第56話 魔王
その部屋は魔王であるアンセルでさえ知らない秘密の部屋だった。部屋の扉も今まで見た事がなく、何らかの力によって今まで隠されていたかのようだった。
白く塗られた壁、部屋の中央に置かれている漆黒のベッドのようなものだけしか家具はなかった。
アンセルが天井を見上げると照明器具はついていないのに、雲の裂け目から光が射すように、光の筋のような輝きが部屋を明るく照らしていた。
アンセルは少し驚いた顔で部屋を見渡していたが、やがてゆっくりと彼の顔を見ているミノスの顔を見た。
この光で照らされて見るミノスの顔はますます深い皺が目立っていた。広場で見るよりもはっきりと分かり、剣の稽古をやめても以前のようには戻らなかった。今にも燃え尽きそうなほどに生命の火は弱くなっていて、暗い影を落としていた。
けれど、どこか清々しくもあった。
ミノスはベッドの横に立っていたが、姿勢を正して深々と一礼をした。
アンセルはゆっくりと口を開いた。
「約束して下さい。
全てが真実でなければなりません。
全てを知らなければ、勝つ事は出来ないでしょう。
俺は全てを受け止めてみせます。
今までありがとうございました。もう俺は大丈夫です。
俺はようやく分かりました。
かつての魔王は『かのお方』ではありません。
『かのお方』は勇者と共に戦い、世界を救いました。
そうなると、残された者は1人しかいません。
その男こそが、かつての魔王です。」
アンセルは声を大きくして言った。
その声は鋭くはっきりとしていた。ミノスはアンセルが自身が本来意味するところの魔王ではない事を気に病んでいるのではないかと思っていたが、彼の瞳はそのような言葉にしがみつく事もなく、もう迷いもなかった。
自信に溢れたアンセルの目の光は、この部屋を照らす光にも負けないほどに煌めき、どのような現実でも受け止めてくれるであろう頼もしいものに見えた。
「お約束いたします。」
と、ミノスは言った。
ミノスはアンセルの目を見、しばらく間を置いてから重たい口を開いた。
「仰る通りでございます。
クリスタルに封印されているのは『かのお方』ではありません。」
ミノスはそこまで言うと、恐れの色を浮かべながら深呼吸をした。まるで、その名を口にして正体を明かす事を恐れるかのように口元を微かに震えさせた。
しばらくの間ミノスは口を開かずに、彼の前に立つアンセルを見つめていた。どちらも動かなかった。ミノスの赤い目にはかつての魔王と過ごした日々、そしてミノスが見た『かのお方』の全てが蘇っているかのような目をしていた。
この瞬間は、アンセルにとって嫌な時間だった。
もう誰が封印されているのかは分かったが、心臓は激しく高鳴っていた。
ミノスはゆっくりと口を開いた。
「クリスタルに封印されし方は、
魔法使いの王 ユリウス様でございます。
2つの使命を帯びられ、人間を導き、あるいは美しさをはかり審判を下される御方です。」
アンセルの脳裏にはっきりと、あの時彼を見たユリウスの黒い瞳が蘇った。天井から不思議にも射し込む光に照らされながらも、凍える冬のような冷たい風が彼の体に吹きつけた。
忘れもしない底冷えのするようなその目の威力で背筋がゾクリとし、身の毛がよだった。
「魔王は、ユリウス…」
アンセルも、その名を口にした。
今この瞬間もあの妖艶な黒い瞳が自分を見ているようにアンセルには思えた。
「クリスタルの美しい7色の光は、神の領域にあるユリウス様の絶大な力と美しさによるものです。
あの禍々しさは世界を…いえ、神が人間をお許しになられてはおらず、ユリウス様のもう一つの使命…今のままでは人間を滅ぼさねばならないという思いがそうさせているのだろうと思います。」
アンセルは鳥に囲まれていた時の慈愛に満ちた美しさと、鳥達に向けられていた優しさ、そして凍りつきそうなほどの恐ろしさを思い出した。確かに彼は美しさと優しさと恐ろしさを兼ね備えた男だった。
「俺は一体何者なのでしょうか?
