第61話 歪曲  誕生

 


 夜の帳が降りた別荘の一室での出来事だった。

 女は人目を忍んで手紙を送り、男を招き入れていた。


 夫のいる身でありながら、黒のドレスを纏った伯爵夫人がユリウスを誘惑しようとしていた。

 美しい肢体を包み込む上質なレースから透ける肌と豊満な胸を魅せつける大胆な胸元のカッティングが、夫人の妖艶さを際立たせた。

 夫人は男を誘う為の派手な夜の化粧をして、ベッドにゆったりと腰掛けていた。


 夫人が真っ直ぐに伸びた細い脚を組むと、細い脹脛と男が好む肉厚な太腿が、深くいれたスリットから見え隠れした。

 そのしなやかな脚と引き締まった足首を見せつけるように、脚を組み替えた。

 夫人は男を挑発するかのように微笑んだ。

 今まで夫人が食い尽くしてきた男は、おそらくこの時点で足元に跪き、ヒールの靴を脱がしてから脚を抱えるようにしてストッキングを破り、優雅な脚にしゃぶりついていたのだろう。

 脚を組み替える際に上半身が揺れ、ロングネックレスが豊満な胸の上で踊り狂った。谷間に飲み込まれると窮屈そうに挟まれ擦られながら歓喜の雄叫びをあげた。



 ユリウスは立ったまま全く動こうともしなかった。

 夫人は男が息を荒くしながら自らの身体に覆い被さり、ベッドになだれ込もうとしないのを少し妙に思ったような顔をした。

 しかし、まだ男が理性と戦っているのだろうと思い、夫人はゆっくりと立ち上がった。


 夫人は丸テーブルに置いていたシャンパングラスを手に取った。後ろを向き少し屈みながら、グラスにシャンパンを注ぎ始めた。

 背中を隠す生地はほとんどなく大きく開かれ、羽のような優雅な肩甲骨があらわとなっていた。長い髪の毛をアップにして後毛を少し垂らし、男の指のように艶やかな首筋にまとわりついていた。

 背面を見せながら屈み込むことで、ドレスは不自然なほどに肢体にからみつき、下着をつけていないことが分かるほどに上向きの尻の形を浮かび上がらせていた。

 反吐が出るような情事をくり返してきた女は、男が悦ぶ曲線の魅せ方を知り尽くしていた。


 夫人は濡れたような眼差しで振り返ると、グラスに注いだシャンパスを少し飲んだ。 

 上唇を舐め上げてから滴らせると、綺麗な首筋をとおり胸の谷間に液体が吸い込まれていった。デコルテは汗をかいたように輝き、艶かしい色香を放った。

 真っ赤なルージュを塗ったぽってりとした唇で、男にもシャンパンを勧めた。


 夫人は誰もが振り返るほどの美貌を自慢に思っていたので、誘惑に落ちない男がいることを、この時点でもまだ気付いていなかった。

 ユリウスに体を寄せ、普段は華やかな髪に隠れているうなじから体温と混じった女の香りを漂わせた。ジャスミンとローズが混じったような香りだった。

 けれど男は女に触れようともしなかった。

 誰もが羨む男の方から求められたかったのだが、夫人は待ちきれなくなって、ついにユリウスの手を握った。

 男が何も言わないでいると、微笑を浮かべながら豊満な胸を男の体に押し付けた。押し寄せる波のような胸の柔らかさを強調させるかのように、少し動いてみせた。


 けれど、ユリウスは微動だにしなかった。


 今までの男ならば艶めかしい他人の女の身体に欲情して側にあるベッドで疾うに激しく求め合っていた。

 ユリウスともそうなることを期待して、肌の美しさをより際立たせるような照明をつけ夜の香水も付けたというのに、この男の体は何の反応もおこさなかった。

 




 突然、ユリウスは咳払いをした。


 ユリウスは冷たい目で浅ましい女を見下ろしていた。

 香水の臭いと化粧のきつい香料に吐き気がするとでも言いたげな表情だった。


「それで…これは一体何のつもりですか?

