第17話 勇者と馬 上
その頃、勇者と魔法使いはソニオとゲベートの国境付近を馬で走っていた。一行が出発したゲベートの港はソニオとの国境付近に位置していたので、ほとんど進んでいなかった。
「待って!待ちなさいよ!」
と、エマは叫んだ。
しかし前方を互いに競い合いながら走るアーロンとフィオンには届かず、2頭の馬の勢いは止まらなかった。
エマは苛々しながらもう一度大きな声で叫んだが、彼等の耳にはまたも入らず仲間を気遣う様子がないのを確認すると、その怒りは頂点に達した。
「待てって言ってるでしょうが!」
エマは馬上から颯爽と矢を放った。
上空から突然矢が降ってきたことで、馬は驚いて棹立ちになり大きな声で嘶いた。2人の勇者は興奮した馬をなだめながら、後ろから追いついてきたエマを見た。
「悪りぃ、エマ!
スピードを出し過ぎてたな…ごめんな」
フィオンはそう言うと、馬から降りた。
「僕も、すまない」
アーロンも馬からヒラリと降りながら言った。
「分かればよろしい。
魔法使いは、遥か後ろにいるわ。
このままだとはぐれてしまうわよ。この辺で、待ちましょう。馬には馴れてなさそうだし、これ以上私達が先を走り続けるのは可哀想だわ」
エマは心配そうな顔で言うと、ここから小さく見える魔法使いを指差した。ゲベート王国の中でも、彼等が乗っているのはとびきりの駿馬である。必死に馬の背にしがみつきながら乗っているマーニャは、今にも振り落とされそうになっていた。
「俺、休めそうな木陰を見つけてくるよ」
フィオンは魔法使いの姿を見ながら言うと、軽快に馬に飛び乗った。馬の背に揺られながら、涼しげな木陰を探しに行ったのだった。
※
「すみません。私のせいで…旅が遅れてしまいますね。勇者様にご迷惑をかけてしまい…すみません」
ようやく追いついたマーニャは青白い顔でそう言うと、勇者に向かって深々と頭を下げた。
「いいのよ。マーニャは全然悪くないのよ。後ろを見ていない、この2人が悪いんだから」
エマはそう言うと、マーニャに頭を下げるのを止めさせた。
「本当にすみません。馬に乗るのは…初めてで…。
私がちゃんと馬に乗れないばかりに…もう数日経ったのに、先になかなか進めなくて…遅れてしまってごめんなさい。本当にすみません。
もっと…精一杯頑張ります…すみません」
マーニャはそう言うと、男の勇者の顔をチラチラと見た。彼女の瞳には不安の色が浮かび、細い体がガタガタと震えていた。
「いやいや!俺達がバカだったんだよ!隊長なんだから周りに目を配らないといけないのに。
俺も疲れたから、少し休もう。旅は始まったばかりだ。時間なんて、工夫次第でどうにかなる。
なぁ?そうだろう!?」
フィオンはそう言うと、黙り込んでいるアーロンの背中を強い力で叩いた。
「そうだよ。悪いのは僕達だ。
後ろを気にせず走るなんて、どうかしていた。
少し休もう。フィオンが木陰を探してくれたから」
アーロンがそう言って空を見上げると、青い空を素晴らしい鳥が飛んでいた。アーロンはその鳥を見つめてから、フィオンが見つけた大木の下を指差した。
アーロンはマーニャの馬の手綱も握ると、2頭の馬を引き連れてゆっくりと歩きだした。
空には白い雲が流れ、木の枝にとまっている鳥達が歌うように鳴き声を上げ、穏やかな風が魔法使いの疲れを癒すかのように吹き出した。
今度はゆっくりと歩く勇者の後ろ姿を見ると、魔法使いは小さく息を吐いたのだった。
フィオンが見つけた大木の下は、生茂る木々の葉が眩しい太陽の光を遮り、休憩をするには最適な場所だった。柔らかな草の上に座り込むと、風が吹く度に芳しい香りが漂った。
側を流れる清らかな川の水の音を聞きながら揺れる小さな花を見ていると、体の疲れが癒えていくようだった。
しばらくすると魔法使いがフラフラしながら水を汲みに行こうと立ち上がったので、エマが彼等を止めたのだった。
「いいのよ、座ってなさい」
エマがそう言うと、魔法使いはお互いの顔を見合わせた。彼等が何かを言い出す前に、エマは川の方へと歩いて行った。
フィオンはエマの後ろ姿をじっと見ていたが、その姿が小さくなると、草の上にゴロンと横になった。赤い髪が風に吹かれると長い足を伸ばし、青い空を眺めてから欠伸をして目を閉じた。
