第22話 勇者と細い腕

  

 一行の旅路は、勇者の見事な手綱捌きによって駿馬としての力を存分に発揮し、順調に進んでいた。

 降り注ぐ日差しの中を、赤焼けに染まる空の下を、時には夜の闇を駆け続けた。

 魔法使いたちはどれほど馬が速く走ろうとも不安を抱くことはなかった。馬に乗ることに怯えていたマーニャでさえ、背中でアーロンの温もりを感じると安心するのだった。


「フィオン、そろそろ着くのだろうか?

 本当に楽しみだ」

 と、アーロンは大きな声を上げた。

 前方を馬で駆ける赤い髪をした男の背中は頼もしく、その口元には笑みが浮かんでいた。


「もうちょっとだ。ついて来い!」

 と、フィオンも大きな声で叫んだ。


 旅の疲れを癒そうと温泉が湧きだしている場所を目指して、馬を進めている最中だった。フィオンはリアムが落ちないように気を使いながらも馬の速度を緩めることなく、山の斜面を軽快にのぼって行った。緑豊かな木々が生い茂る道を馬が駆け上がる度に、蹄の音に合わせるように枝が軽快に揺れ動き、彼等の姿は瞬く間に美しい緑のカーテンに消えていった。

 休むことなく駆け続けていると鳥の囀る声と共に、川の流れる音が聞こえ出した。さらに奥深くへと進むと、流れる水の音はどんどん大きくなっていった。ゴツゴツとした岩がたくさん見え始めると、フィオンはスピードを緩めていき、ゆっくりと馬を止めた。

 フィオンは軽やかに馬から降りると、リアムが降りるのを手伝った。

 ほどなくして二頭の馬も追いついた。全員が馬から降りると、フィオンを先頭に温泉が沸き立つ場所へと馬を引きながら向かって行った。


 高く生い茂る木々の隙間から光が射し込む道なき道を歩き、大きな岩と岩の間をすり抜けると、背の高い木々と岩がいくつも積み重なり2メートルほどの岩が壁のように連なった場所へと辿り着いた。


「着いたぞ。この連なる岩壁の向こうに、温泉が沸き立っている」

 と、フィオンが言った。

 

 岩の窪みからお湯が溢れ出して湧き立ち、大きな岩がくり抜かれて湯船となっている場所だった。湯気は立ってはいたが、すぐ横を流れる川から水がひきこまれている為に適温が保たれ、美しい川を眺めながら湯に浸かることが出来るのだった。

 さらに高い木々と強固な岩壁が、無防備となった者たちを隠してくれる絶好の場所だった。


 アーロンは深々と空気を吸い込んだ。芳しい木々の香りが体の中に広がっていき、耳には清らかな水の音が響いた。


「フィオン、いろんな場所を知っているんだな。

 君の国だが…本当に土地に詳しくて感心するよ。特別な目印もないのに、迷うことなく辿り着けるなんて凄いよ」

 と、アーロンは感心しながら言った。目印となるものは何もなく、深い緑が人々を惑わす迷路のような場所だった。


「たまたま任務の帰りに見つけただけだ。

 隊長なんだから地理に詳しく、一度行った場所は覚えていて当然だ。お前だって、そうだろう」

 フィオンは辺りを見渡しながら言った。鋭い瞳に、あやしげな者が映ることはなかった。

 フィオンは岩壁にそって歩き出し、岩の壁の高さが低い場所の前に立つとエマの方に顔を向けた。


「エマとマーニャが先に入れよ。

 ここからなら入りやすい。

 誰も来ないだろうけど、俺たちが見張っておくからさ」

 フィオンはそう言ったが、エマは何も言わなかった。


「なんだよ?温泉が嫌いなのか?

