第38話 マーティス
(そうだ…俺でなくてもいい。
仲間を守れるのなら…誰も傷付かずにすむのなら)
アンセルは石の扉の前に立つと、力を失ったかのように崩れ落ちていった。
石の扉の向こうには、仲間を救ってくれる輝きがある。
ここからクリスタルは決して見えないはずなのに、今の彼にははっきりと見えていた。
アンセルは恭しく跪くと、深々と頭を下げながら目を閉じた。
(そうだ…本当は…俺じゃなくてもいいんだ。
守るのは、俺でなくても…いいんだ。
そもそも、この程度の力で守れるはずなんてない。
外の世界の事なんてどうだっていい。俺には…関係ない。俺の仲間を守れるのなら…それでいい。
もう…いいんだ…。これで…仲間が救われる)
アンセルが石の扉を押そうと右手を伸ばすと、別の男の手が右手を強く握り締めたのだった。
風に巻かれて冷たくなっていた指先がだんだん温かくなってくると、アンセルをその場に倒れ込んだ。
男は重たい体を軽々と抱え上げた。
石の扉の向こうの激しい怒りを感じながらも、男はアンセルを守るように歩き出した。
吹く風が男の輝く金髪を揺らしたが、一度も振り返ることなく戻って行ったのだった。
男は寝室のドアを開けると、アンセルを静かにベッドに寝かせた。アンセルは目を開けようとしたが「ゆっくりとお休みください」という言葉を聞くと、瞼が重たくなっていった。
自らの体からは心を落ち着かせるような爽やかな香りがする。男を包んでいる香りだろう。
アンセルはその香りと優しさに包まれると、数日ぶりに深い眠りへと落ちていったのだった。
※
アンセルが目を覚ますと、マーティスが椅子に座って本を読んでいるのが見えた。
「アンセル様、お目覚めですか?
リリィのおすすめのハーブティーは、本当に美味しいですね」
マーティスはそう言うと、ハーブティーを一口飲んだ。
「マーティス…どうして…?」
「それはこちらのセリフです。
どうして封印の部屋に行ったのですか?
たまたま蒼白な顔をしたリリィと19階層の廊下ですれ違い、運良く間に合ったから良かったものの。
アンセル様を今日だけで2回も抱きかかえることになるとは思いませんでしたよ。
何をしようとしていたのですか?」
マーティスは本を閉じると、アンセルを見つめた。
「力が…欲しかった。
どうしたらいいのか…よく分からなくなってきた。
今の俺では…何も守れないような気がして…。
だから…この戦いの間だけでも、あの力に頼りたくなった」
と、アンセルは呟くように答えた。
マーティスに見つめられると嘘がつけなくなるのだった。情けないことを言っているのは分かっていた。
アンセルはマーティスが呆れるか怒るだろうと思いながら起き上がったが、マーティスはどちらもしなかった。
「アンセル様、それは不可能です。もう二度とアンセル様には戻れなくなります。
かつての魔王の力を利用することは、誰にも出来ません。
全てを失います」
「でも、このままではどうしようもない…。
俺なんかじゃあ…」
アンセルはそう言うと、両腕を見つめた。
両腕はもう蠢くことはなかったが、かつての魔王の力を受けいれる準備が整ったとでもいうように美しく逞しくなっていた。
「なんかではありません。自分を卑下するのは止めなさい。
どうしたのですか?急に弱気になられています。
甘美な声に耳を傾けてしまいましたか?
剣に泉の加護の力が宿ったことで、かつての魔王がアンセル様を蝕む力をさらに強くされたのでしょう」
マーティスがそう言うと、アンセルは黙りこんだ。
「この戦いは、アンセル様として勝利しなければ何の意味もありません。
アンセル様は変わりました。体は魔王の名に相応しいほど逞しくなられました。抱き上げた時はあまり重たくて、落としてやろうかとも思ったほどです。
心も強くなり、仲間を守ろうとする大切な気持ちで溢れています。
このダンジョンの魔王はアンセル様です。本当に立派になられました」
マーティスは柔らかい口調でそう言うと、優しい瞳でアンセルを見つめたので、アンセルはたまらない気持ちになっていった。
「俺は強くなっていない。何にも変わっていない。あの頃のまま…無力な男なんだよ」
と、アンセルは小さな声で言った。
真っ暗な闇にすっかり覆われたアンセルは底無しの深い穴にも落ちていて、そこから抜け出せずにもがき苦しんでいた。
マーティスは暗い顔をしているアンセルをしばらく見つめてから口を開いた。
「アンセル様、トレーニングは続けていますか?」
「続けている」
と、アンセルは答えた。
「剣は使えるようにもなりましたか?」
「あぁ…なったさ」
アンセルはそう答えたが、いつも見ているくせにと気持ちが苛立っていった。
「弓は握れるようになりましたか?」
「あぁ!それだって、知ってるだろう!
