第43話  灰


 自らの決断を考えるほどに、アンセルの優しい心には闇が重たく垂れこめていった。

 どれだけ考えても閉ざされたダンジョンでは出来ることなど何もなく、無力さを感じるだけだった。金色の瞳が本来の輝きを失くして大部分が影に覆われると、魔法使いの子供たちの苦しむ姿が頻繁に心に浮かぶようになった。


 アンセルは苦しくてたまらなかった。今もこうしている間に魔法使いの子供たちが、男たちからひどい暴力を受けていると思うと、憎む気持ちがどんどん強くなっていった。

 これが自分の気持ちなのか、そう思うようにさせられているのかすら分からないほどだった。


 抵抗が出来ない者や抵抗する力すらも奪われた者に対して、嬉々としながら暴力を振るい続ける男たちの醜い笑顔が浮かんだ。その醜い笑顔は、こちらに向かってやって来る勇者の顔に重なっていった。

 魔法使いの子供たちが魔物の子供たちとなると、勇者に次々と捕えられて引き摺るように3つの国に連れて行かれ、見せ物にされながら処刑されていく姿が浮かんだ。

 処刑を見ている人間は歓声を上げたり石を投げたり、そうでなければ無関心に酒を飲んでいるのだった。


 想像が広がっていくと、人間が憎くて憎くてたまらなくなった。男たちは勇者となり、勇者は見ている者と傍観者となり、やがては人間全てとなったのだ。

 人間全てに、その報いを受けさせなければならないと思った。


「罪の重さを、人間に思い知らせてやらなければならない。

 恐ろしい暴力を、奴等も味わわねばならない。さもなければ、分からないだろう?

 同じ恐怖を、味わえばいい。

 アレが人間の真実ならば、奴等に暴力をやめさせたところで何も変わらない。次から次へと蛆虫のように湧いてくるだろう。やめさせても、やめさせても、終わらない。

 何度でも繰り返すだろう。

 柔和な顔をした男ですら、その実は恐ろしい男だった。人間はいくらでも化けの皮を被れるのだから、全ての人間が被っているのだろう。人間なんて、信じてはいけない。

 ならば、いっそのこと全てを粛清し、新たな世界をつくった方がいいのかもしれない。

 暴力は受け入れられないが、俺がしようとしているのは暴力ではなく、人間に正当な罰を与えるだけだ。

 俺にはソレが許されている…その為の力なのだから…」

 アンセルは恐ろしい形相でそう呟いたが、すぐにまたリリィの温もりを思い出した。


(ちがう…そうじゃない。

 たしかに…力がなければ、ダンジョンは破壊され、魔物は殲滅されるだろう。向かって来る勇者と、戦わなければならない。

 しかし戦うとは、魔物の声を届けることだ。

 俺は、俺の決断をしなければならない。

 人間を殺し尽くして、俺は…俺たちは…生き続けることが出来るのだろうか?被害者になりたくなかったら、加害者になるしかないのだろうか?降り注ぐ血の重みに、耐えられるのだろうか?

 その先に、俺は何を見るのだろう…) 

 アンセルが深い溜め息をつきながら天井を見上げると、その男が囁いた言葉が降り注いできた。


『神の審判は、すでに下されているのだから。

 美しいものでないのならば「人間」に罰を与えてやらねばならない…5つの国が、3つの国になったように。

 醜悪な灰を堆肥にし、その上に咲き誇る木々は、とても美しい。それは、神が愛した本来の世界だから』


(5つの国が、3つの国になった。では…あとの2つの国は…どこにいったんだろう?)

 アンセルが目を閉じると、マーティスが以前に見せてくれたこの世界の地図を思い出した。

 この世界に、大陸は2つしかなかった。人間が暮らす3つの国の大陸と、このダンジョンがある大陸だ。


 アンセルは腕組みをしながら考えた。


(2つの国の領土は併合されたのだろうか?いや…ちがう。それだと、かつての魔王が言うような人間に罰を与えたことにはならないだろう。

 大洪水か何かが起こって…2つの国は海に沈んだのだろうか?しかし海に沈んだのなら、木は育たないから違う。

 咲き誇る木々…とは…森…のことか?も…り…?