エマが戻ってきても、フィオンは目を開けなかった。
心地よい風に吹かれながら、5人は水を飲んで喉を潤し、馬は美味しい草を食べ始めた。
その時間が長ければ長いほど、慣れない馬に乗って疲れ切っている魔法使いは元気を取り戻すことが出来たのだった。
結局、その日は宿屋には向かわずに、この場所でテントをはって野宿をすることにした。
フィオンが川で捕ってきた魚を火で炙る音と、彼等の談笑する声が合わさった。焚き火の炎が、暗くなっていく景色の中で明々と燃えていた。
「私、誤解をしてたわ。
アーロンはもっとやな奴で、贅沢が好きで、野宿は絶対嫌だというタイプだと思ってた。
なんせゲベート王国の王子様なんだから。
けど、全然違った。優しいし、食べる物に文句は言わないし、水を汲みに行ったりいろんな準備もしてくれる。馬の世話もしてくれるから助かるわ。
本当に…意外だったわ」
と、エマが言った。
「僕の事をそんな風に思っていたのか。早めに誤解が解けて良かったよ。
王子だなんて、やめて欲しい。国は違えど同じ騎士の隊長で、同じ勇者じゃないか。
望みは、一緒のはずだ。
野宿は好きだよ。月明かりは美しいし、息苦しい場所よりも空気がいい。
この辺りに町や村はないし、今から宿屋を探してウロウロしていたら夜になってしまう。
それに…町や村の盛大なもてなしは、申し訳なくてね」
アーロンは困った顔をしながら言うと、フィオンの顔をちらりと見た。
勇者一行は、町や村の宿屋に泊まる度に、盛大なもてなしを受けていた。食べきれないほどの食事と酒が用意され、最高の部屋が用意されていた。
宿屋の主人は「勇者様が来てくだったのですから」というお決まりのセリフを言い、それに見合った代金を受け取ろうとはしなかった。
「痩せた子供や暗い顔をした村人の姿が、どうしても目に入ってくるんだ。本当に…申し訳ないよ。かえって迷惑をかけているような気がする。
どう思う、フィオン?」
アーロンはそう言うと、灰色の質素なマントを体に手繰り寄せた。
村や町でそういう事が何度も起こったので、アーロンは質素なマントを買って全員に着せて身分を隠すようになった。さらに野宿をする為にテントを3張買っていた。
勇者一行であることを隠しながら、アーロンは人目を避けて進むことを好むようになっていた。
「まぁ、そうだな。
ゲベート王国の王子様が来たのならば、最高のもてなしをしなくてはないからな。王子様がかけてくる…無言のプレッシャーを感じてるのかもな。
なぁ…お前、なんで白の教会で、自分はゲベート王国の王子だと言わなかったんだ?」
丸太の切り株に座っているフィオンは冷たい声で言った。
「僕は王子だから勇者に選ばれたわけではない。
それに僕から言わなくても、フィオンやエマならもちろん知っていると思っていた」
アーロンはそう言うと、フィオンに向かって優しく微笑んだ。
フィオンがイラついた顔を見せると、エマが呆れた顔で2人を見ながら口を開いた。
「そういえば…貴族の御令嬢方の護衛を任された時に、ゲベート王国に素敵な王子様がいるって騒いでいたわ。
なんか…納得だわ。凄い人気だったけど、アーロンにはもう素敵な婚約者がいるんでしょうね」
と、エマは美しい令嬢を思い浮かべながら言った。王子であるアーロンには当然婚約者がいるのだろうと思っていた。
「今は…いないかな。そんな時間は、ないよ。
任務や雑務が多くて…忙しいから」
アーロンが目を伏せながら答えると、フィオンが自慢げに話し始めようとした。
「あんたには聞いてないわよ。何人もいそうだし」
エマは冷たい目で、フィオンを見た。あろうことか教会で女にモテたいと言っていたし、その軽そうな雰囲気では恋人がいたとしても他にも沢山女がいるとしか思えなかった。
「なんだよ、それ。偏見は困るな。
こう見えて、結構真面目かもしれない。いろんな面で、俺って結構いいかもしれない」
「自分で言うなんて、バカじゃないの?」
「まだよく知らないのに酷いな。
リアムとルークは失礼だと思うよな?な?」
フィオンが笑いながら話しかけたが、2人は何も答えずに微笑んでいるだけだった。
「なんだよ、味方はいないのか…」
