月の帆

 父はあるときから、ぼくを〈船〉に閉じ込めるようになった。

 家の近くの漁港に、父は底びき網漁船を一艘持っていた。海底を網で漁り、カニやカレイを大量に捕獲する、小さくて力強い船。それは夜になると、ぼくを閉じ込める牢になった。

 きっかけは些細なことでもよかったし、なくてもよかった。父は気まぐれにぼくを海まで連れ出し、船室に閉じ込めて鍵をかける。そしてひとりで家に帰り、気が向くまで戻ってこない。

 ただ、それは、永続的なものではない。父は閉じ込めたぼくを、忘れることはなかった。五分で解放されるときもあれば、日付が変わるころに戻ってくることもある。どんなに長くなっても、必ずこのときは終わる。だからぼくも、なんとか正気を保つことができた。


 船室から見える海は、一面の黒だった。

 空虚な闇のような黒ではなく、重たさを持った存在感のある黒だった。海はアメーバのような原生生物にも見えたし、高度に発達した知性体にも見えた。巨大な質量を持つ黒々とした何かが足元に広がっていて、ぼくが転落するのを待っているようだった。

 怪物の笑いのような波が、船をゆったりと揺らし続ける。満天の星々が、舞台を楽しむ観客のようにぼくを見下ろす。押しつぶされるほどの、孤独。空腹も渇きも何も感じないほどに、夜はぼくを包み込み、畏れで心を染め上げるのだった。

 そんなある日、ぼくはひとつのことに気づいた。

 船室の隅に、小さな穴が開いていた。

 鉛筆の先程度の大きさの、風の吹き込む隙間もないほどの穴だった。そこから、船内の暗闇に、光が入り込んでいる。

 月光だった。

 柔らかく拡散する光が穴によって凝縮され、船室の床に細く差し込んでいる。星々たちの囃し立てるようなギラギラした光とは違い、月光は優しく寄り添うように、船室の床にささやかな模様を描いている。

 ぼくは目を見開いた。これは、偶然だろうか。

 その模様は、帆の形をしていた。


 その日は、父の戻りが遅かった。

 星座の位置で、大体の時刻が分かるようになったのは、随分前のことだ。もう夜中の三時を回っていて、身体は限界まで衰弱しているのに、一向に迎えにやってこない。

 扉を壊して、出てしまおうか。

 鍵は、ノブについているちゃちな円筒錠だ。やろうと思ったら、蹴破ることはできる。

 でも船を壊したら、父にどれほど叱られるだろうか。次は、黒々とした海に放り込まれるかもしれない。

 おなかが、空いたな。

 寝そべると、床は氷のように冷たかった。今日は新月で、月光の帆は床には描かれていない。

 この船が帆船になって、ぼくを遠くに連れていってくれないだろうか。

 月の光が帆になって、黒い水面を照らしながら疾走する。その速度は、漁船では追いつけないくらい速い。ぼくをあざ笑っていた星々は驚き、次第に称賛の声を上げはじめる。

 ぼくを飲み込もうとしていた海も、協力をしてくれる。進む。進む。月光の船はどんどん加速して、黒の上を滑っていく。ここではないところに向かって。もう閉じ込められない、広い場所に向かって。その光景を想像して、ぼくは口元が緩んでくるのを感じた。

 そのときだった。

 床に、帆が浮かび上がっているのが見えた。

 月は出ていないのに、なぜ? 身体を起こしたところで、ぼくは理由を理解した。夜の闇の向こうに、懐中電灯の光が見えた。

 誰かが港を、見回りにきているのだ。

 助けて。思わず声をあげようとしたところで、ぼくは慌てて口を抑える。

 誰かに見つかったら、ぼくはここから助け出されるだろう。そして、父のところに漁師仲間や警察が行き、父は厳重に注意されるに違いない。

 でも、そのあとに待つのはなんだろう? 増幅された、父の怒りだ。見つかったぼくに対して父は怒り狂い、状況はさらに悪化する。取り返しがつかないほどに。

 黒々とした海が、笑った気がした。ぼくの転落を、いざなっているようだった。

 ぼくは身体を伏せ、手を口に当てた。間違っても助けなど呼んではいけない。

 帆が、目の前にあった。頼りなく揺らめいている、帆が。人工的な光によって浮かび上がったそれは、しばらくして、跡形もなく消えた。

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