3

 旅館に戻ると、夕食の時間まで温泉に入ることにした。


 ほんのり乳白色の温泉につかりながら、窓の外が暗くなっていくのを眺めるうちに、遥香の心臓がどきどきとうるさく騒ぎはじめる。


(そっか……、今夜、なんだ……)


 旅行が楽しくて、さっきまでうきうきしていたが、今夜弘貴と体を重ねる約束をしている。忘れていたわけではないが、日が落ちると急に現実味を帯びてきて、遥香は温泉の中で膝を抱えた。


 遥香が知っている男の人は、弘貴とつき合う前につき合っていて、ひどい別れ方をした元彼一人だけだ。


 正直、抱かれるのは苦手だった。


 痛いし、怖いし、全然気持ちよくなんてなかったけど、喘いだふりをしないと不機嫌になってもっと乱暴にされるから、遥香はいつだって、その行為が嫌だった。


 過去を思い出して暗い気持ちになってしまった遥香は、小さく首を振ると立ち上がる。


(大丈夫。弘貴さんは、優しいから)


 遥香は温泉を出ると、浴衣に袖を通して帯をしめた。


 弘貴とだから大丈夫だと、心を決めて脱衣所から外に出た遥香は、大きく目を見開いて、ギクリと足を止めた。


「あれ、遥香か?」


 女湯と書かれた暖簾のすぐそばに、知った顔の男が立っていた。


 浴衣を着て、片手にビールの缶を持っている。


(どうして……)


 茫然と立ち尽くす遥香の顔を覗き込んで、男はニヤリと口の端を持ち上げる。


「相変わらず、意思の薄そうな顔をしてるんだな、お人形ちゃん」


 あきらかに嘲笑の混じった声で言う男は――遥香の、別れた昔の彼氏だった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る