第62話 歪曲 旅路 上
ユリウスは動物に力を授けると、聖なる泉へと向かった。
美しく透き通ったアクアマリンの水面は、満月の光でより一層の輝きを放っていた。冷たい夜風によって、水面はさざ波がおこり、空にも届くような美しい音色を奏でた。
「悔い改める事なく、愚かさが続いています。
人間の心が汚れていて救いようがないのであれば、水面は紅く染まりましょう。紅い色は、私達魔法使いの血でございます。
もう…愛された美しさはございません。
けれど闇へと導くのが早すぎるのであれば、泉はアクアマリンのように輝き続けるでしょう。」
ユリウスがそう言ってから一粒の種を投げ込むと、泉は勢いよく渦を巻いた。グチャリグチャリという大きな音を立てながら種が割れ、中から紅い色がドクドクと溢れ出した。
泉の左側は瞬く間に紅く染まっていったが、右側は濁りながらも迫り来る紅に必死に抗い続けた。
ユリウスは、彼の瞳のような漆黒の夜空を見上げた。
その目には輝く星々が生命のきらめきに見えた。その星々を落とす、痛みも苦しみもかなしみも彼は誰よりも分かっていた。
神によって選ばれ、彼の手に全てが委ねられ許されているとしても、次に天上の怒りの魔法陣を描いて右手を上げれば、人間は地上から消え失せる。
美しき者も愚かなる者も、全てが灰となる。
ユリウスは抗い続ける水面を見ながら、不意に魔法陣を描き出した。
最後の円を描ければ、神の許しは出ていた。
彼は最後の円を描こうとし、その半分まで描いたところで、急に手を止めた。彼の意志で止めたのだった。
その先を描けたかどうかは、彼だけが知っていた。
「人間の醜悪さを…魔物達が曝け出させるでしょう。
彼等の言葉が届かぬのなら止まることなく走り続け、彼等は最果ての森へと辿り着くでしょう。
力を与えましたのは、彼等を最果ての森へと連れて行く為です。人間がそれを望めば、さらにその時が近づきます。
私は決断せねばなりません。
彼等にだけ憎しみと狂気を背負い続けさせるわけにはいきません。望んだとしても、彼等もまた答えの出ない問いに永遠に苦しみ続けるでしょう。」
ユリウスは力を与えて変化した魔物の顔を思い浮かべた。彼等の表情は、すでに憎しみが溢れ出して狂気に染まっていた。
ユリウスは彼等の歩む道を変えてしまったことを悔やみながらも、綺麗な言葉だけを述べ、一方が裁かれることなく一方が傷つき耐え続けるだけの日々が正しいとは、もはや思えなくなっていた。
たとえ辿り着くのが、満足感ではなく出口の見えない闇だとしても、答えが見つからないのだとしても、殺された仲間は浮かばれよう。
涙を流しながら平気で嘘をついて哀れみをこい、後悔と懺悔の言葉を並べ立てながら両手をつき、地に頭を擦りつけながら謝罪をし、その実は腹の中で舌を出している。
彼は何度もそういう人間を見てきた。
人間の涙は、自分の為になら、いくらでも流す事ができる。
法があっても、正当に裁かれるわけでもない。金と権力と知恵があれば、いくらでも逃れられる道がある。
真実はいくらでも姿を化える。
だからこそ恨みを晴らしたいという動物の望みは聞き届けられた。
牙を剥き喰らいつくことさえも許されず、耐え続けたからといって、今の世には救いはない。力の差はどんどん広がりばかりであり、同じ事をしても、力があれば捻じ曲げられる。
現実は残酷だった。
ユリウスは満月を恭しく見つめてから瞳を閉じて祈りを捧げ、彼の願いを口にした。
「その時がきました。
私は決断を下す旅に出ます。
私が魔法陣を描いて右手をあげれば、全ての人間を滅ぼします。もう地上に戻ることはない。
