第31話 食事
その日の夕食を目の前にして、アンセルはテーブルに肩肘をつきながら先程の稽古を振り返っていた。
あの後、何もなかったかのように剣の稽古は終わった。
ミノスはアンセルに「今日は、ゆっくりと休んで下さい」と言うと、魔術と弓の稽古をなしにしたのだった。
もし剣がミノスの心臓に突き刺さっていたらと思うと、アンセルはゾッとせずにはいられなかった。
(言葉で挑発したのは…ああなると予想していたんだろう。俺の両腕が震え続けているのを知っていたから、覚醒の時が近い…と。
言葉で言っては信じないだろうから自分が死ぬかもしれないのに、自らの弱さだと思い込んでいた俺に気付かせようとしたのだろう…手遅れになる前に。
このまま何も気づかなければ、俺はいずれとってかわられていただろう。
だが…まだ…俺は戻ってこれた。
かつての20階層に溢れていた恐ろしい感情は、かつての魔王である『かの御方』から発せられたものだったのだろう。
それは、あの光も発していた。
クリスタルから発せられた禍々しい光。
見た目はとても美しいのに、禍々しい光を発しながら、全てを飲み込んでいく。
確かに…絶大な力を感じた。あの力は、凄まじかった。アレがあれば、仲間の生命は絶対に守れる。人間の生命と…引き換えに。
仲間を救う為に、人間を皆殺しにする。
それは…俺が本当に望むことなのだろうか?
魔物が生き続ける為ならば、人間の生命を踏み躙っても構わないなんて…恐ろし過ぎる。
その後…俺たちは…何事もなかったかのように暮らしていけるのだろうか?
そんな事…俺には…出来ない。俺たちには…出来ない。
アレに頼ってはいけない。心も体も全て蝕まれてしまう。
その時は、もう俺ではない。俺では、いられない。ダメだ、ダメだ…)
アンセルは深い溜息をつきながら腕を見つめた。
(マーティスに…相談してみよう。
マーティスに頼んで…魔術で…なんとかしてもらおう。
いや…ダメだ。出来るのなら、あの時にやってくれている。手を尽くしてくれたんだけど、取り除くことなど出来ないほどの絶大な力なんだ。
白き杖を握り続けていたんだから…マーティスも全てを知っているのだろう。俺の腕が震えていた時に、マーティスは何度も俺の腕を触って痛みを和らげてくれた。
出来る事を全てしてくれているのに、俺は「魔術でなんとかしてくれよ」と泣きつくつもり…か。
俺が立ち向かわなければならない…あれほどの力に…)
アンセルの顔には苦悶の色が浮かんでいった。剣を握っていた右手を見ると、手の平を広げてからまた深い溜め息をついた。
「アンセルさま、今日の夕食は美味しくないですか?」
リリィがそう言うと、アンセルは慌ててフォークを握り締めた。
「いや、そうじゃないんだ」
「でも…進んでいませんよ?」
と、リリィは言った。栄養が豊富な食材でつくられた豪華な食事はほとんど手付かずの状態だったので、リリィは不味かったのだろうかと不安そうな目でアンセルを見つめた。
「そうか?ゆっくり食べてるだけだよ」
と、アンセルは言った。
(体は逞しくなったんだから、もう…いいだろう。量が多すぎる。代わりに…誰かに食べてもらいたい。
あんな事があった後なのに、飯なんて食べられるわけない。もともと食事って…好きじゃないんだよな)
アンセルはフォークを握ったまま、また深い溜息をついていた。
「あの…溜息ばかりですよ。
食欲がないのでしたら、ミキサーにかけます?」
と、リリィは言った。
アンセルは全てが一緒くたにされて液状になった飲み物を想像すると、よけいに気持ちが悪くなった。
「いや、やめておこう」
アンセルはそう言ったが、フォークを動かすことはなかった。
「では、どうしましょうか?そうですね…」
リリィはそう言いながらアンセルの隣に立った。腕組みをしながら、どうやったら食べてもらえるかを一生懸命考え始めた。
「そうだな…」
アンセルもそう言いながら、隣に立ったリリィに目を向けた。アンセルが椅子に座っている状態でリリィが隣に立つと、リリィの可愛い顔がよく見える。
(リリィは可愛いな…)
アンセルはそう思いながら、リリィの顔をじっと見つめた。
