第14話  その後


 アンセルは仲間の顔を見渡し続けた。

 暗く沈んでいた表情が明るい表情に変わったのを目に焼き付けると、仲間の気持ちをさらに鼓舞するかのように右手を上げてから部屋へと戻って行った。

 部屋に戻り寝室のドアを開けて中に入ると、急に力が抜けて床にストンと座り込んだ。

 青白い顔で口をポカンと開けていた。どれくらいの間、床に座ったままでいたのかも分からないほどだったが、立ち上がろうとしても力が出なかった。

 自分を信じる希望に満ちた眼差しを思い出すと、これで仲間の生命を完全に背負ったのだという重みで、アンセルは押しつぶされそうになっていた。


 自ら決意して望んだことだったが、アンセルは急に怖くなったのだった。仲間が自分の言葉を信じてくれるように願いながら演説の内容を考え、仲間の心を一つに出来るようにと言葉に思いを込めた。希望に満ちた仲間の表情を思うと成功といえるものだったのだが、何故か心から喜べなかった。

 仲間を守る為の強い思いが力となり、何も心配することなくトレーニングに励めると思っていたのだが、実際はそうではなかった。


(上手くいったはずのに、どうして恐ろしくてたまらないのだろう?どうして素直に喜べないのだろう?

 強い魔王を演じられたはずだ…そうする必要があったのだから…俺は一体どうしたというんだ…)

 アンセルの心は自分でも分からないぐらいに複雑なものと化していた。


 すると突然腹の底から得体の知れないモノが込み上げてきた。慌てて両手で口を塞いで再びソレを飲み込むと、その得体の知れない「何か」が渦を巻き出した。瞬く間に黒い渦となり心に広がっていくと、大量の汗が流れて両腕がガタガタと震え出した。


(俺は…強くない。

 それなのに無理矢理弱さに蓋をして、仲間の前で強き者を演じた反動なんだろう…。本来の弱さが、また腹の底から込み上げてきたんだろう…。

 全てをそう…思い通りに変えられるはずもなかったんだ…)

 アンセルがそう思い出すと、床の上にポタポタと汗が音を立てて流れ落ちた。ガタガタと震える両腕を虚ろな目で見ていると、何者かの声が聞こえてきた。


『嘘つきめ』

 その黒い渦が、たった一言…そう囁いたのだった。


 その言葉は、アンセルの胸に突き刺さった。

 その言葉を否定出来ず、あろうことか…その囁きに応えるように自分を卑下し始めたのだった。


(そう…嘘だ。

 俺は『かのお方』なんかじゃない。ドラゴンでありながら、ドラゴンの炎すらも操れない。

 それは俺が一番よく分かっている、真実の俺だ。弱くて、臆病者で、怠惰な男だ。

 怖い、恐ろしい、そもそも戦うなんて嫌だ。

 それが、本当の心の叫びだ。

 何の力もないのに仲間に期待を抱かせて、騙したんだ。とんでもない嘘つきじゃないか)

 アンセルは小さな動物のように身震いした。

 

 臆病に反応したのを感じ取った黒い渦は力を増し、さらに力を得ようとするかのようにアンセルを責め立て始めた。


『そう…嘘だ。

 キサマは、弱い。キサマに、一体何が出来るのだ?

 力などない…キサマに…』

 と、黒い渦は言った。


「やめろ!やめてくれ!クソッ!」

 アンセルはそう叫びながら、両手で顔を覆った。

 今の顔を誰かに見られたくなかった。

 そう…誰もいないはずなのに誰かに見られているような気がして、その鋭い視線から逃れたかった。


「そうするしか…なかった。

 そうしなければ、ならなかったんだ…」

 アンセルは息苦しくなり、呼吸もどんどん荒くなっていった。


(弱くて臆病で怠惰な俺が…本当に仲間を守れるなんて思ってはいない…。仲間に嘘をついた…騙した…苦しい…。

 誰か…誰か…助けて…)

 アンセルが小さな動物のように蹲ったまま震えていると、真紅のマントが揺れ動いて体を包み込んだ。


 そのマントからは、優しい香りが漂った。

 混乱している心を落ち着かせるような…アンセルがよく知っている香りだ。

 自分を大切に思ってくれている誰かに「大丈夫ですよ」と励まされながら、優しく抱き締められているような気持ちになっていった。


(そうだ…あれは俺の願い。

 騙したんじゃない。願いを口にしたんだ。

 俺自身の為にも…俺が強くなる為にも必要なことだったんだ!)

 アンセルはそう思い直すと、さらに気持ちを落ち着かせようと何度も深呼吸をした。


 そしてゆっくりと顔を上げて、よろけながらも立ち上がった。


(下を向くんじゃない、もう宣言してしまったんだから、覚悟を決めろ。俺は負けない。自分の弱い心に負けない。

 何も始まってないのに、始める前から負けてたらダメだ。

 自分で決めたんだろうが!