剣も使えるようになったし、弓だって握れるようになったさ!」
アンセルが気持ちを大きく声に出すと、マーティスは大きな笑い声を上げた。
「そうです!始めの頃とは、全く違います!その全てが、始めは困難だったことです。
その全てが、出来るようになりました。
あの頃とは全く違います!
まだ時間は十分あります。まだまだ本来の力に近づけます。
恐れることなど何もありませんよ」
マーティスは何の心配もいらないというようにニコッと微笑んだ。
「でも…弓に矢を番えてはいないし、炎も操れないままだ。
マーティスの魔術をしてもらってるのに…その兆候さえ感じられない」
それでもアンセルは自分を卑下するのを止めなかった。
「アンセル様、自信を持って下さい。
出来る事を忘れ、出来ない事に囚われてはなりません。
出来ないと思えば、そのように思いこみ、そのように振る舞わねばならないと思うようにもなります。
剣を使い、弓を引けるようになった時を思い出して下さい。使いこなしてやろう引けるようになってやろうという、アンセル様の強い決意を感じました。
強い心が、力となったのです。
僕は断言します。必ず、道は開けます。
その時が来れば、必ずドラゴンの炎を操れるようになります」
と、マーティスは言った。その琥珀色の瞳は、目の前のアンセルという男を信じる強い光で満ちていた。
「アンセル様、僕で良ければ話を聞きますよ。
ここには今、僕とアンセル様しかいませんから、大丈夫ですよ」
そう言ったマーティスの瞳はとても優しい色をしていた。
不安と恐れの全てを聞いてもらえば、失った自信を取り戻せそうな気がしてくると、もっとマーティスの優しさに甘えたいと思った。
「仲間を守る為なら強くなれる…と思ってたけど…今になって…怖くなったんだ。書庫で…水晶玉で…見た勇者は、あまりに強く見えた。恐ろしく思ったんだと思う。
当初の決意を貫きたいのに…貫けるほどの力があるのかというと…怖くなったんだと思う。
口では格好いいことを言っても…実力が備わっていないことを実感したのかもしれない。
かつての魔王の力の方が…遥かに強大だから…不安に思ったのかもしれない。俺には…とても…無理だ…。
やっぱり弱いのかな…すぐに崩れていくんだ。
やらねばならないと思った。でも、どうしたらいいのか分からなくなってきた。この体を蝕もうとする力は…俺から抗う力すらも奪っていこうとする。
両腕は…もう…かつての魔王を迎える準備が整ったのだろう。ほら、震えが止まったんだ。ならば…俺は…どうしたらいいのだろう?
世界の行く末だって…俺には重すぎる。このダンジョンを守ることだけでいっぱいいっぱいなのに。
勇者が来るだけだと思ってた…それなのに…かつての魔王も絡んできて…もう何を、どうしたらいいのか分からない。
かつての魔王に比べたら、自分が小っぽけに思えて…弱く思えて…何も出来ないように思えて…」
「アンセル様は小っぽけでも、弱くもありません。
仲間を守る為に、歯を食いしばりながら頑張ってきたではないですか。そのような男が、どうして小っぽけだといえるのでしょうか?弱いといえるのでしょうか?
誰かの為に多くを乗り越えられる強さを持っている。アンセル様の素晴らしさだと思います。
僕は知っています。初めから見守ってきたのですから。
アンセル様に自分の出来た多くのことを認めて、自信を持ってもらいたい。誰かと、比べることなく。自分以外の方と比べても、何の意味もないのですから。
戦いが、どう動いていくかはまだ分かりません。けれど知らなければならないので、ミノス様はお話しただけです。
今なら話しても大丈夫だと判断されたからです。
アンセル様は、かつての魔王の力に打ち勝つことと、今までどおり勇者たちを説得するほどの力を身につけることを考えましょう」
マーティスはそう言うと、アンセルの手を取り瞳を見つめながら握り締めた。
「悩まない者などいません。
悩まない者に、この世界の苦しみと嘆きの何が分かるというのでしょうか?