それが好きという気持ちなのかはよく分からなかったが、特別な存在として思い始めていた。
リリィは自分に向けられている視線を感じると、急にアンセルの方を向いた。
アンセルの心臓が高鳴ると、リリィは無邪気に微笑んだ。
「そういうことでしたか!気付きませんでした。
言いにくいですよね。ごめんなさい」
リリィはそう言うと、スプーンを手に取った。髪が入らないように耳にかけると、湯気を上げているスープをすくった。
リリィは可愛らしい笑みを浮かべると、アンセルの唇を見つめた。
「はい。あーんです」
リリィは少し口を開きながら、アンセルの口元へとスプーンを運んでいった。
可愛い顔が目の前に迫ってくると、アンセルは慌てて首を横に振った。
「自分で食べられるから!
そういうのは…軽々しくやったらダメだ!」
アンセルは顔を赤くしながら言った。
「食べさせて欲しいから、見てきたのかと…」
「ちがう!自分で食えるから!」
「嫌でしたか…」
と、リリィはしょんぼりしながら言った。
「そうじゃない。
そういうことをするのは、その…順序があるだろう…」
アンセルはドキドキが止まらずに、自分でもよく分からないことを言っていた。
「アンセルさまが何を言っているのかよく分かりませんが、ちがうんですね…。すみません。
では、どうしましょうか?
あっ、良いことを考えました!ちょっと待ってて下さいね」
リリィはそう言うと、翼をパタパタさせながら部屋から出て行った。
もう一つお盆を持ってリリィは戻って来たが、量は少なくて彩りもなく質素な食事だった。
「ご飯は一緒に食べると美味しいんですよ」
リリィは微笑みながら言うと、アンセルの隣に椅子を持ってきて座った。
アンセルはリリィの食事と自分の食事を比べると、その質素な食事が羨ましいとさえ思った。
リリィが食べれるのなら自分の分を半分食べてもらおうかと思い、アンセルは口を開いた。
「ダイエットでも…してるのか?」
「ちがいます!ダイエットなんてしてないです!太ってますか?」
リリィはそう言うと、アンセルを見た。
「いや…そうは思わないけど。なんか、以前より量がだいぶ少なくないか?それじゃあ…足りないだろう」
と、アンセルは言った。
「これは…その…そうですね…」
リリィは困った顔をしながら、アンセルから視線を逸らした。
「リリィの分は…その…失敗しちゃいました。
いただきます」
リリィは小さく笑うと、フォークを手に取った。
(失敗?)
その言葉に違和感を感じて、アンセルは自分の食事とリリィの食事をもう一度見比べた。ここまで作れるのに、失敗するなんて思えなかった。
(何か言いにくいことでもあるのかな?
俺に…言いにくいこと…それを聞いたら俺が食べるのを…躊躇してしまうようなこと…)
その瞬間、アンセルはようやく理解した。
(そうだよな…何言ってるんだろう…俺。
自分から命令しておきながら、そんな事も分かっていなかったなんて…俺はバカだ。
量を少なくしてるんじゃない、そうせざるをえないんだ。
日々の食事の分と、一週間分の備蓄食料の準備をしないといけないのだから量を減らさないとやっていけない。はじめて備蓄食料を作るのだから、上手くいかないことだってあるだろう。皆は俺が言った言葉を信じて、いろんな事を我慢して、こんなにも支えてくれている。
俺は体を作る必要があるから、こんなに豪華な食事をずっと食べさせてもらってたんだ。
日々の恵みに感謝しなければいけないのに…食材を作ってくれた仲間にも…料理をしてくれたリリィにも…ちゃんと「ありがとう」と言わなければならない。
小さな子供たちもいる中で、俺だけが毎回腹一杯になるまで食べておきながら、量が多すぎるなんて愚痴っていたなんて最低だよな…)
アンセルは自らを恥ずかしく思うと、用意された豪華な食事に心から感謝した。
「リリィ、いつもありがとう。食事を作ってくれて、ありがとう。リリィが作る食事は美味しいな」
アンセルはスープを口に含むと、その味を噛み締めた。一口噛むごとに仲間の思いを感じ、心と体に染み渡っていった。
「本当ですか!?