 伯爵夫人」

 ユリウスは呆れ果てたように夫人という言葉を強調した。

 厳しい表情と背筋の凍るような彼を取り巻く空気に恐ろしくなって、夫人はユリウスからようやく離れた。


「貴方は、伯爵の妻です。

 好意のある男ができたというのであれば、伯爵と別れてから、関係を持つべきだ。

 それほどまでに価値のある男ならば、快楽を貪り欲望のままに生きるがいい。伯爵夫人という立場を失くし、母親という立場も失くし、夫と子供の手を永遠に離しなさい。

 その覚悟がないのであれば、今すぐに、ちゃんとした服を着てもらえませんか?

 それとも許されざる関係というのに欲情でもしているのですか?馬鹿馬鹿しい。

 盛り上がっているのは貴方だけです。

 傍から見ていたら本当に浅はかで、迷惑この上ない。

 大切な人を裏切り傷つけていながら、自分だけが愉しむなど許されませんよ。」


 夫人は黙った。


「本当に罪深い女だ。そろそろ目を覚まされては、どうですか?

 今なら、まだ後戻りができるかもしれません。

 心を入れ替えれば、伯爵が許してくれるかもしれません。

 では、答えを聞きましょう。」

 と、ユリウスは言った。


「…そんな…こんなの…誰でもしておりますわ。何もそんな言い方…」


「誰でも?それは貴方の周りの人間だけでしょう。

 それを誰でもというのは間違っています。

 それに誰かがやっているからといって、貴方も不貞を働いていいという理由にはならない。

 ええ、全くなりません。全ての不貞は呪われます。誰も幸せにはなりません。そもそも私は心から不貞を憎んでいます。

 神の御前で夫への愛を誓い、清く正しく生きなければならなかったのに、貴方は男を誘惑することに非常に慣れているとしか思えませんが。」


 夫人は黙った。


「そう…でも哀れな女でもあります。

 数多の男と関係を持ちながら、ただの一度も精神的な交わりは持てなかった。

 誰もが貴方を肉欲としか見ずに、貴方自身もそうだった。

 その結果がこれです。

 何人もの男を追い求めて、結局は誰からも愛されることはない。心が満たされないから、体がどんどん渇いていく。

 貴方は一度も伯爵と心から語り合おうとはしなかった。このような道に歩む前に話し合わなければならなかった。貴方を愛してくれるかもしれなかった者の手を自らはなしたのです。

 誰にも愛されず愛することもなく、生涯を終える。

 美貌を失い富を失ってから、全てに気付くでしょう。

 その時は、誰もいない。

 本当に惨めな女だ。」


 惨めな女という言葉に夫人は怒りを覚えて、ユリウスを睨みつけた。


「どうして、いけない事なのかしら?

 一度しかない人生なのよ。少しくらい楽しんでもいいじゃない。貴方にそこまで言われる筋合いはないわ!」



「そう、一度しかない人生です。

 伯爵の人生も一度しかありません。

 貴方の身勝手な振る舞いが、伯爵の一度しかない人生を妻に裏切られるという苦しい思いのするものに変えたのです。

 その責任はどう取るつもりですか?