この世界の…何が…。
それに今のように、僕やそれを求める者には苦しみを話して下さっていいのです。抱え込めば、ふとした瞬間に爆発して闇に飲み込まれてしまいます。
今、この20階層に出入りが出来る者は、それを受け止められる者です」
「でも俺は口にするほどダメになっていく…もう戻れなくなっていきそうだ。
それに俺が守らないといけないのに…そんな姿を晒すなんて出来ないし、格好悪くて…さ」
アンセルがそう言うと、マーティスは手を握りながらニコリと微笑んだ。
「いいえ、そんな事はありません。
アンセル様が僕たちを守ってくれるのならば、僕たちにもアンセル様を支えさせてくださいよ。
それに僕は嬉しいですよ。
誰しも心の支えが必要です。支えてもらえばいいのです。
魔王としてのプライドを持つことは良いことですが、余計なプライドは捨てなさい。
強大な者に、立ち向かわなければならないのですから。皆んなで立ち向かおうという話ではなかったですか?」
マーティスがそう言うと、アンセルは握られた手を強く握り締めた。
「でも俺が『かのお方』であれば、もっと…もっと力があれば…確実に仲間を守ってやれるんじゃないかな…?
本当に俺で…いいのだろうか?」
と、アンセルは苦しい顔をしながら言った。
「誰かに、そう言われたのですか?」
「いや…俺がそう思っただけだ…」
と、アンセルは小さな声で言った。漆黒の闇を感じると、全身に鳥肌が立った。
「アンセル様はアンセル様のままでいいのです。いえ、アンセル様がいいのです。
僕たちはアンセル様に救われたい。
そもそも自分の目で見たこともない『かのお方』の姿など、誰もアンセル様に求めてはいませんよ」
「それは、マーティスが思ってるだけだ!」
アンセルは急に大声を出すと、握っていた手を振り払った。
「救ってくれる者なんて、誰だっていい!
守ってくれる者だって、誰だっていい!
大切なことは生きるということだ!それが、たとえ、どんな形でも!」
アンセルは興奮しながら言った。ベッドを強い力で殴りつけたので、マーティスは眉をひそめた。
「誰でも、いいんですか?
どんな形でもいいと、本気で思っているのですか?」
マーティスは厳しい視線をアンセルに向けた。
「アンセル様もよく分かっているでしょう?
誰でも、いいはずがない。
どんな形でも、いいわけがない。
この今のダンジョンをつくったのは、アンセル様です。他の誰でもない、アンセル様です!
それを何故自分で守ろうとはしないのですか!
魔王が変われば、このダンジョンは変わります。
今までのような穏やかなものではなくなるかもしれません。憎悪を思い出すかもしれません。ダンジョンの仲間がかつてのように人間を殺そうとするかもしれません。
仲間をまた人間にとって文字通りの魔物にさせるつもりですか?憎しみの渦の中に投げ込むつもりですか?人間を殺させるつもりですか?
憎しみの渦は激しく、一度巻き込まれたら二度と出ることは出来ませんよ」
マーティスが険しい表情で言うと、アンセルは優しい仲間の顔を思い出した。
「かつての魔王が何を考えておられるのかは、僕には分かりません。僕は、かつての魔王を知らないのですから。
しかし、その力は神の領域に達している。
全てを委ねられていて、その手で人間の世界を滅ぼすことが出来る…とてつもない漆黒の恐怖の存在です。
明けることのない絶望で人間の世界を覆い尽くすでしょう。
まだ勇者との対話の道が残されているというのに、確実に仲間が救われるのなら、希望すらも捨てるというのでしょうか?