最近、料理が上手くなったなってリリィも思うんです。
アンセルさまに美味しく食べてもらえるように盛り付けも頑張ってみたりして」
リリィは嬉しそうに笑いながら言った。
アンセルは盛り付けについてはさっぱり分からなかったが、リリィの嬉しそうな顔を見ると、稽古での不穏な気持ちが少し楽になっていく気がした。
これが、癒されるということなのだろう。
アンセルがウンウンと頷くと、リリィは楽しそうにお喋りを始めた。食材や料理の仕方、最近ダンジョンに起こったことなどをアンセルに話したのだった。最後には、アンセルの男らしくなった体を頬を赤らめながら褒めたりもした。
「アンセルさまは、その…細い女性が好きなんですか?」
リリィは頬を赤らめながら最後にそう聞いた。
(細い…女性?)
アンセルはリリィが細くなった姿を思い浮かべてから、先日抱き締めたリリィの柔らかさを思い出した。
「さぁ…どうだろう?
抱き心地とかもあるから、俺は柔らかいほうがいいな」
アンセルはそう答えてから、あまり深く考えないうちに口走ったことを後悔した。
軽蔑されたのではないかと焦ったが、リリィはホッとしたような顔をしていた。
「でも、体型がどうこうより、俺だけを一途に好きでいてくれる女の子がいいな」
アンセルは先程の発言を無かったことにしたい一心で付け加えた。それも、本心だったが。
「あっ…リリィのことですね」
と、リリィは小さな小さな声で言った。
「え?なんて?
ごめん。聞こえなかった」
アンセルはそう言ったが、リリィは答えることなくニコニコしているのだった。
リリィのニコニコしている顔を見ていると、心が癒されていくのを感じた。
自分が出せる以上の絶大な力を欲したが、自分を応援してくれる者がいることを、リリィは思い出させてくれる。
皆んなはアンセルを信じて頑張っているのだから「俺」として頑張ろうと思えるのだった。
「たまには一緒にこうやって食べようか?」
と、アンセルは言った。リリィの笑顔を見ていると、心が癒されて自分を取り戻せるのだから。
「はい!リリィも楽しみにしています。
食事が進んで良かったです。以前は飲み物だけの日とかあったので、本当は苦しいんじゃないかと心配してました。
なんだか…あの頃が懐かしくなります。
でも、今のアンセルさまもとっても素敵です。
リリィの作った食事をもりもり食べてくれる姿を見るのは嬉しいです。アンセルさまの為なら何でもしたいです」
と、リリィは嬉しそうに言った。
アンセルはリリィのその言葉がたまらなく嬉しかった。この腕に抱き締めて、その温もりを感じながら安心して眠りたいとも思った。
けれど守らないといけないリリィに、そんな姿は晒せないとも思った。妙なプライドと、晒してしまったらもう二度と今のようには戻れないとも思った。今まで積み重ねてきたものが、崩れてしまいそうで怖かった。
(こんなに応援して支えてくれる仲間を、この手で守りたい。
だって、今の魔王は俺なんだから)
アンセルはこの時は確かにそう思っていた。
「ありがとう。
俺は、大丈夫だよ」
アンセルはそう言うと、パンを口にしたのだった。
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