私の目の前に現れる城の者達は、私の力を利用しようという濁った者ばかりです。偽りを述べる国王や側近では何も分かりません。
その者達では、人間の魂の美しさははかれません。
はかる必要などないからです。
私を最後の試練とし、私に打ち勝つ者を選ばせましょう。真に打ち勝つ事ができれば力を与えましょう。
3つの国から、それぞれ勇者となる者を選ばせます。
彼等をその国の代表とし、勇者で人間の真価をみましょう。
彼等を惑わす言葉が降り注がぬ旅路で、時間をかけて語り合い、この目ではかりにかけましょう。
もし勇者だけでは力が足りないようであるのなら、彼等の力となる者を与えましょう。
聖職者はだめです。天上の怒りを鎮めたあの者がいいでしょう。
力と知恵と勇気を象徴する黄金の瞳を与え、確固とした信念を植え付けた黒と清らかさをまとわせ、勇者となる者を守る力を与えましょう。
その者は、今宵まだ抗い続けるアクアマリンの水面を照らす月からの輝きをえて、希望の光となるのです。
彼等が望みを抱き光を掲げ、いかなる時でも絶望と恐怖を乗り越えられるかをはかりにかけましょう。
それほどの勇者でなければ、この世界は変えられません。
それほどまでに、この世界は歪んでいます。
それでも私に美しさを見せることができないのであれば、私は希望の光をのみこみ、全てをハジメリノセカイにかえします。」
ユリウスは漆黒の瞳を開けた。
色を変えた聖なる泉の水面を見つめてから、マントを翻してその場を去っていった。
3つの国の王達は、突然現れた魔物に恐れ慄いた。
どこか動物を思わせる姿をした魔物は、恐ろしいほどの力を持ち、大地を駆け抜け、空を飛び回った。
人々の前に現れると人語のようなものを話したが、恐ろしい魔物の言葉など、誰も耳を傾けようとはしなかった。
彼等の思いが伝わることはなかった。
魔物の話が終わらないうちに弓矢が飛び、剣が鞘から抜かれ、槍を向けられ、農具が飛んできた。
すると魔物も人間を襲っては喰い殺し、村や町の大地を真っ赤に染め上げていった。
死への恐怖に直面した人々の間では、様々な流言が広がっていった。
魔物の使いであるという噂が流れれば、真実を確かめる前に、真夜中にその者の家には火が放たれた。
魔物を遠ざける薬があるという噂が流れれば、闇に紛れて盗みが繰り返された。
生贄をだせば助かるという噂が流れれば、最も貧しく力のない者の子供を捕まえて、村や町の出入り口に縄で縛り付けた。
別の村を襲い村人を殺して餌とすれば自らの村が助かるという噂が流れれば、村同士で争いが起こり人間同士で殺し合った。
やがて人々は魔物と同様に隣人を恐れるようになり、互いに猜疑心を抱いて見張り合い、互いに傷つけ合った。
魔物が人間を喰い殺した数と人間同士が殺し合った数は、同じだった。
あの時と、同じような歴史が繰り返された。
その度に、魔物の体はさらに強靭となっていった。
さらに力を得た魔物を捕まえることなどできなかったのだが、ゲベートの第2軍団騎士団隊長が一羽の大きな黒い鷲のような魔物を捕らえることに成功した。
鷲の倍以上の大きさで鋭い爪を生やし、影のような黒い瞳で騎士達を見ながら、薄ら笑いを浮かべては鼻から煙を出した。
けれど、隊長が口輪をつけようとすると大人しく従い、暴れることなく王の目前に引かれていったのだった。
王は鷲のような魔物の大きさを見て驚いたが、魔物をようやく捕らえることができたのを喜んだ。
人語のような言葉を話す魔物を拷問して、何処から現れて何が目的なのかを聞き出そうと思ったのだった。