自らの種族さえ生き残ることができれば、それでいいとでもいうのでしょうか?」
と、マーティスは言った。
アンセルはその光景を思い浮かべた。仲間の魔物だけが救われて、人間は全て殺される。
(そんな事が許されるはずがない。自分たちさえ良ければそれでいいなんて…それならば人間と一緒だ。騎士に命令した国王と同じだ。
そんなこと…いけない。
でも…俺には力がない…)
アンセルは自らの逞しい両腕を見つめてから、淀んだ瞳でマーティスを見た。
「あぁ、そうだよ。
仲間の生命を守れるなら、それでいいだろう。
守れないなら何の意味もないんだから。
人間だって…そのつもりなんだ。
こうなったのは誰のせいだ?人間だろ!?なら、人間と同じことをして何が悪いんだ!
それに勇者は残虐だ。同じ人間をいっぱい殺してるんだぞ。そんな連中に魔物の話なんて通じるはずがない。広場の扉を開けた瞬間に、矢を放つだろう。王命に従ってな!
救えなければ意味がないだろう?!死んだら終わりなんだから。
俺の仲間を守れるのなら…あの子供たちを守れるのなら…俺は俺は…この体を差し出しても…構わないん…だよ。
俺が救うとかは…どうだって…いいんだよ」
アンセルは声と体を震わせながら言った。
「僕はそうは思いません、決して!
何度でも言いますが、僕たちはアンセル様に守っていただきたい。
他の階層に行って、子供たちと何を話したのかは知りませんが、その言葉はアンセル様に向けられた言葉です。
希望の言葉の全ては、アンセル様が子供たちにみせた言葉です!そんな事も分からないんですか!」
「分からない!分からなくなってきた!」
アンセルが両手で頭を抱え出すと、マーティスは左手でその腕を掴み、アンセルの顔を右手でつかんだ。
アンセルの顔を無理やり上げさせると、闇に包まれた心を貫くような光に満ちた目で見つめた。
「アンセル様!僕を見て下さい!
深い闇に惑わされてはなりません。
今の言葉は、アンセル様の本心ではありません!
アンセル様は、剣の稽古の時にこう仰いました。
ミノス様がアンセル様のかわりに仲間を守ると言われた時に、このダンジョンを守るのは「俺だ」とはっきり宣言されました。
あの言葉を忘れたのですか?決意を失ったのですか?
いいえ、忘れてはいません。失ってもおりません。
ただ闇に包まれているだけです。光で照らしてください。闇を蹴散らすことが出来るのは、眩い光だけです。
もう一度あの言葉を、かつての魔王に向かって自信を持って大声で叫ぶべきです!
あの時のミノス様はアンセル様にとって大きすぎる壁でした。しかし、それも乗り越えられた。今回も、必ず乗り越えられます。
かつての魔王は神の領域に踏み込んでいる。
けれど、アンセル様も同じく特別な御方です。
それに、その手で大切な者を守らずに、他の者の手によって守られる。恥ずかしくないのですか?
子供たちを、仲間を、そしてリリィを、他の者の手によって守られるのを指をくわえて見ているつもりですか?
アンセル様はそのような男ではありません。
英雄になりたかったのではないのですか?
今、この戦いこそが、英雄になれるチャンスです。そのチャンスを逃してはなりません!」
と、マーティスは言った。
震えていたアンセルがようやくマーティスの目をしっかりと見つめると、マーティスはアンセルを抱き締めた。
「希望を失ってはなりません。
かつての魔王に、絶望を希望にかえる力を見せるのです。
深い闇に屈してはなりません」
マーティスはアンセルの心に語りかけるように囁いた。
アンセルの体の震えが止まると、マーティスは柔らかい表情でアンセルの頭を撫でると、アンセルは今にも泣き出しそうな顔になっていった。
「なんでだよ…何でそんな事を言うんだよ。
俺はダメな男なんだよ…。
今まで戦ったことも救ったこともないのに、勇者相手に出来るなんて思えないんだよ。
それが分かってきたのに、やり続けるなんて…」
「決めつければ出来ることも出来なくなり、何もかもが本当にダメになりますよ。
戦う力も救う力も十分にございます。
それに男ならば、もがき苦しんで最後まで駆け抜ければいいんですよ。
こんなに努力したのに、やる前から諦めるなど、愚の骨頂ですよ。努力は必ず報われるという無責任な事を言うつもりはありません。報われぬ努力も多いですから。
けれど僕は、努力をしなかった後悔はして欲しくない。失った時間は取り戻せません。どんなに後悔しても。
あの時ああしておけば良かったという後悔ほど、惨めなものはない。醜いものはない。
だから努力をした先にある可能性が見えるのなら、努力をし続けて欲しいだけです。
僕には、その可能性がはっきりと見えているのですから」