一体何が…どうなっているのですか?どうして魔王がドラゴンにかわったのですか?」
と、アンセルは言った。
「このダンジョンの秘密…いえ、この世界に起きた恐ろしい出来事から順を追って、お話しせねばなりません。
私が老体となっても、このように生きている理由についても、お話しさせていただきます。」
と、ミノスは言った。
その瞬間アンセルは、かつてミノスの事をマーティスに聞いた時に彼が嘘をついていたのだと分かった。
アンセルはマーティスを見た。
マーティスは顔色を変えることも下を向くこともなく、ただ真っ直ぐな目でアンセルを見つめ返した。
マーティスは言い訳をしようともしなかったし、謝ろうともしなかった。
あの時は自分があまりに幼すぎた為に、そう答える事が正しかったと確信しているからだろうとアンセルは思った。
ただ悪戯に嘘をついていた訳ではなかった。
騙されていたともとれるが、2人を責める気は起こらなかった。
ユリウスから様々な恐ろしい光景を見させられたことで、この世界の闇を少し分かったからでもあった。
あの時のアンセルには残酷な真実を受け入れられるほどの心の強さはなかった。残酷であればあるほど打ちのめされて嘆き悲しみ、深く傷ついて心を閉ざしてしまっていただろう。
背負いきれぬ者に、時を考えずに全てを打ち明けることが正しい事ではないと思った。俺を守る為に嘘をつき、俺自身もその嘘によって守られてきたのだからとアンセルは思ったのだった。
彼は大声を上げて2人を罵るほど子供ではなかった。
それに、アンセルに真実を告げられずに2人も苦しんでいた事はよく分かっていた。
ミノスは、アンセルがマーティスを見た事で何かを感じとった。
「マーティスの名誉の為に言いますが、彼も真実は知りませんでした。彼には神により直接見させられ、与えられた記憶があるだけでした。その部分だけしか知りませんでした。
けれど、彼は魔力によって気付いていました。
このダンジョンのおかしな事に……ユリウス様が作られたこのダンジョンが閉ざされても、外の世界と同じように魔物が生き続けられる圧倒的な力を感じていたのです。
さらにダンジョンに施されている封印の魔法が、本来魔力をもたぬ人間では到底施せる魔法ではないという事にも。
勇者達がここに向かっていると知る前からマーティスは私に何度も尋ねました。
けれど、その度に私ははぐらかしてきたのです。
それは『かのお方』との約束でもありました。
その時が来るまでは、誰にも真実を話してはならぬという約束だったのです。
誰かに漏らせば、何か恐ろしいことが動き出そうとするかも知れぬとおっしゃいました。
勇者がこちらに向かっていると分かった日に…私はマーティスに全てを話したのです。そしてアンセル様に決して真実を伝えてはならないと釘をさしました。」
ミノスはそこまで言うと、アンセルに深々と頭を下げた。
「私達は同じ考えを抱きました。
こちらに向かっている勇者一行の中に魔法使いがいたからです。そうであって欲しくないと思いながら、恐れを抱きました。
ユリウス様の御力を少しでも感じるのであれば、私達はなんとしてもアンセル様を鍛え上げ、守り抜こうと誓ったのです。
アンセル様は本当に優しく、仲間を思い、憎しみと欲望にまみれることもなく、心からこの閉ざされたダンジョンを愛して下さいました。
このダンジョンは平和そのものでした。
だからこそ魔物達も外の世界に出たいとは言いませんでした。
けれど…外の世界の愚かさは何百年経っても変わることはありませんでした。神が願われた美しさを見せることはなかったのです。
ユリウス様が人間に失望された時から…何一つとして変わりませんでした。
だからこそ、時がきたのです。
その中の一つとして申し上げると、神が作られた魔法使いと今の魔法使いはちがいます。愚かな王の所業が、人間を導く光の存在すらも変えてしまいました。
本来の魔法使いは今よりも遥かに強大な力を持っていました。そして他の色に染まらぬようにと、神は魔法使いの髪と瞳の色は黒く創造されていました。」
と、ミノスは言った。
アンセルは水晶玉で見ている魔法使い達を思い出した。忘れもしないルークの髪の色は銀だった。
瞳は黒かったが、美しい銀髪をした美少年だった。
「いや…魔法使いの男の子の1人は銀髪だった。
瞳は黒いけれど髪の色はちがう。」
アンセルは呟くように言った。
「今の魔法使いは、その力を王の為だけに捧げるようにと、ある方法によって体を改造されています。
その結果、彼等は本来の力をほとんど失くしました。
魂に植え付けられた神の願いは何者も犯すことはできませんが、髪の毛の漆黒さは失われました。」
「そんなバカな…体を改造するって…」
アンセルはそこまで言ったが、酷い暴力を受けていた光景を思い出し、注射を打たれて気絶した少年や、ルークが妙なクスリを飲まされて苦しんでいた姿を思い出した。
「本当に多くの魔法使いの生命が踏みにじられています。
人間は死すべき運命にある者達ですが、本来の魔法使いはちがいました。