 ここは…最果ての…森。このダンジョンは…最果ての森にある…)

 アンセルは恐ろしいことに気付いた。身震いしながら目を開けると、天井に描かれていた騎士と天使の絵を思い出した。


 赤い瞳をした天使が吹く楽器は血の色で赤黒く染まり、その足元には粉々になった盾と斧が転がっていた。

 3つの国は剣と槍と弓を掲げているのだから、2つの国は盾と斧を掲げていたのだろう。

 黒い瞳にかわった天使が見る視線の先には、剣と槍と弓が輝いていた。


「盾と斧は、何処にいってしまったのだろうか…」

 そう呟いたのと同時に、天井画が意味していることにも気付くと体がガタガタと震え出した。


(あれは、ただの天井画ではない。この世界の過去と現在が描かれているのだろう。

 盾と斧である2つの国は罰を受けて粉々にされ、剣と槍と弓である3つの国を…神の使いである者が人間を裁く為に見つめている…。

 いや…まさか…ありえない…。

 この森は、人間のなれの果ての姿…そこに、このダンジョンがあるとしたら…)

 アンセルは悲鳴を上げてしまいそうになった。


「生命を踏みにじった絶望の上を歩き続けることなど…それを知りながら歩き続けるのは恐ろしくて…」

 マーティスの言葉も思い出すと、アンセルは全てが繋がったような気がした。


 すると部屋の天井がグルグルと渦を巻き、そこには2つの国が描かれた。天使が楽器を吹き鳴らすと、2つの国は瞬く間に燃えていき、残されたのは灰だけとなった。

 灰の一部は、まだ動くことが出来た。灰はまだ自らが生きていると思い込んでいるのだろう。

 灰は積み重なり、人間のような形となると、救いを求めて彷徨い出した。天井を歩き回ってから壁を降りてきて、床を這いながらアンセルに迫ってきたのだ。


 アンセルは恐ろしくなり、逃げるように後ずさった。

 灰はもう形を維持するのは困難で、ボロボロと崩れていくと、酷い悪臭が漂った。

 アンセルは息をすることも苦しくなった。

 憎しみに駆られ怒りのままに戦いを選べば、辿り着くのが「何」であるのかを、自らに問いかけなければならない。

 そこには、喜びもなければ勝利もない。耳に響くのは、彼が殺した人間の叫び声だけとなった。


 アンセルは恐ろしくなって部屋から飛び出すと、18階層まで全力で走って行った。



「マーティス!」

 アンセルは大声を上げながら書庫のドアを乱暴に開けた。


「何かありましたか?顔が真っ青ですよ」

 と、マーティスは言った。


 冷静なマーティスの顔を見ると、アンセルはようやく我に返った。マーティスが首を傾げると、アンセルは体をモゾモゾと動かした。


「昨日…なんで来なかったんだ?駆けつけますって言ったじゃないか」


「そんな事で、それほど慌てて来たのですか?

 駆けつけたではないですか」

 マーティスはアンセルの言っていることがサッパリ分からないとでも言いたげな顔をした。


「いや、来なかっただろうが」

 と、アンセルも怪訝な顔をしながら言った。

 

「僕が駆けつけるとは言ってないですよ。僕が、とは。

 お茶を飲んでいたので忙しかったんですよ。香りも楽しみたいですから。

 だから、より良い相手に行ってもらいました。何か、マズイことにでもなりましたか?」


「いや…そんなことは…」


「そうですか?