 家族を裏切るなどあってはならない。

 自分だけが愉しければいいというような身勝手な人間ではそのような事は、考えようともしなかったでしょうね。

 貴方は結婚などするべきではなかったんですよ。」


 ユリウスがそう言うと、夫人は椅子においていた鞄をユリウスに投げつけた。

 動物の皮で作られた鞄はズシリとユリウスの手にのしかかり、彼はしばらく鞄を見つめていた。


「そうですね…夫人。

 一ついい事を教えてあげましょう。この鞄の為に皮を剥がれた動物の生命もたった一度きりでした。」

 ユリウスは低い声で言った。


 夫人の衣装部屋には、腕は2本であるにもかかわらず、富の象徴と優越感の為だけに豪華な動物の皮で作られた鞄が数百個も飾られていた。


「え?一体…なんの話かしら?」


「知らないのですか?ならば知っておいた方がいいでしょう。

 貴方が投げてよこしたこの鞄が、動物のどのような最期から作られたのか。

 貴方が物入れにしているのは、生命です。

 ぞんざいに扱っている以上、知らなければならない。」

 ユリウスはそう言うと、夫人に近づいて行った。

 夫人は後ろに逃げようとしたが足を動かす事ができずに、怯え震えながらユリウスを見た。ユリウスは穏やかな微笑みを浮かべながら、夫人に生命を持たせた。

 断末魔の声を上げた。

 生きながら皮を剥がれる痛みと苦しみによって真っ赤な血が吹き上がった。夫人の顔と両手は真っ赤に染まり、香水の香りは一瞬にして消え、血の臭いが部屋中に漂った。

 夫人の手の中には、剥き出しになった肉片がドクンドクンと脈打っていた。



「イヤャ!」

 夫人はユリウスが見せた幻に恐ろしくなり綺麗に結い上げた髪を振り乱しながら、鞄を放り投げた。


 ユリウスは投げ捨てられた鞄を拾い上げると、鞄を両腕の中に包み込んだ。


「この動物にも貴方のように子がいたかもしれませんね。

 不貞を繰り返してきた貴方は、母親ではありませんが。

 親が帰ってくるのを待っていた子供がいたかもしれない。

 でも…子供の元には帰れなかった。

 貴方と一緒です。」

 ユリウスは微笑んだ。


「なに…を…」


「動物だけが鞄になるのですか?そうではないでしょう。

 貴方の皮膚も柔らかそうです。きっと極上の鞄となりましょう。

 貴方は多くの動物を殺し過ぎました。

 貴方のような人間がいるから終わらない。」


「やめて!

 動物と人間はちがうわ!

 動物だって、他の生き物を殺してるじゃない!」


「何がちがうんですか?同じ生命です。

 たしかに動物も、他の動物を生きる為に殺しています。

 けれど貴方は生きる為ではないでしょう?

 見栄と欲を満たす為です。

 けれど心が満たされない為に、また一つ一つ鞄を増やしている。

 人に顕示することで承認欲求を満たしているのでしょうか?

 一度しか使っていない鞄ばかりでしょう。」

 ユリウスは後退りを始めた伯爵夫人にまた一歩近づいた。


「人間の進歩の為には、他の生命が犠牲になることもあります。

 けれど貴方の場合は進歩ではなく欲望のためです。同じような鞄ばかりです。

 そして絶滅に追い込んだ。

 神がつくりだした、かけがえのない生命を地上から消し去ったのです。

 それなのに狩られた動物の生命に感謝することもなければ、大切に扱う事もなかった。私は、それが許せない。」

 ユリウスの瞳が相手を凍りつかせるように恐ろしくなった。

 さらに一歩近づいた。


「待って…私には……子供がいるの!

 子供には母親が必要なの!」


「調子のいい時だけ、子供を出しに使うのはやめなさい。

 貴方は子供を抱き締めた事があるのですか?頭を撫でであげた事があるのですか?手を繋いだ事があるのですか?ちゃんと目を見て話をした事があるのですか?

 貴方がいなくなっても、伯爵がいるから大丈夫です。

 片親だけでも、子供は立派に成長します。」

 ユリウスは微笑んだ。


 夫人は部屋の中を逃げ回ったあげく、部屋から大急ぎで逃げ出した。

 少しでも遠くに行こうと焦ったばかりに、階段から足を踏み外して、そのまま真っ逆さまにおちていった。


 ユリウスは頭を強く打って動かなくなった夫人を階段の上から見下ろした。


 ユリウスは伯爵夫人をその手で殺すつもりはなかった。

 心からの懺悔の言葉を聞く事を期待し、伯爵と子供の為に彼女の心を入れ替えてやるつもりで、ここに来た。

 けれど、夫人は逃げ出したのだった。



 死んでいる夫人を抱き上げると、先程の部屋へと連れて行った。

 男を誘う為に塗りたくったあつい化粧をおとしてから、目を閉じ、馬鹿げた服ではなく、ちゃんとした服を着せた。



 伯爵は高潔な人物であった。

 多くの富と権力に恵まれてはいたが、気高く、信念を持ち、誰に対しても敬意を持って接していた。恵まれない者達への施しも惜しまず、孤児院では寄付をするだけではなく教育環境を整え、孤児院から出た時に1人で食べていけるように手に職をつけさせた。才能があり望む者がいれば支援も惜しまなかった。