 汗をかいた男が入った後より、先の方がいいだろう?」

 フィオンは怪訝な顔をしながら言った。


「まぁ、それはそうだけど…。大丈夫かしら…」

 エマが胡散臭そうにフィオンを見ながら言った。


 フィオンは自分に向けられている疑いの眼差しから全てを察するとニヤニヤと笑い出した。


「あぁ、そういうことか。大丈夫、覗かないって。

 エマは慎ましいから、覗かないよ」 


「慎ましいって…?」

 エマがキョトンとした顔で言った。


 フィオンがニヤニヤしながらエマの胸元に視線を向けると、彼女の弓を持つ手がワナワナと震えていった。


「アーロン…なんだったら…この男…温泉に沈めてやってもいいわよ」

 エマは真っ赤な顔をしながら言った。


「フィオンのことも見張っておくよ。

 フィオンがいなくなると、僕は困るから」

 と、アーロンが苦笑いを浮かべながら言った。



 怒りの収まらないエマはフィオンを睨みつけてからマーニャの手を握り、岩壁が低くなっている場所へと歩いて行った。途中何度か振り返っては険しい目を向けていたが、その度にフィオンは笑顔で手を振っていた。

 エマが呆れ返った表情をしながら岩壁の向こう側へと消えて行くと、フィオンとアーロンは岩壁に背中を向けた。

 マーニャの喜ぶ声が岩壁の向こうから聞こえてくると、木々にとまっていた鳥たちが羽音を立てながら次々と飛び去っていった。

 アーロンは大きく伸びをすると、空を見上げているリアムとルークに声をかけた。


「ずっと馬に乗っていたから疲れただろう?

 まだ水も残っているから、切り株に座って休んでいるといい。

 もうすぐ空も赤く染まっていく。綺麗な夕焼けが見えると思うよ」

 アーロンがそう言うと、魔法使いは草を食べている馬の元へと歩いて行った。繋がれている馬の側の切り株に座ったのを確認すると、アーロンはフィオンの方を向いた。


「暗くなる前に着いて良かったよ。ありがとう。

 僕は向こうを見張ってくるよ。

 この場所とルークたちは、君に任せたよ」


「なんだよ?俺を見張らないのか?」

 フィオンがそう言うと、アーロンは頷いた。


「僕が見張らなくても、君が君を見張っているよ。

 そもそも君は、そんな事をするような男じゃない。

 いろんな人から女性関係は派手だと聞いているが、女性が嫌がるようなことはしないとも聞いている。

 それに君がエマを見る目は、友を見る目だ。

 それぐらい、分かるさ」

 アーロンはフィオンを見つめながら言った。


 グレーの瞳は美しいのだが、フィオンは自分に向けられるその眼差しに、妙な苛立ちを感じずにはいられなかった。


「そうか。まだ数日しか経っていないのにな。

 お前は、何も分かっちゃいない。

 まだコソコソ聞き回っていたとは呆れた男だな。本当に、お前は…俺の気に障る」

 と、フィオンは言った。


「コソコソだなんて…ひどいな。以前君に伝えたのだから、コソコソとはならないだろう。

 僕はただソニオの国民と話をしているだけだよ。そう…ソニオ王国の騎士団をよく知る国民と。

 それは世界を救う勇者にとっては大切なことだろう?

 だからマーニャの薬を買いに行く時には、出来るだけ店の人と話をすることにしているんだ。

 人の話に耳を傾けるのは、大切なことだ。正しい判断をする為には、いろんな情報が必要となってくる。

 僕は国民の率直な声を知りたい。色がついた…報告書だけでなく。

 何も分かっていないとは…君こそ僕のことをよく分かっていないようだね」

 アーロンは優しく微笑みながら言うと、魔法使いの方に目を向けた。


 切り株に座っていたリアムは立ち上がって恐る恐る馬を撫で、ルークは草を手にして馬に食べさせようとしていた。その姿は魔法使いといえども、少年とかわらなかった。


「そうだ。

 いつも馬で駆けてばかりだから、リアムとルークとあまり話をしていない。

 いい機会だ。リアムとルークもいれて、一緒に温泉に入ろう。

 星を眺めながら男だけで語り合うのも楽しいかもしれない」

 アーロンはそう言うと、フィオンの答えを聞く前に歩き出した。

 

 フィオンは険しい瞳で、アーロンの後ろ姿を見つめていた。

 どれほど冷たく突き放そうが、空に広がっていく赤い色のようにアーロンはじりじりと迫ってくる。

 その目的が一体何であるのか、今のフィオンには掴めなかった。

 剣の勇者の腹の内は複雑を極めていて、時折浮かべる微笑み以外には何も読み取れなかった。

 フィオンの槍を握る手には力が入っていった。

 フィオンにとってアーロンは友でも勇者でもなく、注意しなければならない敵国の王の息子でありゲベート王国の第1軍団騎士団隊長でしかなかったのだった。

 

(一体、俺の何を探っているのか?