 戻ってきたリリィからアンセル様の香りがしたので…僕はてっきり…」


「えっ?抱き締めた…だけだよ」

 アンセルが真っ赤な顔で言うと、マーティスはクスリと笑った。


「冗談でしたけど…やはり、そうでしたか。やっぱり僕が行くよりも、リリィが行って良かったです。

 アンセル様には、その方が大きな力になると思いましたよ」

 と、マーティスは優しい目をしながら言った。


「なんだよ…。だったら、マーティスも誰かと…」

 アンセルが恥ずかしくなってそう言うと、マーティスは少し悲しそうな顔をした。


「前にも話しましたが、僕はダメなんですよ。

 僕が女性を愛することは、絶対にあってはならない。神の怒りに触れたのですから。

 僕が女性を愛すると、その女性は生命を落とします。

 だから僕は愛を知ることなく生きていかなければならない。いつ終わるのかも分からない生を…。

 どんなに愛しく思う日がきても触れることさえ出来ない。触れてしまえば、全てを愛したいと思うでしょうし。

 だから僕は女性とは深く関わらないようにしています。そのような感情を持つことがないように。

 僕は役割を…果たさなかったのですから」

 と、マーティスは呟くように言った。

 その瞳に苦しみと後悔の色が浮かぶと、永い時を生きてきた証である深い皺が額に刻まれていった。白き杖を握る手は力をなくし、今にも透けてしまいようになっていた。


 アンセルが驚いて瞬きをすると、いつものマーティスの顔に戻っていて、その腕も力強いものとなっていた。


「どんなに後悔しても戻らない。

 あの時どうして…役割を果たそうとしなかったのでしょうか。あのような惨事を招いたのは…僕のせいなんです。

 しかしどれほど後悔しようとも、大切は生命は戻らないのです。

 だから、アンセル様は後悔をなさらないように。自らの決断をして下さい」

 マーティスは真剣な表情で言うと、また笑顔を浮かべた。


「本当に迷惑なら、そろそろやめますよ。

 どういたしましょうか?」

 マーティスがそう言うと、アンセルは黙り込んだ。


 迷惑な訳ではない…抱く感情の多くが憎しみへと変わっていきそうだったのを、リリィの優しさと温もりで思い留まることが出来たのだから。マーティスとは違う思いが湧き立っていったのだから。


 マーティスは少し満足そうに微笑むと、アンセルのことを心から心配する表情へと変わっていった。


「一体、何があったんですか?恐ろしいものを見た目をしていますよ」

 マーティスがそう言うと、アンセルはルークの怯えた顔を思い出した。


「その…男の勇者は…魔法使いに…酷いことを言ったり…したり…しているのかな?

 その…マガイモノって…言ったりとか…」

 アンセルがその言葉を口にすると、マーティスはみるみる険しい表情になっていった。


「誰かがそのような言葉を使ったとしても、アンセル様は決して口にしてはなりません。

 生を受けた者に、マガイモノなどおりません。

 僕が水晶玉で見ている時には、そのような事は一度もありませんでした。

 何故、そのような事を?何を、見たのですか?」

 マーティスはアンセルの影に覆われた瞳を見つめながら言った。


「見たんだ…いや、見させられた。

 気づいたら俺は…何処かの部屋にいた。今思えば…城か宮殿の部屋だったんだと思う。

 魔法使いの子供たちが…恐ろしい暴力を…人間の男から受けているのを見たんだ。

 あれは…夢や幻なんかじゃない。現実に…起こっていることなんだ。水晶玉で見た…魔法使いがいたから。

 あまりにも恐ろしくて…人間が怖くなった。信じられなくなった。

 子供たちに恐怖を与えたように、俺が人間に思い知らせてやらなければならないとも思った。それが…正当な手段であると思ってしまう。激しい憎しみが、俺を焼き尽くそうとする」

 アンセルはそう言うと、側にあった椅子に座り込んだ。大きく息を吐いてから、頭を抱え込んだ。


「なんで…あんな事になったんだろう?