フィオンが大袈裟に溜息をつくと、沈んだ顔をしていたマーニャもようやく微笑みを浮かべたが、手に持つ魚にはほとんど口をつけていなかった。
火の始末をしてテントを張り終える頃には、空に月が輝くようになった。彼等を見下ろすかのような月の下で、勇者が交代で見張りを始めた。野宿をする時には、いつも順番で見張りをすることにしていたのだった。
エマがフィオンと見張りを交代すると、エマはマーニャのいるテントに入って行った。フィオンがリアムと同じテントで、アーロンがルークと同じテントだった。
マーニャは横になっていたが、エマがテントの中に入ってくると目を開けた。マーニャは疲れてもうぐっすり眠っているものだと思っていたので、エマは驚いた顔をした。
「どうしたの?眠れないの?」
「お話しがしたくて、起きていました。
エマ様は、妹様がいらっしゃるんですか?」
マーニャがそう言うと、エマはマーニャの顔をじっと見つめた。
「いないわ。どうしてそんな事を聞くの?」
「私にとても優しくして下さるので、きっと妹様がいるのだろうなと思ったのです。もし私にも姉様がいたら…と思うと…とてもあたたかい気持ちになるんです。
変なことを言ってしまって、すみません。
私の方が、実年齢は随分上なのに」
と、マーニャは少し顔を赤くしながら言った。
「いいのよ、マーニャ」
エマはそう言うと、弓を静かに置いた。
マーニャの側に座り込んで栗色の柔らかい巻き髪を撫でると、エマの手首のあたりがキラキラと光った。
「エマ様、綺麗な光ですね。
ブレスレットですか?」
マーニャはその光を見ながら言った。
エマの右手首にはブレスレットが巻かれていた。ハートが3つ重なり合い、自由に空を飛ぶ蝶のようなデザインだった。そのハートの部分は、薄暗いテントの中でも白く輝いていた。
「ありがとう。
でも、これね、本当はブレスレットじゃなくてネックレスなの」
エマは輝くブレスレットを撫でながら、遠い昔を思い出すような目をした。
「ネックレス?どうして腕にしているんですか?」
マーニャがそう言うと、エマは表情を曇らせながらブレスレットを服に隠して見えないようにした。
「すみません。
でも…あの…自由に空を飛び回る蝶のようで本当に素敵です。もう寝ます、ごめんなさい」
「いいのよ。マーニャ。
私はネックレスなんて似合わないから。だからブレスレットにしているの」
エマが沈んだ表情で言うと、マーニャは勢いよく首を横に振った。
「エマ様はお美しい方ですから、似合います!」
マーニャが大きな声でそう言うと、エマは微笑みを浮かべた。
「ありがとう、マーニャ。
疲れたでしょう。お休みなさい」
エマがもう一度栗色の髪を撫でると、マーニャも微笑んでから目を閉じた。
(妹ね…。
今は…いないわ)
エマは心の中でそう呟きながら、マーニャの寝顔を見つめていた。その寝顔は口元に微笑みを浮かべていたが、疲労を感じさせるものだった。
いつからかマーニャをいなくなった妹のように、エマは思うようになっていた。だから、こんなにもマーニャのことが気にかかるのかもしれない。
怯えながら馬にしがみついている姿は、いつ落馬してもおかしくないほど危険だったので、エマは自分の馬にマーニャを乗せたいと思うほどだった。
マーニャが寝息をたて始めると、エマはネックレスに触れてから唇を噛み締めた。
(私に…このネックレスをつける資格なんてない。
私は妹を守れなかった。大事な妹を。あの男から妹を救う為に、ここまでのし上がった。
いつも矢を放つ時にネックレスから妹を感じ、確実に的を射抜いてきた。
そうして…やっとチャンスを手にした。
あの男から妹を救い出す為の…チャンスを)
エマの心は怒りの炎で燃え上がりながら、毎夜そうしてきたように大切な弓の手入れを始めたのだった。
※
それから数時間後、エマはマーニャの荒い呼吸で目を覚ました。マーニャは額に汗を滲ませて体を震わせていたのだが、胸を抑えて痛みを耐えようとしているかのようだった。
「大丈夫?どうしたの?」
「大丈夫です…すみません。
頑張ります…封印解除の魔法は…精一杯出来ます…大丈夫です…」
マーニャは目を閉じたまま、かすれた声で言った。
「マーニャ!私を見て!