 何か…気づいてやがるのか?

 あの男には、この旅の真意を知られてはならない。

 ゲベート王国の王の息子であるアーロンには絶対に知られてはならない。

 ここまで積み重ねてきた全てが…無駄になる)

 フィオンは共に戦い続けてきた槍を見つめた。その穂先は、憎しみと怒りで鋭く光っていた。

 真っ赤に染まった空が、彼の過ごしてきた血の日々を思い出させると小さく笑った。


(いや…まだだ…。

 こんなに穏やかな日々を過ごすのは…久しぶりなんだ。

 これも…悪くない)

 フィオンは自らにそう言い聞かせると、魔法使いの方をチラリと見た。


 今は見張りをしなければならないと思い直すと、彼は深呼吸をした。心に広がろうとしていた黒い闇を吐き出すと、妙な物音や気配はしないかと意識を集中させた。

 だが揺れる木々の音と水の流れる音以外には、何も聞こえることなどなかったのだった。



 *



 空に星が輝き出すと、壁の向こうから聞こえる声がエマとマーニャから男たちの声へとかわった。白い湯気に包まれながらフィオンが温泉に入ってくると、リアムは驚きの声を上げた。

 戦う為の筋肉で出来た厚い胸板に腹筋は美しく割れていて、隊服で隠されていない二の腕は驚くべき太さだった。自らの意志と力を貫き通せる逞しい体であったが、フィオンは自慢することなく少し笑っただけだった。

 湯に腰まで浸かったところで、フィオンの後ろから入ってきたルークが口を開いた。

 

「あっ…フィオンさん、背中に何かついていますよ。

 取りますね」

 と、ルークは言った。手を伸ばして騎士の広い背中についているモノを取ろうとしたのだが、ソレは決して取ることが出来ないモノだった。

 風で飛んできた草のようにルークには見えていたのだが、ソレは鋭利な刃で斬られた大きな傷跡だった。


 背中に刻まれた恐ろしい傷跡に触れたルークは「すみ…ません…」と小さな声で言った。

 慌てて目を逸らしたが傷跡は背中だけではなく腹や腕にもあり、小さな傷も含めると数えきれないほどだった。


 ルークが口を開けたままガタガタと震えていると、フィオンは笑いながら頭をポンポンと撫でた。


「なんで謝る?謝んなよ、ルーク。

 これは俺の誇りだよ。

 俺は、この傷を背負って生きている。

 隊長に上り詰めるまで、いろいろあったからな。俺は貴族じゃない。ただの少年だったから、防具をもらえずに戦の最前線で立ってた時期がある…末端兵と言われてな。

 けどな、それがあったからこそ、今の俺がいるんだ。

 いろんなモノが、この体には刻み込まれている。

 守った傷もある、守れなかった傷もある」

 と、フィオンは言った。


 国は違えど同じ騎士の隊長でありながら、アーロンの体には目立った傷はなかった。

 生まれながらに約束されているアーロンとフィオンとでは、歩んできた道は正反対であった。アーロンには十分すぎるほどの訓練期間があり、さらに彼は国王の息子であるのだから。

 