 魔法使いは光の存在のはずなのに…恐ろしい暴力に耐えながら生きている。人間が…魔法使いを支配しているんだ。

 一体、いつからなんだろう?何で、そうなってしまったんだろう?

 ユリウスが人間の勇者と共に戦っていた…かつての決戦時は…どんな関係だったのかな…?

 ユリウスの力は凄まじかったようだから、人間に支配されるようなことはなかっただろう。

 どこで、おかしくなったんだろう?何が原因で…そうなってしまったんだろう?」


「さぁ…どこからでしょうか」

 と、マーティスは言った。


「もしも…もしも…ユリウスの時からそうだったのなら、彼はどう思っていたんだろう?

 いや、そんな訳ないか。ユリウスなら止められる力があっただろう。かつての魔王である『かのお方』の半身に、癒えることのない火傷を負わせるぐらいの力があるんだから。

 だったら…ユリウスが死んでから…おかしくなったのかな?

 一体…どこから…」

 アンセルは見たこともない世界一の魔法使いに思いを馳せていった。


「僕にはユリウス様のお考えは分かりません。ユリウス様が真実は世界をどう見ていたのか…誰にも分からないでしょう」

 と、マーティスは呟くように言った。


「かつての魔王は…そんな人間をとても憎んでいる。美しくないのなら、人間に罰を与えてやらねばならないと…俺の心に語りかけるんだ。

 その考えは…間違っているのに、あの甘美な声を聞くと、ソレが正しいことに思えてならなくなる。

 恐ろしい光景もよみがえって、人間が醜いものに思えてならなくなるんだ…。

 人間は偽りの涙を垂れ流すとも言っていた。人間は…本当に…そんな事が出来るのかな…?俺たちとは…随分ちがうな…」

 アンセルはゆっくりと顔を上げると、その事を否定して欲しいと言いたげな瞳でマーティスを見た。


「えぇ、人間は出来ます。

 僕も、知っています。とある男たちは自らが助かりたいが為に多くの生命を救いたいと言って、偽りの涙を垂れ流しながら以前の僕の前に跪きました。

 許しがたい所業を悔いることもせずに。

 僕はその男たちをこの手で殺しましたが、その事については後悔はしていません。

 人間は偽りの涙を流しますが、この最果ての森では嘘をつくことなど出来ないでしょう。

 だからアンセル様は、アンセル様の見られたものを信じたらいいのです」

 マーティスの琥珀色の瞳は、その男たちを思い出して怒りの炎で燃えていた。


「かつての魔王は、神の領域に踏み込んでいます。

 だからこそ、より人間の愚かさを見られたのでしょう。

 その絶大な力に群がり、人間同士で争い、魔王の力を利用してやろうと媚びへつらう者は大勢いたでしょうから。

 その瞳に映る人間は、吐き気がするほどだったと思います」

 マーティスは薄汚い人間の顔を浮かべたのか、うんざりするような表情になり深い溜息をついた。


「アンセル様、お茶でも飲みませんか?