王が命令すると、騎士の1人が焼きごてを持って現れた。鷲のような魔物はチラリと騎士を見た。
次の瞬間、玉座の間にいた全ての者達は身震いをする事になった。
鷲のような魔物が頭を大きく振ると、魔物を押さえつけていた騎士が飛ばされ口輪が外れた。そしてゾッとするような大きな鳴き声を上げてから、口から黒い色をした鎖を吐き出したのだった。
黒い鎖は血にまみれ異臭のする肉片がこびりついていた。
今度は王が大きな悲鳴を上げて目を回し、ガタガタと震えながら玉座から崩れ落ちた。
鷲のような魔物はその姿を見ると城の天井を突き破るかのような大きな鳴き声を上げてから、立派な両翼を広げた。
騎士が剣を抜こうとしたが、翼を羽ばたかせたことで発生した風によって吹き飛ばされてしまった。
魔物は満足げに口から炎を吐きながら玉座の間の窓ガラスを突き破り、聞くも恐ろしい鳴き声を上げながら飛び去っていった。夕暮れの赤い空は、鷲の王を迎えにやってきた黒い群れで溢れかえり、赤い血の海をただよう黒い鎖のような情景を王に想像させながら、城を鎖で巻きつけるかのように何度も赤焼けの空を漂い続けた。
冷たい雨が降り始めると、不気味な鳴き声を上げながら、南の方角に向かって颯爽と飛び去っていった。
ゲベートの王はしばらくの間、真っ赤な血の色に染まった空と降り注ぐ雨をガタガタと震えながら見つめていた。
(魔物は…もしかしたら先代の王が殺し尽くした動物の怨念かもしれない…魔物は人語のようなものを話すという…。
全てが白日の下に晒される。
2つの国を滅ぼした原因が王にあると…知られてしまう。
王位が揺らいでしまう。
せっかく忘却の呪文を唱えさせているというのに…。
魔物は全てを知っているのだろう。
どうしてだ…なぜ今頃…)
王の全身が小刻みに震え、頭の中で様々な考えが浮かんだ。
(導きし者であるユリウス様がいらっしゃったので神は赦されたと、オラリオンの王が言っていた。
もしユリウス様が魔法使いの怨みを晴らす為に来られたのであれば、あの力をもってすれば既に私達を殺しているだろう。
虹をかけられ、天使の梯子を見せ、空ですら自由に操る事ができる方だ。
天使の梯子を伝ってきた方が、そんな事をするはずがない。
魔物に人間を襲わせるはずがない。
白の教会の鐘も鳴り響いたのだ…殺しにきたはずがない。
滅ぼす為にきたはずがない。
そうだ…そんなはずがない…そんなはずはない。
それを確かめる為にも…そうだ…ユリウス様に助けていただくしかない!)
ゲベートの王は息ができないくらいの胸の痛みに襲われながらも、滑り落ちようとする王冠を押さえつけた。
その夜、ソニオの王も恐ろしい夢を見ていた。
体が重く、首筋に朽ちた葦と澱んで腐った水がへばりつくような感覚に襲われた。鼻を刺激するような生臭さも感じて目を覚まし、何事かと思いながら上半身を起こした。
すると、クロコダイルのような魔物が口から赤い血を滴らせて、王の胸に手をつきながら見下ろしていた。
その魔物は王の首に黒い鎖をまきつけていたのだが、王の恐怖で歪んだ顔を見ると、グチャリグチャリと奇妙な音を立てながら大きな口を開けた。
王の体ごと飲み込めそうな大口だった。鋭利な歯を剥き出しにしながらゾッとするような笑い声を上げた。
不審な音を聞きつけた騎士がドアを開けようとする音を聞くと、割って入った窓から消え去って行った。
窓枠には赤黒い血がへばりつき、息をするにも重苦しくなるような臭いが部屋中に満ちていた。