 大切な仲間の為に、俺は強くならねばならない。

 大丈夫だ…まだ時間はある。2ヶ月しかないんじゃない、2ヶ月もあるんだ。

 そう…確かに嘘をついた。守る自信もないのに守ると。望みは少ないのに、希望に満ち溢れているかのように。

 勝てる見込みはないのに、勝つと。

 だが、その願いを叶えれば、嘘にはならない。

 一つ一つを、真実に変えてみせる。

 2ヶ月後、俺は言葉にした全てを真実に変えてやる!)

 アンセルは心の中で何度も繰り返し、心の中に広がり始めた恐ろしい感情に抗った。

 マントと黒い服を脱ぐと、いつもの服に着替えてから、少しでも強い魔王に近づけるようにと寝室を出てトレーニングを始めたのだった。



 *



 それからアンセルは部屋から出ることなく、トレーニングに励み続けた。演説をした翌日は仲間の様子が気になって見に行こうとしたこともあったが、それを予測していたかのようにミノスが部屋に現れた。


「全て私達にお任せ下さい。

 アンセル様は、自らのやるべき事だけに集中して下さい。また様子を見に来ますので」

 ミノスはそう言うと、アンセルが何かを言う前に部屋を出て行った。


 次の日になっても、ミノスは現れることはなかった。

 何か良くないことでも起こったのではないかと不安になったり、頑張り過ぎて誰か怪我でもしたんしゃないかと心配になったりもしたが、自分が行ったところで何も出来ないことは分かっていた。

 アンセルは何度か部屋の中をグルグルと歩き回った後、ミノスの言葉を信じて、自分が今やらねばならない事に集中することにしたのだった。

 

 数日が経つと、アンセルはトレーニングをなんとかこなせるようになった。人間とはちがう体に感謝をしつつ、徐々に課されたトレーニングの回数を増やしたりもしていった。

 アンセルは少食だったが、リリィが作る食事ならなんとか食べられるようにもなっていた。鏡の前で裸になると細かった体は少し逞しくなり、目に見えて変化が現れてくると少し楽しくなっていた。

 

 そうしてアンセルの心と体に変化が出始めた頃、ミノスがようやく現れた。ミノスは茶色の袋を背負い、両手には紫色の布でくるんだ大きな荷物を大事そうに持っていた。

 アンセルの表情に少し自信がついているのを確認すると、ミノスは頷き、両手に荷物を持ったまま話し始めた。


「アンセル様、全て問題なく進んでいます。

 トールとオルガが的確に指示を出し、皆も協力して頑張っています。どうぞ、ご安心を。

 来るのが遅くなったのは、マーティスと共にアンセル様の今後のスケジュールを考えていたからです」


「スケジュール?」

 と、アンセルは言った。


「そうです。

 この戦いに勝利する為に、やらねばならない事を決め、しっかりと管理していく必要があります。

 どんなに苦しくても、たとえ血を流して倒れても、アンセル様にはやっていただきます。いえ、やらねばなりません。

 勇者達がダンジョンに着く前には『完全な状態』になっていただかねばなりません」

 と、ミノスは強い口調で言った。


「完全な状態…ですか?

 それは一体…どういうことですか?」

 アンセルはそう言ったが、ミノスは「完全な状態です」とだけしか答えなかった。

 きっとドラゴンの炎を操れる状態になっていることだろうとアンセルが考えていると、ミノスはアンセルの体を眺め回した。


「トレーニングは問題なく出来るようになったようですね。

これからも毎日欠かさず続けて下さい。

 明日からは、20階層から18階層間を往復していただきます」

 と、ミノスは言った。

 手に持っていた紫色の大きな荷物を近くのテーブルの上に置いてから、背負っていた茶色の袋もおろした。


「この袋を背負って往復していただきます。中には、重しが入っています。明日は、一回でいいです。一日経つごとに、回数を増やして下さい。午前中で終わらせて下さい。午後からは別にすることがありますから。

 朝の9時から夕方まで、19階層は誰もいませんので心配することはありませんよ。18階層は、もともとマーティスとリリィしかいませんから、こちらも問題ないでしょう。

 数日は歩くことしか出来ないと思いますが、慣れれば走れるようになります。

 食事ですが、リリィが作っていると聞きました。

 これからは品数も増やし、さらにバランスよく栄養をとっていただきます。しっかりと噛んで食べて下さい。これもトレーニングです。食べて体を作るのです。

 もし食べなければ、ミキサーにかけて流し込ませるようにとリリィに言っています。それから…」

 ミノスはそう言うと、テーブルの上においていた紫色の布をゆっくりと解いた。


 布でくるまれていたものが、ようやくその姿を現した。それは、2本の剣と弓だった。

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