 あたたかい飲み物でも飲めば、心が落ち着きますよ。

 何か楽しい話でもしましょう。

 弓の稽古はしばらくの間なくなりましたが、僕の魔術は今日もしますので」

 と、マーティスは言った。


 アンセルの瞳がすっかり影に覆われてしまったことで、ミノスは「弓の稽古は、しばらくお休みにしましょう」とアンセルに言ったのたった。


「もう一つだけ…教えて欲しい。本当は、それを聞きたくてここに来たんだから。

 この最果ての森って、はじめから…森だったのかな?」

 アンセルが小さな声で聞くと、マーティスはアンセルの瞳を見つめた。


 重苦しい沈黙が流れたが、先に目を逸らしたのはマーティスの方だった。


「それを答えていいのは、僕ではありません。

 申し訳ございません」


「分かった。ありがとう」

 と、アンセルは言った。本当の事はまだ分からないが、その言葉が「答え」であるように思えたのだった。



 しばらくの間、彼等は書庫で穏やかな時間を過ごしていた。マーティスの魔術の時間になると、アンセルは心臓が締め付けられるように痛くなっていった。


 マーティスはいつもように魔法陣を描いていたが、半分ほど描いたところで急に手を止めた。


「僕の魔術で今見せれるのは、かつての20階層の広場だけです。アンセル様には『かのお方』の目から、かつての20階層を見ていただいています。

 もし別の場所が出てきたら、それは僕が見せているものではありません。とても危険です。

 そこでは、どのような方とお会いしても、決してその瞳を見て、その方に応えてはなりません。

 目覚めた時に、アンセル様ではなくなっているかもしれません。お気を付けて下さい」

 と、マーティスは言った。


 アンセルが目を閉じたまま大きく頷くと、マーティスは魔法陣を最後まで描いて魔術を施したのだった。




 真っ黒な穴の中に引きずり込まれ、長い長いトンネルを滑り落ちていくと、そこはマーティスが言ったとおりいつもの広場ではなかった。


 アンセルは分厚い灰色の煙で覆われた場所を歩いていたが、その煙が薄くなってくると立ち止まった。

 その場所はだだっ広くて、焼け焦げて判別がつかない残酷な残骸がいたるところに転がっていた。激しい炎で燃やし尽くした後にできる灰で覆われた大陸のようだった。

 想像を絶するような恐ろしい出来事が起こったのだろう。

 足元の灰からは悍ましい臭いがした。恐怖と憎しみ、怨嗟と絶望が臭いの元になっているように感じられた。


 アンセルが辺りを見渡していると、遠くの方で灰の塊が動き出した。この地獄から逃げようと、二本足のよく知っている形になろうとしていた。


 しかし真っ黒い馬のような化け物が駆けてきて、それをグチャリグチャリと音を立てて喰い出した。

 遠く離れているのにその音はハッキリと聞こえ、身の毛がよだつほど恐ろしかった。

 アンセルの体が震え出すと、もっとよく聞かせようとするかのように、さらに大きな音を出しながらグチャリグチャリと喰い尽くした。


 黒馬のような化け物は辺りを見渡し、もう灰が動き出さないことを確認すると、灰色の空を見上げて嘶いた。

 灰色の空は赤黒く渦巻いて稲妻が閃めいていたが、空の隙間から光が見えて斜めに降り注ぎ始めた。 

 その光は、本来は神々しいほどに美しいはずだった。

 しかし世界を粛清し、新たな生命をつくり出そうとするかのうな恐ろしい光のようにアンセルには見えた。


 いくつかの多種多様な種が、空の隙間から降ってきた。

 はじめは数えられるほどであったが、やがて流星群のように降り出した。

 種は苗木となり何者かによって植え付けられ、灰を養分として吸い取ると、地面から軋むような音が至る所で上がった。

 その音はよくよく聞いてみると、恐ろしい呻き声のようだった。


 銀の滴が空から降ってくると、大地に染み渡っていった。雨が降り、雲が消えていくと、太陽が顔を出して大地を照らした。もの凄いスピードで木々が成長していき、樹齢数百年にもなるような見事な巨木へと成長して森となっていった。