王は頭がおかしくなったかのように取り乱しながらベッドから抜け出したが、そのままつんのめって両手を床についた。王の顔はフカフカの絨毯につくのではなく、真っ赤な血の中に沈んでいた。ベッドが真っ赤な血の沼地に沈んでいるかのように、床中が血で溢れかえっていたのだ。
途端にクロコダイルのような魔物の悍しい声が耳に蘇り、王はそのまま気絶してしまったのだった。
3つの国の王は真っ青な顔をしながらオラリオンの城の一室に集まり、現れた恐ろしい魔物について打ち明け合った。
青白く揺れる蝋燭の火よりも、3つの国の王の体の方がブルブルと震えていた。
「余は恐ろしい夢を見た。
夢の中で、余は最果ての森が見渡せる海岸で1人立っているのだ。
三日月が輝き出すと、最果ての森から恐ろしい風が吹く。
その風は荒れ狂っていて、目を開けていることすらもできない。余が小屋の中に避難したとしても、風の勢いで小屋が倒壊してしまい、恐ろしい風に体が吹き付けられて立っていることすらもできずに、目を閉じて膝を折ってしまう。
目を開けると…見たこともないような不思議な栗色の橋がかかっている。
最果ての森とこちらの大陸をつなぐ橋がかかるのだ。
すると獰猛な声と共に恐ろしい生き物が橋を渡り、こちらの大陸に攻めてくるという夢を見るのだ。もう何日も…何日も同じ夢を見ている。
先日は、その夢を見ていた時に…クロコダイルに似た魔物が余の首に黒い鎖を巻きつけていた…」
ソニアの王はしわがれた声を出した。
鎖と三日月を思い浮かべるだけで、3つの国の王の顔からは血の気が失せていった。
まだ日は沈んではいなかったのだが、急に部屋の中は暗くなった。暮れ急ぎだした夕暮れは空を真っ赤に染め上げた。黒い雲が漂い、混ざり合う赤と黒が王達の目に入った。
突然、つんざくような雷が鳴り響いた。
恐ろしい魔物が飛び交っているような怒号混じりの甲高い鳴き声も、窓の外から聞こえ出した。激しい風が窓ガラスをガタガタと揺らすほどに吹き荒び、それはまるで迫り来る魔物の足音のように聞こえ出した。
それらの音は、王達の血を凍らせた。
さらに窓ガラスをガリガリと爪で引っ掻くような音を聞くと、体を固くしながら聴き耳を立てた。その音が徐々に大きくなっていくと、決して窓の方を見てはいけないという絶望に駆られて、心臓が止まりそうになった。
王達は両手で耳を覆って目を閉じ、テーブルに突っ伏した。
恐怖で立ち上がることすらもできずに、荒れ狂う雷と風と不気味な音が止むまで、息を殺しながら待ち続けた。
日が昇るまで、惨めな王達を嘲笑うかのように続き、身も心も苦しめ続けた。
*
「ユリウス様…お願いがございます。
どうか、次の三日月の夜に…オラリオンの城を出て、我等に力を貸していただけないでしょうか?」
オラリオンの王は些細は語らずに、ユリウスに助けを求めた。
長い沈黙が流れた。
魔法使いの答えはなかった。
恐ろしい秘密を抱えている王は、眩しい光のような男を見る事ができずに、俯きながら訳の分からないことを口走り続けた。不安と恐ろしさで目は血走り、もう立っていられないほどに体はガタガタと震えていた。
王が「助けてください」と何度も哀願すると、ユリウスは重々しく口を開いた。
「王よ、なりませぬ。
私はここに残りましょう。
第1軍団騎士団隊長ルイス殿が魔物と戦い討ち死にをされたという悲報が届いたばかりです。
第2軍団隊長もまだ戦地からもどらず、第3軍団隊長は深傷を負ったという報せも届きました。
非常事態にこそ城の守りを強固にせねばなりません。
王が不在にされている間に、魔物が城に攻めてくるかもしれません。
誰が城を守れましょうか?誰が指揮を取れましょうか?