「俺には見えない。そんな少しの可能性にすがるなんて。
それがダメだった場合は仲間を救えない。皆んなを巻き添えにしてしまう。このままだとマーティスだって死んでしまうかもしれないし。そうだ…もし危なくなったら、俺をおいて…」
「それは出来ません。僕は忠義を尽くし、この生命にかえてもアンセル様をお守りします。今度こそ、僕は自らの役割を果たします。
この生命はアンセル様に捧げると誓っています。
アンセル様に背を向けて、僕が逃げるなど出来ません。
それだけは…逃げることは…もう何があっても出来ません。
たとえ誰であっても、僕の決意を砕くことは出来ません」
「でも…」
「それ以上僕に逃げろと言うのなら、烈火の如く怒りますよ」
マーティスがそう言いながらアンセルを強く抱き締めると、アンセルはその強い思いを感じとった。
「逃げろと言わずに、一緒に戦おうと言っていただきたい。
始まりの時から、そう言っていたではないですか」
マーティスは腕の力を緩めると、アンセルを見つめながら優しく微笑んだ。
「でも…俺が死んだら…」
「その時は、僕もアンセル様と共に逝きましょう。勇者の手から仲間が逃げる時間稼ぎぐらいにはなりましょう。
森は守られている。大丈夫ですよ」
「なんでそこまで…共に死ぬだなんて…」
「すきなのですよ。アンセル様のことが」
マーティスはニコリと微笑みながら言った。
「えっ?」
アンセルは驚きの色を浮かべながら顔を赤くした。
「あっ、そういう意味ではないですよ。
僕にはない、僕では決して持つことのできない光をアンセル様は持っている。この醜い僕には持てぬ光を。
僕は罰を背負いながら生きていかなければならない。
以前、僕は醜悪な魔物から生まれたと言いましたよね?僕はその醜悪な魔物の全てを引き継いでいます。
その魔物は、何千万人もの人間の生命を奪ったです。まさに地獄の業火です。僕のせいで引き起こされたのですから。
ソレがあまりにも愚かであったが故に、神の怒りに触れたのです。その地獄のような光景が…ふとした瞬間に、脳裏に浮かぶのです。
まぁ…当然の報いですが。
だからその地獄の中で、僕を救ってくれる優しい光を守りたいのです。その光を見つめながら罪を償いたい。
アンセル様は、僕にとっての光なのです」
「俺が…光?」
アンセルはその言葉を繰り返した。
「そうです、光です。
純粋で、頑張り屋で、真面目で、優しくて、可愛いくて、自らの役割を果たそうと一生懸命努力するところが本当にすきなんですよ。
もっと言いましょうか?」
「もう、やめてくれ」
アンセルはむず痒くなった。
マーティスはその様子を見るとクスリと笑ったが、すぐにまた表情を曇らせた。
「いつからでしょうか。
その光に、漆黒の闇が見えるようになったのは。
アンセル様の瞳と背中に、次第に漆黒の闇を見るようになりました。日に日に、ソレは色濃くなっていきましたからね。
僕の責任です。僕の力が全く及ばぬばかりにアンセル様の両腕から取り除けなかったものですから。
半年かけましたが、手も足も出ませんでした」
マーティスはそう言うと、今度はアンセルの両腕に優しく触れた。
アンセルはマーティスの温もりを感じると、感情が溢れ出すように目に涙を浮かべていった。
「俺、勇者だけなら…なんとかなると思い始めていたんだ。
けれど、分からなくなってきた。
それに…仲間が頑張ってダンジョンを広げてくれていることも、準備した何もかもが無駄だったんじゃないかと思えてきてさ」
アンセルがそう言うと、マーティスはしばらく考え込んでから口を開いた。
「勇者は…今まではバラバラでした。
それが時が経つにつれて、互いを知り、認め合い始めています。
真の友情で繋がれれば、その力は本来の力よりも倍増します。そうなれば敵となった時には厄介です。
もともと人間とは思えないほど恐ろしい力を持っている。
数えきれない死線をくぐりぬけてきました。
彼等以上の力を身につけねば、対等に話をすることは出来ません。必要以上に恐れることはありませんが慢心もなりません。
それに僕は、アンセル様の策は良かったと思いますよ。
かつての魔王は20階層で待ち受けているでしょう。そもそも、そうはならないかもしれませんし。
そこら中に魔物がウヨウヨしていれば間違いなく殺されますから。勇者を見た仲間は混乱するでしょうから。
僕たちと人間は見た目が少し違います。人間にとっては、異形の者たちです。
同じように…痛みと苦しみを感じ、喜び、愛し合う感情を持っていたとしても、少しでも違えば…種族が違うという理由だけで人間は恐ろしい行動に出たのですから。
同じように…生きているんですけどね。
何を恐れたのでしょうか?
