辺でいいでしょう。彼らも反省してるでしょうし、ここは穏便に」

 昔見たドラマを真似て言って見せた。

 男は不服そうな顔だったが、辺りの非難がましい空気を感じ取ったのか、舌打ちすると別の車両に移動していった。

「ハァ……」

 息を吐いて、シートに再び腰掛ける。半年前の穂高だったら間違いなくうつむいてやり過ごしていただろう。一つの影が、落とした視線の先に現れた。

「あの……ありがとうございました」

「いや……」

 手振りでもういいと知らせる。少年たちももう喋ることはなかった。

 帰省初日でいきなり嫌なものを見せられた気分になった。


 余裕がないんだ、ここの人たちは……。


 窓から、工業施設の煙害で澱んだ夕暮れの日差しが差し込んできた。


 地元駅に到着すると、多少の懐かしさを感じたが、ここで自分を知ってる人間など父以外いないだろう。帰郷というには寂しい現実だが、自分で選んだ道の帰結するところに過ぎない。


 俺は、ここで他人を尊重する生き方をしてこなかった、当然の結果、当然の流れだろう……。


 重苦しいものを感じつつ駅を出た。半年でなにが変わるというわけでもなく、駅前町もほぼそのまま、翻って駅を見る。ここを出立したあの日、不安を握りつぶすようにここのエスカレータを上がったあの記憶を想起した。

 近くのロータリーでは、夏祭りの案内が電光掲示板に表示されていた。昔、母に連れられて行ってからは一度も行ってない。行きたいとすら思わなかった。

 自宅への歩みを再開させる。すでに十六時回っている、知瀬駅で奏と別れたのが十四時頃であったので、二時間ほどで帰ってこれた、という事実に多少驚いた。


 その気になれば自宅通学できるかもな、絶対ごめんだけど……。


 リニアの料金は高いので、現実的な選択肢ではない。

 自宅近くの住宅街はどこか閑散としていた。お盆で、帰省している世帯が多いのだろう。父の出身も横浜なので、穂高にはここ以外に故郷と呼べる場所はない。母の両親や親族についてはまったく知らない。葬式にも来なかったのだから絶縁したか既に故人かのどっちかだろう。唯一の親族だった父方の祖母も二年前に見送った。


 父さんはもう一人なんだよな……。ああ、俺を除けば、だけど……。


 そんなことを考えているうちに、自宅へと到着した。ドアの前に立つとフォンを押そうかと思ったが、やめにした。指をかざすと指紋認証でドアを開き、家に入った。この日に帰ることは一応伝えてある。

殺風景な玄関には、靴一つ置いてない。


 いるわけないよな……。


 父の不在を確認すると、階段を上がり二階に向かう。上がってすぐ左の部屋のドアを開いた。

 予想通りなにも変わっていない自分の部屋だった。かなりほこりっぽくなっていたので、窓を全開にして、エアコンの排風機能を使う。適度に、空気を入れ替えた後、網戸を閉めてベッドに横たわった。

 寝っ転がると本棚が目に入った。書物はEノートをはじめとする電子ストレージにまとまる時代なので、本棚というのも無用の長物になりつつある。それでも穂高の部屋には、受験勉強で使った紙媒体の参考書と古い絵本が数冊残っていた。

 セミの鳴き声が聞こえてくると部屋を出た。食料は備蓄があるだろうが、手をつける気にはなれず買い出しに行こうと思った。

「……」

 階段を降りようとしたところ、母の部屋だった部屋の戸が見えたが中に入ることはしなかった。

 リビング隣のキッチンまで行き、一応冷蔵庫の中を確かめる。パック食品とビール、天然水のボトル、あったのはそれだけだった。


 相変わらず、不摂生だな。


 以前は穂高も似たようなものだったが、奏の手料理を食べていくうちに栄養バランスというものを実感として理解できるようになっていた。

 家の外に出ると庭に止めてある自転車の鍵に指をあてる。久々だったので少々不安だったがちゃんとこれも認証してくれた。


 さて、取り合えず商店街のスーパーにでも……。


 学生向けのフードコードなどもあるので顔見知りと会うかもと思いかけたが、そんなこと気にしても仕方ないと思考を改める。


 俺のことを気にかける人間なんてここにはいない……。俺の顔を知っていたとしても、何事もなかったかのように視線を外すだけだろう……。


 自転車にまたがり、家を後にした。

 道に出ると住宅地だというのにあちこちを無人タクシーが徘徊している。帰省客目当てなのだろうが、いい迷惑だった。


 昔からこうだ、違法じゃないからそれでいいと思って。事故でも起こしたらどうするつもりで……。


 あの記憶を想起しそうになり、振り払うようにペダルを踏んだ。

 適当に今日と明日の朝、食べる分だけ買いこむと帰路につく。選挙が近いのか、商店街の広間ではどこかの政治家が演説していた。途中、あるものが目に入った。


 これは……。


 昔、遊んだ原っぱが立ち入り禁止のバリケードテープで覆われており、ポンプ場の建設が行われていた。

 老朽化に伴う解体と建設、人口需要を満たすため常に街のどこかで工事が行われている。もはや街そのものに寿命が訪れているのだ。

 根本的な問題は過剰な集住と合理性だけを求めた旧時代以来の産業の集積にあるのだが、経済秩序の力学としてそれを矯正するには、牛のような歩みで進めるしかない。


 知瀬を築いた人たちはこういうのに嫌気がさして、各都市を飛び出してきたのかもな……。


 ここに限らず、二十世紀以来の大都市の多くが抱える病理である。

 買い出しを終えて帰宅すると、テレビをつけてぼんやりするだけとなった。一人で自宅にいることにわびしい気持ちなど以前はしなかったが、今はどこかむなしいものを感じる。星緑港で色々な人たちと出会い、関係を構築して人間らしい生き方を知ってしまったからなのだろうかと、考える。

 ふと、奏と連絡が取りたくなったが自重する。向こうも金沢に着いたばかりで忙しいだろう。メッセージだけを送ることにした。

 返信はすぐに来た。ちょうど金沢駅を出て、自宅に向かうUVの車内と知らされた。

「ハァ……」

 大きくため息をついて、彼女の顔を映した平面映像に見入ってしまう。お互いにたった二日とした帰省だが、ひどく長く感じられる二日になると予感した。


 勉強でもするか……。毎日、奏と遊んでばかりじゃ頭が鈍ってしまう。


 自室に戻って久しく使っていなかったデスクに肘を乗せた。

 夏休みの課題なんてものはないので、自主的に学習深度を上げるための勉強となる。


 十月までに数学は、クラス6に到達したかったけど、少し難しくなってきたな。やっぱり、奏と一緒の時間が多くなりすぎているんだ……。


 以前から気になっていた懸念事項が骨身に染みる。自分だけならともかく彼女の成績にまでヒビを入れるわけにはいかない。


 つらいけど今度ちゃんと話そう。一番幸せな時期なのかもしれないけど、自重したほうがいい時もある。


 ペンを取った。

 しばらくすると、ドアが開かれるアラームが鳴った。ここの家主が帰ってきたのだ。


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