 夫人が男を誘惑して死んだとなれば、伯爵の名誉にもかかわる。

 力があり人望もあつい伯爵を引き摺り下ろそうと考える者は少ないだろうが、彼に敬意を表することにしたのだった。

 伯爵が妻の不貞に気が付いていなかったとは到底思えないが、あまりにも悲しすぎると思ったのだった。

 何処で2人が別の道を歩むことになってしまったのかは分からないが、ユリウスは悲しい気持ちになった。


 翌日、夫人が亡くなったと聞かされた伯爵は長い間訪れる事もなかった別荘にやって来た。

 妻の度重なる不貞を知っていた伯爵は、妻が何処かの若い男と関係を結ぼうとしたが、何らかの予期せぬ事情が起こり殺されたのだろうと思いながら、妻の死に顔を見つめた。

 伯爵の隣に立つ主治医は、伯爵の顔を見る事もなく何も話さずに病死と診断した。

 伯爵が妻を思い、涙を流したのかは誰にも分からなかった。


 高慢な夫人が亡くなったと知った貴族の女性達は口には出さずに喜んだ。彼女達も病死ではないと気付いていたが、誰も事の真相を探ろうとはしなかった。

 伯爵の力を恐れ、詮索でもしようものなら夫の立場が危なくなるのを恐れたのだった。

 しばらくすると、はじめから夫人はいなかったかのように忘れ去られていった。


 こういったことはユリウスの身に何度もおこった。

 女だけでなく、男であっても同じように、彼を求めたのであった。






 ユリウスは心を痛めながら、動物の頭を撫でていた。

 動物は彼の温もりを感じようと体を寄せ、鳴き声を上げてから大きな瞳でユリウスに訴えかけた。


 ゼッタイナルシハイシャ

 ナゼ、ワタシタチダケガ、コロサレルノデスカ?

 ニンゲンハ、ホカニモ、タクサンコロシマシタ

 ナゼ、ニンゲンハ、バツヲウケナイ?

 ニンゲンノ、ヒドイシウチヲ、サバイテハクダサラナイノデスカ?

 ナゼデスカ?

 ワタシニハ、チカラガ、アリマセン

 ワタシタチハ、タエネバナラナイノデスカ?

 イツ、フクシュウヲ、シテクダサルノデスカ?