 しかし、アンセルは恐ろしくてならなかった。木々の葉が緑色ではなく、赤黒くて毒々しい絶望の色に見えたのだった。

 ここに立っているのも怖くなり、森を出ようと走り出した。

 急速なスピードで成長を続ける木々の間をすり抜け目指す場所すらもなく走り続けていたが、彼の足は何処かに向かっているようだった。


 しばらくすると美しい歌声が聞こえ、その声に導かれるように開けた場所に辿り着いたのだった。


 輝く太陽の光に照らされながら、男が立っていた。

 その男の背丈はアンセルと全く同じなのに力強く堂々としていて、はるかに大きく感じられた。

 小さな鳥たちも美しい声に引き寄せられて集まり、その声に合わせて囀り始めた。

 その男が右手を差し出すと、小さな白い鳥がその男の指にとまった。その男が鳥を撫でると、嬉しそうに鳴き声を上げた。


「アンセル、君もこちらに来なさい」

 その男は後ろを向いているというのに、アンセルにとっくに気付いていた。


 すると自分の意思とは関係なく、その男のもとへと足が動いた。その男は、静かに振り返った。


 その男は、アンセルだった。

 けれどアンセル以上に影のある瞳は夜の闇のように妖艶で、表情も麗しく、底知れぬほど魅力的な男だった。

 アンセルは、その男に一瞬で心を奪われた。心を奪われぬ者などいないだろう。

 もっとその男に近づきたいと思い、アンセルは止まることなく歩き続けた。

 その男は、穏やかに微笑んだ。

 その微笑みを一目見ただけで、アンセルの心は高鳴った。もっとその男に微笑んでもらいたいと思い、その男の望むように振る舞わなければならないとも思った。

 

 けれど、その男が微笑むのを止めると、鳥たちがいっせいに青い空へと飛び去っていった。

 春は終わり、凍てつくような冬となった。

 その男が氷のように冷たい眼差しを向けると、アンセルの心臓は恐ろしさで止まりそうになった。


「私が、天上の怒りを、この大陸に降り注がせた。

 最も愚かな所業をした人間のなれの果ての姿が、この森だ。

 2つの国の人間を全て殺して燃やし尽くし、その灰を養分として木々が育ち、森となったのだ」

 と、その男は言った。


 アンセルはショックで頭の中が真っ白になり、膝がガクガクと震えた。

 先程の光景は全て現実に起こったことであり、この森の土には人間の灰が染み渡っている。苦しみながら死んでいった人間の絶望の上を歩いている。予想はしていたが、現実は残酷だった。



「アンセル」

 その男は、もう一度アンセルの名を呼んだ。


 その声は、美しかった。

 けれど、それ以上に…恐ろしい。

 その男は、美しい男なんかじゃない。

 その男は、化け物だ。


「私が、キサマの名を呼んでいる。

 それに答えろ、アンセル」

 その男が厳しい表情で言うと、アンセルは恐れ慄いた。


 その男に従わない小っぽけな男を罰するかのように、足元の草に火がついた。瞬く間に燃え上がり、紅蓮の炎となって全身を包み込んだ。


(熱い、苦しい。息が…息が出来ない)

 アンセルは叫び出しそうになったが、慌てて両手で口を抑えた。


 その男はゆっくりと近付いてきた。漂う空気はますます重苦しくなり、逃げることすら許されなかった。

 その男は穏やかな微笑みを浮かべながら、アンセルの目の前に立った。炎に包まれたアンセルを見ても、眉一つ動かさなかった。


「そこに跪け。

 さすれば、その全てから解放してやろう」


 その声には絶対的な力があり、その瞳に見つめられると心が高鳴った。地面に吸い寄せられるように跪き、その男を恭しく見上げた。

 その男は慈しむような目でアンセルを見下ろした。アンセルを包んでいた炎は消え去り、驚くべきことに火傷は全て癒えていた。



「アンセル」

 その男は、美しい手を差し出した。


 アンセルはその男の手に触れたいという欲求に突き動かされ、もう何も考えられなくなった。


 しかし指と指が触れ合いそうになったところで、アンセルの腕は別の誰かに掴まれた。温かい手に握り締められると、氷のように冷たくなっていた手が温かくなっていった。


「アンセル様!目を開けてください!」

 そう叫ぶ声が聞こえて、アンセルは目を開けた。自分を見つている男は、何度もアンセルの名を呼んでいたようだった。


「マーティス…」

 と、アンセルは言った。


 マーティスは彼がまだアンセルであることに安堵し、目に涙を浮かべた。アンセルを抱き締めると「良かったです」と何度も繰り返したのだった。




 


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