凶報によって、城を守る騎士が恐れをなしています。
それに多くの魔物は傷を受けても、次の日になると傷が癒えているようだと騎士から聞きました。夜の間に、彼等を照らす月の光で騎士から受けた傷でも癒しているのかもしれません。
城の守りは、引き続き私にお任せください。オラリオン国の王の居城を私が守り抜いてみせましよう。
王はソニオ国に行き、王の為すべきことを為すのです。」
ユリウスはそう言うと、王に背を向けた。
王は自分から去っていこうとする魔法使いの力にすがる為に慌てて追いかけようとしたが、豪華なマントの裾を自らの足で踏みつけ、よろめいて転んでしまった。
顔を上げた時には、魔法使いの姿はなかった。
王は四つん這いの姿勢のまま、生気のない目で床を見つめていたが、轟々とした風の音を聞くとすすり泣きを上げたのだった。
3つの国の王は選りすぐりの騎士と彼等にとって信頼のおける側近をつれて、震えながら立派な馬車に乗り込んで、ソニオの王が夢で見た海岸を目指した。
王達は真っ青な顔をしながら、馬車の中で不思議な橋が本当に現れるのかを待ち続けた。
三日月は煌々と夜空に輝き出したが、橋はなかなか現れなかった。3人の男を痛めつけるように、荒れ狂う不気味な風だけが吹くのであった。轟々とうなりながら吹く風の音が、恐ろしい叫び声にも聞こえた。
「やはり…夢はあやまっていたのだ。
そんな不思議な橋など現れるはずがない。」
オラリオンの王は弱々しい声で言った。
その時だった。
騎士の隊長が大急ぎで馬車に向かって走ってきた。
「王よ、三日月が不気味なほどに大きくなりました。」
と言うと、王達はギョッとした顔をしながら馬車から降りた。
漆黒の夜空が蠢き、最果ての森から恐ろしいまでの風が吹いた。 雷鳴が鳴り響いて夜空が荒れ狂い、稲妻が海に向かって落ち、地面が怒りで震えた。王達を睨め付けるような細い三日月が大地に接近してくるようにさえ見えた。
王達が乗っていた立派な馬車は大きな音を立ててひっくり返り、車輪ははずれ、繋がれていた馬は逃げて行った。
その場にいた全ての者達は、偉大な風の力によって跪いた。
ようやく王達が顔を上げれるようになると、そこには美しい陸橋が一瞬にして現れていた。
さらに陸橋の上には、1頭の4本脚の生き物が立っていた。
生き物は口から煙と炎を吐き出した。
「化け物だ…」
ソニオの王は消え入るような声で呟いた。
オラリオンの騎士が慌てて弓を構えて矢を番ようとすると、海が大きく渦を巻いて底なしの穴が開き、そこから恐ろしい一つ目の真っ黒な巨体が現れた。
激しい怒りに満ちた恐ろしい音を発すると、弓の弦がはずれ矢を番えていた騎士の腕が魔法にかかったように燃え上がった。
「あつい!あつい!」
騎士が水を求めて海に向かって駆け出すと、巨体から赤黒い長い舌が出てきて騎士をからめとった。
グチャリグチャリ
と、音を出しながら喰いだしたのだった。
巨体が騎士を喰らうと、4本脚の生き物は後ろ足で立って大きく嘶いた。
王はその4本脚の生き物が馬だと分かると、王にのみ語り継がれている陰惨な光景を思い描いて大声を上げた。
肌に吹き付ける冷たい風が彼等の首をだんだんと締め上げ始め、息苦しさと共に様々な動物の死骸の腐肉臭を漂わせた。
さらに大きな雷が鳴り響き、冷たい雨が降り始めた。
海が荒れ始めると殺された騎士達の血が飛沫となって、王達の全身を染め上げた。
(やはり…そうだった。
魔物はあの時に鎖で殺し尽くした動物なのだろう。
今度は化け物となって我等を殺しにきた…)