 父を残酷に殺された怒りで体を震わせながら、血の復讐を腕の中で訴え続けた。


「人間を許せぬか?」


 ケッシテ、ユルシハシマセン

 ドウカ、ワレラニチカラヲ

 カゾクノ、フクシュウヲ


「しばらく待ちなさい。

 まだ、その時ではない。

 それをするのは、力を与えられた私の役目。

 貴方達は殺さない方がいい。」


 モウ、マテマセン

 ソノアイダニ、コロサレテシマイマス

 ウラミヲ、ハラシタイノデス

 サモナケレバ、コノニクシミハ、キエマセン


 動物の瞳に宿る怒りの炎は、更なる勢いを増して燃え上がり始めた。


《私達は人間に希望を抱きすぎていたのかもしれません。

 彼等が望むように力を与えようと思います。

 既に多くの動物が絶滅させられました。

 もう取り返しのつかないほどに、人間が醜悪の闇に堕ちているのならば、同じ事が繰り返されるでしょう。

 そうでなければ、彼等の言葉に耳を傾けるでしょう。

 人間と話をするのであれば、力が必要です。》

 ユリウスは瞳を閉じ、祈りを捧げた。


 ユリウスの右手があつくなった

 神の許しが出たのだった。



「もう一度、聞こう。

 憎しみの渦は激しく、二度と戻れぬぞ。

 一人殺せば、もう止まらない。

 狂気を駆り立てながら走り続ける事になるかもしれぬ。

 それでも、後悔はせぬか?」


 コウカイシマセン

 カゾクト、ドウホウノ、フクシュウヲ

 ドウカ、チカラヲ

 苦しみ抜いた父の声は耳に残り続け、尻尾がピンと逆立っていた。


 フクシュウヲ


 すると、ユリウスはすくっと立ち上がった。


「よかろう。力を授けよう。

 家族と同胞の復讐を果たせるほどの力だ。

 ただし、この約束だけは守って欲しい。

 私は力と共に、人間と話ができる言葉も与えよう。

 人間を攻撃する前に、必ず、君達の思いを先に伝えるのだ。

 それを聞かなければ、人間を攻撃することを許そう。

 力を欲する者達を、この場所に集めなさい。

 満月の夜、君達は新たな力を得るのだ。」


 ユリウスは動物の体に触れた。

 人間の剣と弓と槍から逃れられるように、強靭な皮膚と俊敏さを与えたのだった。  


 アリガトウゴザイマス

 オヤクソクハ、マモリマス


 動物と別れると、傷つき疲れ果てた生命の火が揺れている洞窟に向かった。そこには白髪の少年が横たわっていた。

 体中を殴られ蹴られて痣だらけとなり、血を流していた。駆け寄って来た男を虚な黒い目でジッと見たが、ユリウスの瞳を見ると目を大きく見開いた。


「貴方様は…斧を掲げる国の王では…。

 僕が光を見れた頃…城の庭で…僕にも何度か…お声をかけていただいて…とても嬉しかったです…。

 お姿は変わられ…さらにお美しくなられました…けれど…瞳はあの頃のままで…ございます。」

 少年は、ユリウスの正体を言い当てた。  

 髪の色は変わってしまってはいるが、ユリウスも少年に見覚えがあった。オラリオンの魔法使いの王の後ろでいつも微笑んでいた可愛らしい少年だった。


「あまり喋ってはいけない。今から傷を治そう。」

 ユリウスは少年の冷たい体を抱き上げた。


「そんな事をしていただく価値など……僕には…」


「君は大切な私達の子供だ。

 とても危険な状態だから、私の魔力を直接注ぎ込む。

 私の思いが入り込むかもしれない。

 君と私では魔力が違いすぎるから苦しいかもしれない…痛ければ私の腕を掴んでいなさい。さぁ、目を閉じて。」

 ユリウスはそう言ったが、少年は首を横に振った。


「僕は…救ってもらえるような…価値など…」


「私が君を失いたくないのだ。

 お願いだ…目を閉じなさい。本当にすまなかった。」


「…なぜ王が謝られるですか…?」


「そんな思いをさせてすまなかった。

 私を許してくれるのならば目を閉じて欲しい。」

 少年は目を閉じた。

 強い魔力が一気に注がれると、少年は呻き声を上げて荒い息を出して腕にしがみついた。心臓が今にも飛び出しそうなほど激しく揺れ動いた。

 少年の頬に赤みがさし体に温もりが戻ってくると、髪の色が黒に戻った。

 しばらくの間、腕の中で目を閉じたまま荒い息をしていたが、ゆっくりと目を開けるとユリウスの顔をジッと見た。


 少年は涙を流しながら口を開いた。

 ユリウスの顔を見て安心し、自分を苦しめる者が誰もいない安心できるこの場所で、長年の辛い思いが堰を切ったように溢れ出していった。


「僕は何の役にも立たない…ダメなモノなんです。

 それなのに…こんな事までしていただくなんて。

 僕がちがうから…ちゃんとできないから…お城の方達とは違うダメなモノだから…僕なんていなくなってしまった方がよかったのに…僕なんて誰にも必要とされていないのに…」

 少年は悲しい顔をしながら言った。

 体の痛みは消えても、投げつけられた言葉の恐ろしさは少年の心に残酷な爪痕を残した。少年の怯えた表情と目を見開きながら何度も繰り返す言葉で、今までどんなふうに心を抉られ苦しめられてきたのかが分かった。



「そうだ。ちがう。

 君は、とても良い子だ。優しい子だ。

 君は奴等とはちがう。

 君は奴等とはちがって、誰かを傷つけたり悲しませたりすることはしない。

 君は同じになってはいけない。

 それに君がいなくなってしまっては、私は悲しい。

 お願いだ…私を悲しませないでくれ。」


「僕は…何の為に生まれてきたのでしょうか?

