4

 弘貴はリリーの手を握って、ゆっくりと川沿いの緩やかな坂道を登っていた。


 聞こえてくる川のせせらぎは、夏に遥香と来たときは涼しく感じたが、冬になると悪魔のささやきにも聞こえてくる。


 紅葉した葉の大半が散った気に囲まれた山道に吹き抜ける風は冷たく、厚手のコートを羽織っていても首をすくめるほどだった。


「寒くない?」


 遥香のクローゼットから持ち出したコートの上にマフラーをぐるぐる巻きにして、しっかりと防寒対策を整えたリリーは、白い息を吐きながら「大丈夫」と答える。


 弘貴は今、夏に遥香と行った旅行で止まった旅館の裏山にある散歩コースを上っていた。


 十日ほど前に見つけたウェブサイト――


 夢の中と入れ替わったという体験をつづったブログの一文には、こうあった。


 ――夢と現実の世界の境界が、薄くなるような場所があるようだった。僕はようやく探し出したその境界を通り、無事にこの世界に戻ってくることができたのだ。


 ブログの解説者が本当に夢の世界の人物と入れ替わってしまったのかどうかまではわからない。


 ただ、この発言は、ホフマンの「正午、同じ魂を持つ者同士が同じ行動を取ることで、同じ時空は呼びかけに応じた」という「同じ時空」を指しているとしか思えなかった。


 弘貴が気になっていた最後のフレーズである「同じ時空」。それが互いの世界の境界が薄くなっている場所だと言うのならば――、あそこしかない。


(大聖堂にあった、天使のレリーフ……)


 クロードと遥香が訪れた大聖堂にあった天使のレリーフに、弘貴も見覚えがあった。そのレリーフは夏に、遥香と訪れたこの地の、古い教会の祭壇の奥の壁にあったものと同じだった。


 弘貴の推測が正しければ、リリーをその教会へ連れて行けば、彼女の指にはまっている指輪が何らかの反応を示すはずだ。


 リリーの歩調に合わせてゆっくりと歩く弘貴の心臓が、少しずつ早くなる。


 遥香の結婚式は、三日後。


 彼女とクロードがレリーフのある大聖堂に足を踏み入れるのは、その日しかない。


(時間と場所と同じ行動……、その日しかないんだ)


 結婚式は昼前からだったはずだ。条件の一つの正午という時間は、クロードがいいように調整してくれるだろう。


 弘貴はリリーの手を引いて、散歩コースから外れた奥へと進んでいく。


 木々をよけて少し進めば、昔使っていたと思われる道へ出る。そこをまっすぐに進んでいくと、夏に遥香と訪れた古い教会が、静かにたたずんでいた。


 弘貴が教会の扉に手をかければ、あの時と同じように鍵のかかっていない扉は、ギィっと軋んで弘貴たちを迎え入れる。


 変わらずに埃っぽい教会の奥にはマリア像が立っており、静かに弘貴たちを見下ろしていた。


「リリー、こっちだ」


 弘貴はリリーの手を握りなおすと、薄暗いからかビクビクしている彼女を伴って、ゆっくりと祭壇の奥へと進んでいく。


 夏に見つけた天使が天へと昇っていく姿を描いたレリーフを見つけた弘貴は、「やっぱり」と小さくつぶやいた。


 夢の世界で、遥香たちが見たものと同じレリーフ。ここに違いないと弘貴が確信した時、隣でリリーが「あ……」と声をあげた。


「指輪が……」


 つないだ手を離してリリーの指を見ると、薬指に光る指輪がピカっと強い光を放っていた。


「間違いない……!」


 弘貴が思わず微笑む先で、指輪の光は静かに消えていく。


「ここだ……」


 弘貴はもう一度天使のレリーフに視線を向けて、ぐっと拳を握りしめた。


(遥香……、見つけたよ)


 そのあとしばらく、弘貴はリリーとともに、何をするでもなくそのレリーフを見つめ続けたのだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る