 アーロンは無数の傷を黙ったまま見ていたが、フィオンと目が合うと静かに口を開いた。


「だからこそ、フィオンは勇者に選ばれたのだろう。

 末端兵から隊長にまで上り詰めたのは、君だけだ。

 そして君はソニオ王国の騎士でありながら、騎士としての誇りを守り続ける男だ」

 アーロンは目の前の傷だらけの騎士を心から称えた。


 その言葉にフィオンは少し驚いた顔をしたが、顔を背けて肩まで浸かると、夜空に輝く星々を見上げた。その瞳には、輝き続ける星と落ちていく星が映っていた。


「あの…末端兵って…何ですか?」

 と、リアムが怪訝な顔で聞いた。


「そうだな…末端兵っていうのは兵士であって兵士でない。

 ソニオの騎士団の間で使われている蔑称だから、深くは知らない方がいい。

 そんな事より、このまま温泉に浸かりながら美味い酒でも飲みたいな。水かお茶ばっかりだから、急に飲みたくなってきた」

 と、フィオンが笑いながら言った。


「なら、僕が持っている酒をとってこようか?」

 アーロンがそう言うと、フィオンは驚いた顔をした。


「お前、酒持ってるのか?」


「あぁ。

 マーニャの薬を沢山買ったから、気をよくした店主がくれたんだよ。宿屋で飲む気はないし、野宿では危険だから、ずっとどうしようかなと考えていた。

 ちょうど、良かったよ。

 先程見張っていた間も、人が来る気配はなかった。

 案内人とゲベート王国の馬なくして、夜に、この場所に辿り着ける者などいない。ここならば僕たち勇者を見ている目も、背中から狙われる心配もない」

 アーロンはそう言ったが、フィオンは返事をしなかった。


 今は共に勇者となって最果ての森を目指しているとはいえ、敵国の隊長同士が酒を酌み交わすなど考えられなかった。

 拒否するとばかりにフィオンが首を横に振ると、アーロンは笑ってみせた。


「今の僕は隊服は着ていないし、紋章も身に帯びていない。

 敵国の騎士同士ではなく、クリスタルを追い求める勇者同士で酒を飲むんだ。

 夜空には、美しい星が輝いている。これほど美しい星空を見ながら酒を飲むのは格別だろうな」

 アーロンは星が降るような空を見上げながら言った。


 夜風が優しく頬を撫でると、フィオンの心にも変化が生じていった。

 その誘いに乗ってみるのも悪くないように思えた。酒でも入れば、アーロンにも油断が生まれるかもしれない。闇のように黒々とした腹の内が分かるかもしれないと思うと、フィオンは笑みを浮かべた。


「そうだな。

 お前がそこまで誘うのなら、一杯だけ付き合ってやろう」


「一杯でいいのか?