 こんなに辛い思いをするのであれば、生まれてこなければよかった…。

 明日が来るのが怖いのです…死んでしまえば楽になるとしか思えない…苦しいのです…」


 ユリウスは少年を強く強く抱き締めた。

 あの頃、オラリオンの魔法使いの王の側で笑っていた少年の面影はどこにもなかった。

 辛く苦しい日々によって笑顔は奪われ、少年の夢も希望も痛めつける者達によって粉々に砕かれていた。


「生きる意味が…分かりません。

 こんな事を言ってしまい…すみません…」


「ちがう。私が君にそう言わせてしまったのだ。

 何もせずに君を苦しめた。

 よく話してくれた。

 すまない…私が…もっと早くに…許しを得ていれば…」

 ユリウスも声を震わせた。

 この小さな体にどれほどの苦しみが巣食っているのかと思うと、魔法ですらも消すことができない残酷さをもどかしく思いながら、彼は右手を握りしめた。



「王よ…そのような顔はなさらないでください。

 王は来てくれました。

 全ては僕のせいなんです。

 あの人達が言うように僕が悪いから…」



「いけない。

 君を大切に思わない者の言葉など聞いてはいけない。

 そんな者達の言葉は信じてはいけない。

 君を傷つけようとしているだけの言葉で、そこには何一つとして真実などない。

 奴等はただそうやって苦しめて楽しんでいるだけだ。

 誰かを傷つける事で、自分の苛立ちをぶつけて、自分が強くなったような気がして喜んでいるだけなんだ。

 奴等は嘘つきだ。

 君は私の言葉を信じて欲しい。

 君を大切に思っている者の言葉を信じるんだ。君をちゃんと見ている者の言葉を聞くんだ。

 私はずっと以前から君を知っている。

 私の言葉が真実だ、君はいい子だ。

 かけがえない私達の子供だ。」


「でも…僕は…」


「それとも君は、私の言葉よりも、その者達の言葉を信じるとでもいうのかい?」

 ユリウスはとても優しい口調で言った。


「いえ…そんな…。

 なら…僕は…生きていてもいいのでしょうか?

 死ねと言われて…呪文を唱えられなくなったから…殴られ捨てられたんです。

 だから僕は僕を消し去らなければいけないと思って…」


「君は生きるんだ。

 私は君に生きて欲しい。生きろと言おう。

 君が受けた心ない言葉を、私は打ち消したい。

 君を深く傷つけた言葉を、私は全て否定できる。

 これからは私の言葉で、君の心を埋め尽くそう。

 君をこんなにも苦しませておきながら、自分勝手な事を言っているのは分かっている。

 けれど…どうしても私は君を失いたくない。

 君がいなくなれば、世界は心の真っ黒な者ばかりで埋め尽くされてしまう。そんな世界は悲しすぎるだろう。

 君が君を消しさりたくても、私は消し去って欲しくない。何度でも連れ戻す。

 それが私の願いだ。

 悲しみ、苦しみは一生は続かない。続けさせるものか。

 私は新しい景色を君に見せたい…「今」とは違う未来が必ずくる。辛い景色だけを見させてしまった、あの場所だけが全てだと思わせたくはないのだ。

 降り続いた雨が上がった後に見える空が違うということを、別の景色が広がっていることを見せたいんだ。

 君を幸せな気持ちにさせたい。

 だって君は幸せにならなければならないんだから。

 その為に生まれてきたんだ。苦しむ為ではない、悲しむ為でもない、君は幸せになる為にここにいる。

 夜明けが必ず来るように、君に暁の光を見せたい。」



「でも…僕は大変な事をしてしまいました。 

 忘却の魔法の事を話したのは僕なんです…。

 だから、こうなって当然なんです。神の怒りにふれたのでしょう。

 ようやく正しい道にすすもうとしていたのに…皆様がその為に生命を犠牲にされたのに…僕が滅茶苦茶にしたんです。

 あの時…仲間を救いたくて…本当に…すみません…」


「なぜ、君が謝る?

