すなのうつわ

 家にある荷物を整理している最中、俺はその器を見つけた。


 ――この器に砂をこぼすとね、すっごい綺麗な音がするんだよ。


 ミサキはそう言っていた。

 透明な器の底に、わずかに砂が残っていた。確か、公園の砂場から取ってきたやつだ。

 俺は砂をすくいあげ、器にゆっくりとこぼした。砂が器を細かく叩き、甲高くて澄んだ音が部屋に撒き散らされる。透明な水面に陽光があたり、光が乱反射しているような、器の音。どこでこんなものを探してきたのかは分からないが、ミサキはこの音を聴くのが好きだった。

 俺は器を新聞紙でくるみ、段ボール箱に押し込んだ。箱は合計で、ふたつ。ものを持たない人だった。それがミサキの遺品のすべてだった。


 海街に向かい、車を走らせる。

 ミサキは、海のそばで育った人間だった。若いころから病に犯されていた彼女は、サーフィンやウェイクボードといったマリンスポーツに憧れていた。


 ――私と君が入れ替われるなら、絶対にダイビングをやるのになあ。


 ベッドの中、社会人になってからうっすらとついてきた俺の腹の肉をつまんで、ミサキは寂しそうに笑っていた。やらないよ、と毎回答えるのが、少し面倒だと感じたこともあった。

 いまから考えると、それはミサキなりの、防御だったのかもしれない。俺が何かのきっかけでダイビングやサーフィンをはじめてしまったら、ミサキはそれを送り出し、傍観者として見ているしかない。抜け駆けを防ぐための、冗談めいた念押し。俺はそういうミサキのしたたかなところも、好きだった。


 ミサキは二ヶ月前に、死んだ。

 病気のせいじゃない。信号待ちをしている交差点に、車が突っ込んできたという事故だった。

 ミサキと暮らすのがどういうことか、よく分かっているつもりだった。遠くないうちにやってくる喪失への心構えも、できているつもりだった。

 だが、何も分かっていなかったのだ。葬儀の場、遺影に収められたミサキの笑顔を見た瞬間、俺はそれを思い知らされた。

 結局のところ、人は、喪失の準備などできない。やってくる残酷な現実に、否が応でも順応していくしかない。俺はそんなことも分かっていなかった。なんて浅はかだったのか。

 とめどなく嗚咽が漏れ出た。身体の中のものが、残らないのではないかと思うほどの。

 ごとん。

 助手席の段ボールが崩れた。ちょうど信号待ちに差し掛かり、俺はそれを直す。段ボール箱のひとつは、トランクではなく、助手席に置いた。まだ俺は、空っぽの助手席に順応できていない。


 ミサキの実家が近づくにつれ、道路脇に海岸が見えはじめた。穏やかな海の上を、サーファーたちがプカプカと浮いて波を待っている。

 窓を開けた。潮の匂いを感じるのは、久しぶりだった。結局ミサキとは、海にくることはなかったな。

 そこで俺は、道端に目を留めた。


〈すなのうつわ〉


 心臓が跳ねた。白木でできた雑貨屋に、看板が掲げられていた。

 車を停め、店に入る。「いらっしゃいませ」カウンターの奥には、若い女性がいた。

 陳列されてる器は、ミサキが持っているのと同じものだった。砂を入れると音が鳴る不思議な器を、彼女はここで買ったのだ。

「あの――」

 ミサキという人を、知っていますか。女性に聞いたが、彼女は首を横に振るだけだった。

「こちらで器を、お買い上げになったかたですか?」

「はい。彼女の実家が、この辺にあるんです」

「そうなんですか。じゃあぜひ一緒にいらっしゃってください。毎年新作を作ってますし、リピーター割もあるんですよ」

「ありがとうございます。でも――」

 ミサキと一緒にこれる機会は、もうないんです。

 ミサキはもう、この世にいないので。

 女性は、悲痛な面持ちになった。どう考えても、こんなところで話すべき内容じゃない。女性にとってはいい迷惑だろう。俺は謝罪をして、店を出ようとした。

「待ってください」

 女性は俺を呼び止めた。

「ひとつ、お教えしたいことがあるんです」


 海岸。俺は、海を眺めていた。

 手には、器がある。助手席の段ボールから引っ張り出してきた、ミサキの器だった。

 ――この器を、一番綺麗に鳴らす砂が、あるんです。

 俺は砂浜の砂を、すくい上げた。ミサキが育ち、幾度となく踏んできた、海岸の砂を。

 俺はゆっくりと、砂を器にこぼした。

 器は、鳴った。

 いままで聴いたものよりも、はるかに美しい音だった。

 波の音。海鳥の声。この街の音と調和するように、器はキラキラと澄んだ音を立てる。俺はそれを聴きながら、目を細めて海を見た。

 ――ミサキもここから、この海を見ていたのだろう。

 病弱でしたたかな彼女は、羨望と嫉妬と諦念が混ざった複雑な感情を抱えながら、この砂の上から海を見ていたに違いない。器の音を聴いていると、彼女が覚えていた感情の名残が、俺のそばにある気がした。俺は手を伸ばし、それにそっと触れた。

 手のひらから、砂がなくなる。海の音だけが、あたりに残る。

 波がやってきた。サーファーが立ち上がり、水の上を颯爽と滑り出すのが見えた。

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掌編集 lady_joker @lady_joker

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