 遠慮せずに、すきなだけ飲めばいい」

 と、アーロンが言った。


「酒は、少ししか飲まないと決めてるんだ。お前は好きなだけ飲んどけ。

 エマとマーニャには先に寝といてもらうか」

 と、フィオンは言った。


「分かった。一杯でも、付き合ってくれるのならば嬉しいよ。

 エマに伝えてくるよ」

 アーロンはそう言うと、フィオンの考えが変わらないうちにと立ち上がった。


「あぁ、頼むわ」

 と、フィオンは言った。


 アーロンは湯気に包まれながら体を拭き、さっと服を着ると風のように消えていった。フィオンはアーロンがいなくなると大きく伸びをした。

 空では、星がいくつも流れた。静かな空間で聞こえるのは、側の川で流れる水の音だけとなった。




「綺麗な星空ですね。

 星をこんなに近くに感じられる日がくるなんて…思いもしなかったです。流れ星も見れたから、僕の夢が叶うといいなぁ」

 と、リアムが嬉しそうな声で言った。


「あぁ、そうだな。

 リアムの夢が叶うように、俺も願っているよ」

 フィオンがそう言うと、リアムはにっこりと笑った。


 それからは馬で駆けながら見た景色について語り合い、町で食べた美味しい食事を思い出しながら笑い合っていた。

 普段は微笑むだけであまり喋ろうとしないルークでさえ、今は違い声を上げて笑うのだった。


 フィオンが空に輝く星について話をすると、ルークが「あの星のことですか?」と楽しそうな声で腕を伸ばして星を指差した。

 すると、急に湯気が岩に吸い込まれるように消えていった。

 フィオンの目に、白くて細い腕にある「モノ」がはっきりと見えるようになった。

 二の腕が、赤黒く変色していた。

 執拗に何かをやった痕のように思えて、フィオンは胸騒ぎがした。


「その腕の痕、どうしたんだ?」

 フィオンは眉根を寄せながら言った。


「えっ?痕?なんのことですか?」

 ルークが不思議そうな顔でそう言うと、フィオンは二の腕の赤黒く変色した痕を指差した。


 ルークはその痕をじっと見ると、まるで覚えがないように何度も首を傾げた。自分の腕なのに、まるで初めて見たかのように目を丸くしていた。


「誰に…やられた?」 

 と、フィオンが言った。


「あれ?なんでもないですよ。痛みもありませんし。

 きっと…虫にでも…噛まれ…たんでしょう」

 と、ルークは小さな声で言った。それ以上見られないように手で隠そうとしたが、フィオンはルークの腕をグイッと掴んだ。


「やっ、フィオンさん。痛いです」

 ルークは声を上げたが、騎士の力にかなうはずもなかった。ルークの腕は、華奢な少女の腕のように細かった。


 フィオンは細い腕を掴んだまま、赤黒くなっている痕をまじまじと見た。

 それは注射を打った痕だと、すぐに分かった。

 ソニオの騎士の何人かが打っている注射の痕によく似ていたからだった。それは恐ろしい薬であり、体を蝕んで、心を破壊し、やがては死に至る。

 真っ青になっている少年の顔を見ると、温かい湯に浸かっているというのに体を凍らせるような冷水に浸かっている気持ちになっていった。


「なんでもないことないだろう!?

 なんだよ、これは!?

 まるで何回も注射を打ったような…」

 フィオンがそう言い終わらないうちに、ルークはガタガタと震え始めた。


「あっ…あっ…」

 ルークは口をパクパクさせると、何かを思い出そうとするかのように頭を何度も振ってから目を大きく見開いた。


「そう…だ。

 あぁ…そうでした…。今、思い出しました。

 自分が病弱だから…旅の間に変な病気にかからないように…お城の方が…特別に打ってくれたんです」

 ルークは消え入りそうなほどの小さな声でそう答えたが、その言葉には全く感情が入っていなかった。


(思い出す?自分の腕なのに?何を言ってるんだ?)

 フィオンはみるみる様子がオカシクなっていくルークから手を離した。


「そうなんです…自分が病弱だから…定期的に打たないと…いけないんです。

 そう…自分が悪いから…そう…自分を助けるために……」

 ルークは恐ろしい呪文のように呟いた。

 その顔は苦痛に歪み、湯が揺れるほどにガタガタと震えていた。少年の抱える苦しみの音ですら、聞こえるかのようだった。


 フィオンがリアムの腕を確かめると、リアムの腕にも同じように赤黒い注射の痕があった。


「リアム、お前もじゃないか!?」

 フィオンがそう言うと、リアムはゆっくりと自らの二の腕を見た。


「あれ?僕も…だ。

 なんでだろう?僕にもどうしてあるんだろう?なんでだろう…?

 でも、大丈夫です。この旅には、なんの問題もありません。

 僕たちは、精一杯、頑張れますから」

 リアムはそう言うと、穏やかに微笑んだ。


 その言葉を聞いたフィオンは、見えざる鋭い剣で体を斬りつけられたかのような衝撃を受けた。

 魔法使いが「精一杯」と口にする度に、フィオンは嫌な気持ちになっていた。精一杯やらねばならないと、刷り込まされているような気がしてならなかった。


 途端に輝く空の光すらも感じなくなり、闇の向こうから槍の勇者を観察している鋭い視線を感じた。恐ろしい戦場にいるような感覚を覚えたが、辺りは岩に囲まれていて勇者を見ている者など勿論いない。

 だが、何もかもを不気味に感じるようになった。

 流れてきた大きな雲が分厚く勇者の頭上にのしかかり、周りの岩が影のように取り囲んで四方から押しつぶそうとしているかのような恐ろしい感覚にも襲われた。

 さらに吹く風の音が向かってくる蹄の音のように聞こえ出すと、フィオンの手には力が入っていった。


「なんの問題もないわけないだろうが!

 お前ら一体どうなってるんだ!

 その注射の痕は、この旅が原因なのか?

 それとも、魔法使い全員がそうなのか?」

 フィオンは矢継ぎ早に質問した。


 リアムの黒い瞳が恐怖の色に染まると、フィオンは自らの声と迫力が少年を怖がらせているだけだと悟った。


「ごめん…。悪かった…」

 と、フィオンは言った。


 気持ちを落ち着かせようと息を吐き、赤い髪をかき上げてから夜空を見上げた。のしかかっていた雲は散り散りになっていて、空に輝く星は美しく煌めいていた。

 全ては幻覚であり、岩は動くこともなかった。

 フィオンは空に輝く光をその目に焼きつけてから、小さな魔法使いを見た。


「悪かった。

 けれど、俺は槍の勇者だ。

 知らねばならない事がある。

 いつの日か、俺に話してもいいと思える日がきたら教えてくれ。その腕の事と、口を揃えて「精一杯」と言うことについても」

 フィオンは真剣な眼差しを少年に向けた。その眼差しは、絵画で見たことのある勇敢な騎士の瞳だった。

  