相手を跪かせれば自らが優位に立てるとでも思ったのでしょうか?何を愚かな…。相手を傷つければ、その者が手にしている全てを得られるとでも思ったのでしょうか…。
誰かを傷つけて、どうして何も思わないのか…。
どうして涙を流さない…。
だから僕は、アンセル様が人間とは違って勇者を殺すという選択をとられなかったことが本当に嬉しかった。
僕の光に間違いはなかったと思いました。
だから、全力で支えたいと思った。
ダンジョンを長くしたことも同様です。先の見えない道ほど恐ろしいものはない、終わりがあるから頑張れる。
そのことは…僕が一番よく分かっています」
マーティスの表情はどんどん暗くなっていったが、気を取り直そうとするかのように目を閉じると明るい瞳を開けた。
「ここは、アンセル様のダンジョンです。
僕はアンセル様が魔王であるダンジョンで生きたい。
その光の中で歩き続けたい。
皆んなが互いの幸せを願い、他者を大切に思いながら同じ時を生きる、このダンジョンで僕は生きたいのです」
マーティスは心を込めながら言うと、アンセルの腕から手を離した。
「僕は、僕たち魔物は、人間全ての犠牲の上にでも生きながらえたいと思うのでしょうか?
アンセル様は生きる為に戦おうと仰いました。
だから、仲間は戦っている。
殺す為であれば傷つける為であれば、彼等は戦えない。
誰かを犠牲にして、誰かを踏みつけてまで生きるというのなら、このダンジョンに勇者を送った人間の国王と何も変わらないではないですか?
それに、そこまでして僕は生きたいとは思えません。
子供たちも、勇者を殺して欲しいなどと残酷なことは言わなかったでしょう?」
マーティスがそう言うと、明るい顔をした子供たちの顔をアンセルは思い出した。
「誰かの涙と血で敷き詰められた…その上をこの足で歩き続けていると知って生きるなど、ここの仲間には出来ない。
それを知った時には、もう笑うことも楽しみを見つけることも幸せを感じることも出来ないでしょう。
生命を踏みにじった絶望の上を歩き続けることなど…それを知りながら歩き続けるのは恐ろしくて…光がなければ、もう…」
マーティスの表情は暗く沈んでいった。瞼をふせると長い睫毛が目を覆い、美しい瞳から涙が流れ落ちたかのように見えた。その悲嘆ぶりは、実際にその上を歩いたことがあるかのように思えた。
「アンセル様があの英雄のように愛を実感出来ればさらに強くなれるかもしれません。
あの英雄もそうでした。皆んなに支えられて手を取り合って立ち向かい、その果てに、彼は英雄となったのです。
守る者があると思えば、愛することを知れば、信じられないぐらいの力が出せる。アンセル様もそうだと思います。
美しくて、素晴らしい感情です。
その感情は、愚か者には理解出来ぬこと。
まぁ、僕もそうですけれど。
今日は、このままお休みになられるといい。
いつもの夕食ではなく、軽食程度を用意しましょう。
それでも無理なら、今日は召し上がらなくても結構です。僕が美味しくいただきましょう」
マーティスはニヤリと笑うと、アンセルの漆黒の髪を撫でた。
「僕たちは、アンセル様だから側にいたいのです。いいえ、ずっと側にいさせて下さい」
マーティスがそう言うと、アンセルは心がようやく落ちついて瞼が重たくなっていったのだった。
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