私が聞いてるのは、マーニャの体調よ。
薬はあるの?」
エマが小さな手を握りながら言うと、マーニャは薄らと目を開けた。苦しそうに眉を寄せながら、首を縦に振った。
エマはマーニャの小さな荷物袋に手を伸ばすと、紐を開けて小さな瓶を見つけ出した。
「これが薬ね?」
と、エマは言った。
「はい…。でも…大丈夫です。
こうして…横になっていれば…明日には治ります。
その日の魔力が少なくなると…夜にこうして…発作のようなことが起きるんです。でも…大丈夫です。
今飲むと…無くなってしまいます。陸橋を渡るまで…とっておかないと…」
マーニャは途切れ途切れそう言った。
エマを安心させるかのように微笑んだが、すぐに顔を歪めた。苦しそうに息をするたびに、胸が激しく上下に動いた。
エマは薬を飲ませようとしたが、マーニャは口を固く結んで薬を飲もうとはしなかった。
(どうして、もっと早くに気付かなかったの。
馬に乗っている時も、しんどそうだったけれど…こんなに体調が悪かったなんて)
エマは自らを激しく責め立てると、薬の小瓶を持ったままテントから出た。
「エマか?どうした?」
外で見張りをしていたフィオンは言った。外はまだ暗く、夜明けはまだ遠かった。
「マーニャがひどく苦しみ出したの。
リアムを起こしてもらえないかしら。リアムなら魔法全般が使えると言っていたから。
回復魔法とか使えるんだったら、マーニャにかけてもらえないかしら?」
エマが真っ青な顔をしながら言った。
フィオンが急いでテントの中に入って行くと、目を擦りながらリアムがテントから出てきた。
「マーニャが苦しんでいるの。
リアムの魔法で治せないかしら?魔法全般が使えるんでしょ?
何がいいのかは分からないけれど」
エマがそう言ったのと同時に、マーニャのいるテントから呻き声が上がった。
「回復魔法は…使えません。
魔法使いの血を汚さぬように、魔法使い同士で使ってはならないと…そうお城の方から言われています。
勇者様には回復魔法を使えますが、マーニャさんには使えないんです。
僕に出来ることは…何も…ありません」
リアムは困った顔をしながら小さな声で言った。
月は流れる雲に隠れてしまい、辺りの暗闇が彼等の心をより暗くさせた。夜の静寂は苦しむ小さな声をより大きく響かせ、冷たい風がテントを揺らした。
「どうするか…まいったな」
フィオンがそう言うと、外の話し声を聞きつけたアーロンとルークもテントから出てきた。
フィオンはチラリとアーロンを見ると、腹立たしそうに眉間に皺を寄せて薬の小瓶を指差した。
「エマ、その薬は幾らするんだ?」
「分からないわ。とても高価なものみたいなんだけど」
「僕が、調べよう」
何もかもを聞いていたであろうアーロンがそう言うと、エマは小瓶を彼に渡した。
アーロンは小瓶の蓋を開けて匂いを確認してから、手の平に一滴だけ垂らして色と味を確認した。
「この薬は、最高級品だ。
金貨3枚はするだろう」
「金貨…3枚か。
アーロン、ありそうなのか?」
と、フィオンは言った。路銀の管理をしているのはアーロンだった。
「ある。
だがソレを使えば、薬代で路銀がなくなってしまうだろう。
そう… 1瓶では、その場しのぎにしかならない。マーニャの苦しみは変わらない。
マーニャを治す為には、薬はどれくらい必要なのだろうか?」
アーロンがそう言うと、リアムがおずおずと手を上げた。
「僕が…みてきます」
リアムはそう言うと、マーニャのテントの中に急いで入って行った。
風はビュービューと音を立て、4人はソワソワしながらリアムが出てくるのを待っていた。
しかしリアムはなかなか出て来ずに、風でテントが揺れる音がするだけだった。一際大きな呻き声が上がった後に、リアムが静かにテントから出てきた。
「とても…悪いです。
薬の瓶は…10個は…必要かなと思います。金貨30枚といったところでしょうか…」
リアムがそう言うと、重苦しい空気が漂った。
エマには自分の心臓の音が聞こえるようだった。吹く風の音はますます大きくなり、マーニャを攫っていくような恐ろしい音に聞こえた。
「金貨30枚か…とんでもない額だな」
フィオンは腕組みをしながら、辺りをキョロキョロと見渡した。
「このままだと死んじゃうわ。
どうして…こんな酷い状態になるまで…」
と、エマは嘆いた。マーニャと妹を重ね合わせたエマは右手首をギュと握り締めた。
勇者を凍えさせるような冷たい風が吹き、雲から少し顔を出した月が不気味に地面を照らした。川では魚の跳ねる音がして、草木がザワザワと動き、馬が小さな鳴き声を上げた。
フィオンがアーロンをチラリと見ると、彼は眉間に皺をよせてグレーの瞳には怒りの色が浮かんでいた。
(なんだ…コイツ…)
フィオンはギョッとしたが、瞬きをした瞬間にいつものアーロンの顔に戻っていた。見間違いかと思うくらいの、一瞬の表情だった。
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