 リアムは唇を震わせながら下を向いた。二の腕の恐ろしい痕を手で隠すと、下を向いたまま口を開いた。


「だって…僕たち魔法使いの役割は…勇者様を支えて…役に立って…命にかえても…お守りすることなんです。

 その為に、存在しているんです。

 だから…精一杯頑張るのは、当然じゃないですか…。

 精一杯頑張らないと…いけないんです…僕は…僕たちは…どうしたら…」

 リアムが途切れ途切れにそう言うと、フィオンは絶句した。激しい怒りの感情が沸き起こってきて、岩ですら粉々に打ち砕けるほどだった。

 望まない言葉を吐かされているのは明らかだ。少年が、大人である騎士を守るなど聞いたこともなかった。


「それは…俺の役目だろうが…」

 フィオンが低い声で言うと、リアムは体をビクッと震わせた。

 男の顔色を伺うように顔を上げた少年の黒い瞳からは、大粒の涙がこぼれそうになっていた。


「あの…気に障ったのなら…すみません…。

 ごめんなさい」

 リアムが何度も謝罪の言葉を繰り返すと、フィオンは首を横に振った。


「もう、やめろ。お前が謝る必要なんてない。

 俺がイラついてるのは、お前にじゃない。

 お前に、そんな事を言わせている奴等にだよ」

 フィオンは険しい表情で言うと、自らの両手を見つめてから小さく笑った。


 空を見上げると、輝く星が落ちていった。

 ソレにつられるように、いくつもの星が落ちていくと、フィオンは怒りに震えながら目を閉じた。

(おさえろ…おさえるんだ…)

 何度も自分にそう言い聞かせてから、目を開けた。

 重苦しい空気が漂い、水面には不気味な黒い影が伸びていた。

 その影がリアムとルークをとらえようとするかのように迫っていく幻を見ると、フィオンはまた口を開いた。


「すまなかったな、リアム。

 けれど俺の力を信用してくれるのならば「命にかえても」などと言わないでくれ。

 俺は勇者であり、騎士団の隊長だ。

 だから、そんな事を言われても俺は嬉しくない。

 隊長である俺は、隊員の全てを生きて還さなければならないのだから。

 共にダンジョンに潜り、クリスタルを見つけ、無事に帰還することが魔法使いのやらねばならないことだ。

 な?そうだろう?」

 と、フィオンは言った。リアムはフィオンの顔をじっと見つめてから、下を向いて唇を震わせたのだった。



「ルーク、ごめんな。

 もう、この話はやめにしよう」

 フィオンはそう言うと、震えたままでいるルークの頭を優しく撫でた。


 温泉に浸かっているというのに、フィオンの体はすっかり冷めきっていた。輝く星の光でさえ、金や宝石といった馬鹿げた虚飾の世界を思い出させ、悍ましい光として茶色の瞳に映るようになった。

 冷たい石に背中を当てると、また立ち昇り始めた湯気と波紋を描く水面を見つめていた。

 夜風がヒューヒューと鳴り出すと、アーロンがようやく姿を見せた。


「待たせたね。思っていたよりも時間がかかってしまったよ。

 早く温泉に入らないと、体が凍えてしまいそうだよ」

 アーロンは素早く服を脱ぐと、立ち昇る湯気に包まれながら入ってきた。


「どうかしたのか?」

 と、アーロンが言った。


「遅かったな。隠れんぼでもしてたのか?