それは今からマーティスが施す魔術の中で、実際に見ていただいた方がよいでしょう。」
と、ミノスは言った。
アンセルは聞いただけでも酷い吐き気がした。
彼には他人を平気で傷つけることができる人間の気持ちが全く分からなかった。相手が傷ついて苦しんでいる姿を見るよりも、共に喜び笑顔を見せてくれる方が彼には心地よかった。
「ではユリウスはそれが許せなくて、人間を滅ぼそうとしているんですか?自らと同じ魔法使いがそんな酷い事をされているから…人間全てを…」
「いえ、そうではありません。
もしユリウス様が魔法使いだけの事を考えている方であれば、もう人間はこの世に存在していないでしょう。
滅ぼすのは簡単です。
けれど、失った生命は戻りません。
ユリウス様は2つの使命をお持ちです。
魔法使いとしての願いと魔王としての使命。それは光と闇です。
5つの国の王は神が決して開いてはならぬとした闇の魔法書を使い、多くの生命を自らの欲望の為に殺しました。
最も恐ろしく残酷な方法…鎖によって。
それ故にユリウス様の右手は恐ろしいほどの絶大な力を持ち、左手で人間の美しさをはかることになりました。
このままでは、もう一度右手をあげられることでしょう。
ユリウス様は人間は変わることなく愚かであり、もう光はないと思われています。もう一度ユリウス様に光を見せねばなりません。」
と、ミノスは言った。
「神は一体なにを…何故そんなことを…何故人間の世界を滅ぼそうとする…自分がつくった人間なのに…。
何故それを…ユリウスに…なんで…なんで…」
今のアンセルには理解出来なかった。
「あの御方達のお考えは誰にも分からないでしょう。」
と、ミノスは言った。
「神とは絶対的な御方です。
眩いほどの光の存在であらせられるために、私達には御姿ですら見る事ができない。両の瞳で私達を見下ろされています。
人間を深く愛しておられますが、愛されているのは人間だけではない。世界が歪むのであれば正さねばなりません。
神とは慈悲深く憐れみの手を差し伸べるだけの存在ではないのです。
あの時は天上の禁を破ってまで、ユリウス様の動きを止められた。
けれど、2度目は決してありません。
美しさが打ち勝たねば、ユリウス様は3つの国を森にかえされるでしょう。
けれど、最も恐ろしい事態はまぬがれました。
今回の勇者達は、目が眩むことなく、手を取り合いながら希望の道を歩もうとしている。
けれど…そこに闇が覆いつくそうともしています。
長きにわたる残酷な日々が望みを砕き、分厚い雲で覆い、光を消そうとしています。漆黒の恐ろしさは、彼等の力を遥かに上回る。
それでも活路を見い出せるのかと、彼等の真偽を試しています。
それほどまでに世界は歪んでいるからです。
ユリウス様に勝てない勇者では世界は変えられないと。
3人の勇者という名の希望。
あの御方が一体どのような形でアンセル様の前に再び姿を見せられるのかは分かりませんが、希望を絶やしてはなりません。
この世界をお許しにはなられておらず、ユリウス様が魔王として動き出したと分かった今、勇者は運命によって選ばれた勇者です。なんとしても彼等を真の英雄として帰還させねばならない。
それは『かのお方』ができなかったこと。
勇者が言葉を話す魔物の話を聞こうとせずに攻撃してくることのないように、アンセル様には立派な魔王としての振る舞いができるように鍛錬を積んでいただきました。
立派になられたアンセル様の言葉には重みがあります。
剣を鞘から抜く前に、十分に話し合う必要のある者だと、彼等は思うでしょう。彼等は騎士です。武器を持ちながら膝をつき、媚びへつらう者の言葉は聞きはしないでしょう。
今度こそ正しい道に彼等を歩ませねばなりません。
そして、世界を変えられるほどの力を、英雄が持つ武器に与えてもらわねばなりません。
そうせねば世界は変わらないのです。」
ミノスはそう言ってから、アンセルを見つめた。
「ミノスさんは難しい言葉を時々使います。
この世界に本当は何が起こったのかを知らなければ、俺は本当に分かったとは言えません。
もっと順に…その全てを見なければ俺には何も分かりません。分かったとは言えません。」
と、アンセルは言った。
「最後の魔術となります。
全ては、この日の為でした。
私は『かのお方』から受け継いだ全てをアンセル様にお伝えいたします。」
と、ミノスは言った。
アンセルは漆黒のベッドに横になった。
そのベッドは彼が思っていたよりも固かった。ドラゴンの鱗を思い出させるようにゴツゴツしていた。
マーティスは白き杖を握った。
アンセルは目を閉じる前に、ミノスの顔を見た。
その瞳に映ったミノスの顔は深い絶望を知った男の顔であった。
「ユリウス様は、お優しい方でもあり、恐ろしい力を持った方でもあります。
そして風のように世界を包み込み、全てをご覧になられています。」
ミノスは低くひそやかな声で言った。
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