 すみませんという言葉は、悪い事をした者が使う言葉だ。

 君は何一つとして悪い事はしていない。」


「でも…僕が世界を歪めてしまいました。

 悪いことをしてしまいました。」


「お願いだ、自分を責めないでくれ。

 君のどこに非があると言うんだ。何一つとしてない。

 この世界は、とうに歪んでいる。君が歪めたのではない。  

 あのまま革命が成功しても上の者が入れ替わるだけで、何も変わっていなかっただろう。」


「でも…僕が怖くて口に出してしまったから。」


「ちがう。君に怖い思いを抱かせた奴等が悪いんだ。

 君は何も悪くない、大丈夫だ。

 それで世界が動き、私が動き出す事ができた。

 礼を言おう。

 考え方を変えよう。

 君が私を森から連れ出してくれた。

 それに君はかけがえのない仲間の生命を救ったんだ。歪めたんじゃない、救ったんだ。

 君が少女の生命を救ったんだ。」


 その言葉を聞いた少年の目が大きく見開いた。

 彼を守る腕から離れて、フラフラしながらも自らの両足で立ち上がり、遥か遠く小さく見える城を見つめた。

 城の上空には雲がかかって不気味な影を落としていた。

 少年の暗い思いがたれこめ、渦巻く雲が彼を掴んではなさない恐ろしい沼地のように見えさせた。


「そうだ…僕はかえって…忘却の呪文を唱えなければなりません。他の子供達が…」

 少年は元気のない声で言った。


「その必要はない。

 君もまだ子供だ。君が大人になり力をつけてから、君がしてもらったように、子供達を守りなさい。

 忘却の呪文は、私が唱えている。」


「そんな…まさか…貴方様が唱えてしまったら…」


「そうだ。」

 そう言ったユリウスの表情を見て、少年は青ざめ全身が震え上がった。


「こうなる運命だった。

 罪を犯した者は罰を受けなければならない。相応の罰だ。

 私はその力と役割を背負っている。

 君はちゃんと警告を伝えた。

 裁きの時がくるだろう。」

 ユリウスは穏やかに微笑んだ。


「おいで」

 ユリウスはそう言うと、月明かりの下で彼の腕の中に少年を再び包み込んだ。


「私の力が体の中に一気に入ってしまったんだ。まだ動いてはいけないよ。

 君の名は、なんという?私に君の名前を教えてほしい。

 私は、今は、ユリウスと名乗っている。」

 と、ユリウスは言った。


「名前…僕の名前は…分かりません。思い出せません…」

 少年は虚な目をした。



「では、私が名前をつけよう。

 君の新たな名だ。私の愛する友の名だ。」

 ユリウスは彼の大切な友の名を少年に与えた。


「僕の名前は…リアム…」


「そうだ。勇敢で賢く優しい魔法使い。

 輝く月のように偉大な友だ。

 私の魔力が入りすぎたかもしれない。

 子供の頃の私に少し似てきたね。」

 ユリウスはそう言うと、リアムの漆黒の髪の毛を指に絡めた。


「そんな…僕が光の御方に似ているなんて恥ずかしいです。

 ユリウス様…僕はもう一度城にかえります。

 僕は子供かもしれませんが、年長者です。

 僕が子供達を守らないといけません。東の塔の地下牢に…」


「東の塔からは、私が連れ出した。

 私の力で満ちた部屋で皆んな眠っている。

 そうか…リアムには私の思いがやはり入ってしまったのかもしれない。

 この先、辛い思いをさせてしまうかもしれない。

 共に帰ろう。

 君が子供達を守るように、私が君の望みを叶えよう。」


 月明かりの下で、2人は身を寄せ合いながら、オラリオンの魔法使いの王の思い出を語り合った。いつも尊敬の眼差しを向けていたリアムは、ユリウスの話を喜んで聞いた。

 リアムの頭上の星々が明るく輝いた。

 頬を撫でるような優しい風と、ユリウスの体にもたれかかりながら背中で感じる温もりで、心地よい眠気が忍び寄ってきた。

 リアムが見上げた月の白い光は、自らを抱き締める美しい男の顔を照らし、暗い影に覆われていた世界を変えてくれる救いの光のように思えた。


「リアム、少し眠るといい。

 私の腕の中で、おやすみ。」

 ユリウスは囁くように言った。

 静かな寝息が聞こえてくると、ユリウスは立ち上がった。

 彼の腕でリアムをしっかりと抱きながら風に乗り、2人を照らす微かな陽の光を浴びながら城へと戻っていった。






 満月の夜

 その場所には様々な動物が集まっていた。

 動物達はユリウスを興奮した目で見ながら、心の中では家族と同胞が殺された光景を思い描いていた。 

 憎しみはとどまるところを知らなかった。

 彼が魔法陣を描いて右手を上げると、月の光が彼等を照らし徐々に体は大きくなり、爪や歯は鋭利に輝いた。

 皮膚は騎士の武器でも簡単には斬れないほどに頑丈となった。声はより太くなり、恐ろしいほどに速く走り飛ぶようになった。


 それはまるで王が望んだ怪物のような姿であった。 



「体の変化が完全となるまで、しばらく日数がかかる。

 次の新月まで、この場所で待ちなさい。

 二日月の夜に私はもう一度やってくる。

 三日月に照らされながら走り出しなさい。

 約束を守る限り、いかなる傷を受けても、月の光が癒すであろう。」



 神の領域の名において

 ユリウスは魔法によって新たな生き物を作り出した



 それが、魔物のはじまりだった。

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