 俺たちは、どうもしてないさ」

 と、フィオンは答えた。


「そうか。なら良かった。

 暗い顔をしているから、何か良くない事でも起こったのかと心配したよ。

 フィオン、おかしな話などしていないだろうね?」

 アーロンがそう言うと、フィオンは愉快そうに笑い声を上げた。

 濡れた手で赤い髪をかき上げてから、目を細めながらアーロンを見た。その顔からは、すっかり笑みは消えていた。


「してねぇよ。

 おかしな話なんてな。

 してたと言えば…お前の話をしてたぐらいだよ。綺麗な顔してるよなっていう話ぐらいだ」

 フィオンがそう言うと、酒を握るアーロンの手がピクリと動いた。


「そうか。

 そんな事を言われたのは初めてだから、驚いて酒を落としそうになったよ。

 僕には、君の方が綺麗な顔をしているように思えるよ。

 多くの人を夢中にさせる魅力的な瞳だ。いや…もっと近づきたくなるような…そう…相手を狂わせるような危険を孕んだ瞳とでも言うべきかな」

 アーロンはそう言うと、優しく微笑んだ。


 すると、フィオンもまた口元に笑みを浮かべた。

 冷たい夜風が彼等の顔に吹き付けると、フィオンの赤い髪が濡れているのに炎のように揺れ動いた。黙り込んでいた魔法使いはくしゃみをし、濡れた髪が月明かりで美しく光った。


「さぁ、飲もうじゃないか。

 今は、多くの事は忘れてしまおう。

 ルークとリアムは、もう休むといい。時間がかかってしまって申し訳なかった。念の為に辺りを見てきたが、もちろん誰もいなかった。

 星空は美しいが、雲が妙な動きをしている。

 ヨカラヌ者たちの足元を照らすことはないだろう。その道は暗くなり、坂道を転げ落ちていくことになる。

 安全だから、先に戻って寝ているといい」

 と、アーロンは言った。


 ルークとリアムはお互いの顔を見合わせてから、ゆっくりと立ち上がった。動揺しているのか、彼等は入ってきた時とは違って、腕を隠すことは忘れているようだった。

 アーロンもチラとその痕を見たが、何も言うことなく、姿が見えなくなるまで見送っていた。


 アーロンはフィオンに酒を渡したが、フィオンはもう酒など飲む気にはなれなかった。


「フィオン、飲まないのか?

 僕は、飲むとしよう」

 アーロンは酒を飲み、白い息を吐いた。


(何故、アーロンは何も聞かなかったのか?

 既に知っていたのだろうか?

 だが、今の視線は確かに腕の痕を確認していた。

 まさか共に温泉に入ろうと言い出したのも、俺の反応を見ようとしていたのか?

 いや、まさかな…そんな事をして…一体何になる…)

 フィオンはそう考えながら、酒の香りと色を確かめてから一口飲んだ。その酒はとても上品な味がして、何も知らなければ、きっと格別に感じたことだろう。


 フィオンは顔を上げると、酒を飲んでいるアーロンの顔にじっと目を注いでいたのだった。




 朝日が昇ると、木々の隙間から射し込む光はとても美しかった。鳥の鳴く声が出発の時を告げたが、フィオンの心にはその光が薄れて届くことはなかった。

 一晩中、腕の痕が頭から離れなかった。

 あれこれ考えるうちに心に巣食う暗くて嫌な記憶ばかりが蘇ってきて、彼の心はどんよりとしていたのだった。


 軽い食事をとると、颯爽と馬に跨り、この場所から離れた。

 朝の爽やかな風を全身で感じながら馬を走らせたが、まとわりついたモノは風に消えていくことはなかった。

 次の目的地に着くと、フィオンはリアムの顔を見た。

 今までと変わらずに穏やかな表情をしていたが、フィオンは今までのようにリアムを見ることは出来なくなっていた。


 青い空に輝く太陽の熱をジリジリと感じると、フィオンは体が熱くなっていくのを感じた。


 アーロンが水を汲みに離れると、フィオンは木の下で馬を撫でているエマの隣に立った。いつもとは違う真剣な眼差しにエマは驚いた顔をしたが、フィオンに昨日の事を問われると、エマの馬を撫でる手が止まった。馬は嬉しそうに尻尾を振っていたが、エマは馬から手を離した。


「どうなんだ?腕に妙なものを見なかったか?」

 フィオンがそう言うと、エマは頷いた。


「やっぱり、あったのか。

 エマは聞いたんだな」


「赤黒い痕ならあったわ。

 マーニャに何をされたのかと聞くと泣き出したから、それ以上は聞かなかったけれど…ひどく怯えていたわ。

 恐ろしい色をしていたわ。

 えぇ…許せないわ…」

 エマが怒りを込めて言うと、風がヒュウヒュウと音を立てて鳴り出した。


 草は荒れ狂う波のように揺れ、木の太い枝ですらガサガサと激しく揺れ動いたのだった。

 

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