3つの国の王は、愚かさの全てを知っている三日月を恐れるようになったのだった。
最果ての森から恐ろしい魔物がやって来ると思ったソニオの王は、急いで白い防御壁を作らせて屈強な騎士達に守らせることにした。
しかし朝になると、壁は赤い赤い血の色に染まっていた。
防御壁だけでなく、小屋も騎士の鎧も全てが血の赤となっていたのだった。
どうやって色が変わるのかは、誰にも分からなかった。
ただ日の出と共に打ち寄せる波しぶきによって、色が変わってしまうのだった。
何度塗り直しても、白い壁は赤に染まった。ソニオの王はその色を恐れて、ついに全てを黒く塗りつぶしたのだった。
3つの国の王は恐怖の三日月の夜から一睡もすることができずに、忍び寄る影からなんとかして逃れようと考え続けた。
恐ろしい巨体の姿を目の当たりにすると、騎士では全く役に立たないと分かり、大いなる力に縋り付くことしか方法はないように思えた。
そして、ついに王達はユリウスに跪き、絶望を引き寄せる言葉を口にしたのだった。
「ユリウス様…どうか我等をお救いください。
我等が思うに、魔物は最果ての森から姿を現しているにちがいありません。
先日、ソニオ国に行き、確かめてきたのです。
どうか…最果ての森に魔物を追い込んで殺し尽くし、世界をお救い下さい。
もう騎士や兵士では全く歯が立ちません。
ユリウス様の御力で、どうか我等の国民をお救いください。
人間を苦しめる魔物を殺し尽くしてください。」
3つの国の王は深々と頭を下げながら、小さくなって身震いをしていた。ユリウスが何も言わないでいると、ついに惨めな王達は床の上で這いつくばり、憐れみを乞うように啜り泣きを始めたのだった。
「本来、魔法使いは生命を奪う事ができません。
魔法使いは光の道に導くことが使命でございます。
魔物は訴えかけるような目で何か言葉を発していると、騎士達が話していました。何か伝えたい事があるのでしょう。聞いて欲しい事があるのでしょう。
私は相手の話をしっかりと聞く必要があるように思います。
騎士達が攻撃するのを止めさせてみてはどうでしょうか?何かが変わるかもしれません。相手が攻撃してくるから、身を守る為に反撃に出ているだけなのかもしれません。
先に攻撃をしているのは誰なのか、よく考えてみる必要があるのかもしれませんね。
話をしようとする相手に弓を向けるのではなく、弓を置くのです。さすれば彼等も牙をしまうでしょう。
そもそも、この世界にどうして魔物が現れたのでしょうか?神は魔物は作られなかったはず。
そうすると…何か魔物が生み出されるような恐ろしい出来事があったのではないかとも考えられます。
物事には全て理由があるといいます。
王よ、どう思われますか?」
「ユリウス様、何を言っておられるのですか!?
魔物と話し合う必要などありません。
魔物は人間の生命を喰らうものです。
奴等は、殺さねばなりません。」
秘密が暴かれるのを恐れて泣き声を上げている3人の男を、ユリウスは残酷な目で見下ろした。
「私の目を見てください。」
光を纏った男は、闇のような漆黒の瞳で3人の男を真っ直ぐに見つめた。
「国民を守る為です…魔物に騙されてはなりません。
どうか殺してください!」
しばらくの間、ユリウスは黙ったまま3人の男を見つめた。
物音一つしなかった。
「死へと導けということですね?
もう後戻りはできなくなるかもしれません。
大切な生命を滅ぼしても、よろしいのですね?」
ユリウスは執拗に問うた。
「ええ!魔物など生命の価値はありません!
人間を喰らうだけのモノなのですから!」
悲鳴にも似た声を出した。
「ならば私は絶望をまとい、死へと導きましょう。
人間の王がその決断を下した、国民も同じ考えなのでしょう。
誰も他に声を上げない。
私は魔物を最果ての森へと導き、そこで終焉をもたらす魔法陣を描きましょう。」
と、ユリウスは厳しい声で言った。
その声は朗々と玉座の間に響き渡った。
3つの国の王は彼の言葉を喜び、この先も国民を欺きながら玉座が守られる事を喜んで涙を流した。
ユリウスは光り輝くことのない濁った涙を見つめた。
「ただ…」
ユリウスは考え込むような素振りを見せてから、しばらくの間黙り込んだ。
「どうされたのですか?ユリウス様?」
「私が魔法陣を描き、右手をあげれば多くの生命が滅びます。
もう彼等が地上を歩き回ることはない。
永遠に滅ぶのです。
失った生命はもとには戻りません。それは私の力をもってしてもできません。
最後のチャンスを与えねばなりません。
3つの国から勇者を選んでください。
剣の勇者、槍の勇者、弓の勇者として。
騎士でも、勇敢なる者でも、男でも女でも構いません。
ただ…その国の代表となるような素晴らしい者でなければなりません。皆を率いて英雄となるかもしれない者達です。
私は勇者と共に旅に出ます。
人間の世界に人間を束ねる王がいるように、魔物を束ねる魔王がいるのでしょう。
その者が、何者なのかを突き止めましょう。
勇者であるのならば、魔王が何者なのかを私に教えてくれるでしょう。
その言葉によって、私は道を決めましょう。」
と、ユリウスは言った。
「道を決める?
どういう事ですか?
最果ての森に行く旅路という事ですか?」
オラリオンの王は不可思議な言葉を聞くと、矢継ぎ早に質問をした。
「私は導きし者ですから。」
ユリウスは穏やかに微笑み、ただそれだけを答えた。
こうして、世界に光をもたらす勇者が選ばれた。
オラリオンの王は勇敢なる村の青年を、ゲベートの王は勇敢なる騎士を、ソニオの王もまた勇猛なる騎士を選んだ。
王達は勇者の武器を集めて、その横に東の塔から持ち帰った血水晶と羅針盤を並べた。それぞれ国に一つずつ作ったのだったが、天上の怒りの混乱で海に沈んでしまい、残ったのは血水晶が4つと羅針盤が3つだけであった。
王達は勇者の武器に血水晶をはめこむと、白の教会で形だけの偽の儀式をすませた。人間でも魔法が使える力を賜ったと言って、勇者に血水晶をはめ込んだ武器を与えた。
そして、旅路を監視するかのように、羅針盤を大切に手元においた。
勇者となる3人の男は白の教会で他にも様々な形だけの儀式を終えてから、恐ろしい武器を持って魔法使いの前に現れた。
魔法使いが人間に魔法を教えたり、その力を授けたわけでもないのだが、勇者は王の言葉通りに赤い宝石を武器にはめこんだだけで魔法が使えることを信じて喜んでいた。
国を救う勇者として選ばれたことを嬉しく思い、英雄となって帰還することに目が眩んでいる者として、ユリウスの目には映ったのだった。
ユリウスはそんな彼等を見ると、穏やかな微笑みを浮かべた。
ユリウスは旅に出る前に、魔法使いの子供達が1日でも早く本来の力を取り戻せるようにと、全ての栄養をとる事ができる種をのこした。そして子供達1人1人に声をかけてから室の扉を開けた。
リアムはユリウスに駆け寄り、彼のマントの裾を引っ張り、深い愛情のこもった目で彼を見つめた。
ユリウスはリアムと目線を合わせてから、強く抱き締めた。腕の中で、彼の帰りを待つ温もりを感じながら優しく頭を撫でた。ユリウスは室の扉を閉めたが、胸を締め付けられる思いになった。
「ユリウス様…あの…忘却の呪文は…」
オラリオンの王はユリウスが出発する前に小さな声で聞いた。ユリウスは真っ青な顔をしている王を見つめた。
「忘却の呪文より強力な呪文を唱えました。
魔法使いの中でも、選ばれたる大人の魔法使いしか唱える事ができない呪文です。忘却の呪文のように毎日唱えなくても効果は持続します。一度唱えれば、1年間は大丈夫です。
1年後に暁の光が射し、厳かな鐘の音が鳴り響く時に効果は消えるでしょう。」
「え?そんな事ができるのですか?
1年間も…もしや…この旅はそれほど長くかかるのですか?それに鐘の音とは一体…誰が鳴らすのですか?」
「魔王によって闇に覆われた世界です。
英雄が光をもたらすには時間がかかります。
2度と道をあやまらぬように、私も英雄となる者には力を与えます。
魔王とその手先を粛清し、世界に余計な混乱を引き起こさないようにせねばなりません。
地上から完全に消し去らなければなりません。
神の願いを、これ以上汚さぬように。
全て私にお任せください。」
「おお!ユリウス様!
それほどまでに、この世界を愛していただけていたとは思いませんでした。
それなのに…我は、ひどく浅はかでした。
深く感謝いたします。」
オラリオンの王はユリウスの言葉を心から喜んだ。
「私は統べる者でもありますから。」
と、ユリウスは言った。
こうして魔物を生み出した魔法使いと勇者の旅が始まった。
朝は早くに起きて出発し、夕暮れになり4人の影が長く伸びるまで歩みを止めなかった。
ユリウスは勇者の歩みが遅れてくると、必ず休憩をとり、勇者と様々な話をした。ユリウスの顔を見ながら声を聞くたびに、魔法にかかったように勇者の体から疲れが取れていった。ユリウスは疲労を全く見せなかった。
時として彼等の前に魔物が現れたが、勇者を襲う前に必ず人語のような言葉を発した。
けれど、彼等の声は勇者にすら届かなかった。
勇者は彼等の言葉を聞くこともなく剣と槍をかざすと、魔物も牙を剥いて威嚇した。しかし、マントを被った魔法使いの顔を見ると、逆立っていた尻尾を下ろして、家族のもとへと帰って行った。
夕暮れ時、一行は吹きさらしの高い崖で立っていた。
空は茜色となり、崖から見える山々は茶色に姿を変えていた。
南から吹く冷たい風によって勇者のマントは翻り、ユリウスは悲しい鳴き声を上げる鳥の群れを眺めた。
遥か遠くに立ち上る煙は、どこかの村がおちたようだった。
ユリウスは灰色の煙を眺めながら、風に翻るマントの中で右手を動かした。
すると頭上の得体の知れない大きな黒い雲が、奇妙に動き始めた。徐々に黒い雲は翼を得て、蛇のような尻尾を生やし、長い首を形作り、瞳のように輝く黄金が煌めいた。
ユリウスは、ただ一言「キナサイ」と小さく呟いた。
剣の勇者が近づいて来る不思議な黒い雲に気付いて、「危ない」と大きな声を上げた。
今やハッキリとした姿で空中を旋回しながら大地へと降り立ったのは、雲ではなく、お伽話に出てくるようなドラゴンだった。
ドラゴンが大地に降り立つと、大地が大きな音を立てて振動し、勇者は体勢を崩して倒れ込んだ。
ドラゴンの体躯は漆黒の闇のようであった。
艶めく鱗に覆われた体は美しく輝き、5本の指からは鋭利な爪が煌めいていた。立派な翼と強靭な体をしていて、蛇の尾のような尻尾は太く先端が尖っていた。
勇者の大きく見開かれた目は、ドラゴンだけに注がれた。
彼等の横で微笑みを浮かべている魔法使いには、誰も気づかなかった。
度肝を抜かれた勇者は、突然現れた巨大な空想上の生き物に恐れを抱いた。剣の勇者が剣を鞘から抜こうとしたのを止めたのは、弓の勇者だった。
「待ってください!
その方をちゃんと見てください!」
と、弓の勇者は叫んだ。
大地に降り立った漆黒のドラゴンの金色の瞳は、きらきらと光る陽の光のように美しく輝いていた。
「剣の勇者よ!剣を下ろしてください!
僕は、その方に危害を加えてはいけないと思います!」
ユリウスはそう叫んだ弓の勇者の顔を見つめた。
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