隣国へ
1
弘貴のマンションで、レンタルした映画を見終えた
つき合いはじめるまで、ほとんど使われていなかったこのキッチンだが、好きにしていいと弘貴に言われたので、今では、遥香のおいた調味料や調理器具が増えた。
コーヒーも、弘貴がよく飲むので、二週間ほど前に家電量販店でコーヒーメーカーを購入しておいている。
こぽこぽとコーヒーメーカーがコーヒー豆をろ
「いい匂い。手伝うよ。昨日、じーさんから北海道の土産でもらったチーズケーキがあったはず」
弘貴は冷蔵庫を開けると、箱に入ったチーズケーキを取り出した。
以前、
つき合いはじめて、弘貴が「じーさんが会いたいって言ってる」と言ったので、何気なくついて行くと、そこは
あまりのことに思考回路を停止させた遥香を見ながら、
――ばーさんの若いころに似とるのぉ。
ひたすら失礼のないようにということばかり考えていたので、どんな会話をしたのかあまり覚えていなかったが、弘貴によると「気に入られたみたいだね」とのことだった。
それ以来、会長は、藤倉商事の本社に顔を出すたびに弘貴を呼びつけては、「遥香ちゃんと食べなさい」とお土産やらお菓子やらを渡すようになったそうだ。
(今度、お礼に行こう)
遥香のどこを気に入ってくれたのかはわからないが、弘貴の祖父だ、仲良くなりたい。
「あ、わたしがやります!」
弘貴が取り出したチーズケーキを切ろうとしたので、遥香は慌てて弘貴の手から包丁を取り上げた。
弘貴に包丁を使わせるのは危険なのだ。
(前、手切ってたし……)
料理をしない弘貴なのだが、遥香がキッチンに立っていると、なにかと手伝おうとしてくれるのだ。だが、弘貴の包丁の使い方は、とにかく危ない。いつ指を切るかとハラハラしてしまうので、遥香はできるだけ弘貴に包丁を渡さないようにしていた。
「じゃあ、コーヒーを運んでおくね」
「お願いします」
マグカップに注いだコーヒーを二つ持って、弘貴がソファまで移動する。
遥香もチーズケーキを乗せた皿とフォークを持って弘貴を追いかけた。
「ん、美味しい」
濃厚なチーズケーキの味が口の中に広がって、遥香は頬を緩める。
「気に入ったならよかった。じーさんに遥香が喜んでたって言っておくよ」
「はい、お礼を言っておいてください!」
「わかった。―――あ、遥香、口の端についてるよ」
「え、ほんとですか?」
遥香は慌てて口の端をぬぐうが、弘貴はそれを見てクスクスと笑った。
「違うよ、そこじゃなくて……」
そう言いながら、遥香の方に顔を寄せた弘貴が、チュッと口の端にキスをして、口元についてケーキ屑を舐めとっていく。
遥香は顔を真っ赤に染めた。
優しい弘貴が「待つ」と言ってくれているから、遥香と弘貴の間に肉体関係はないが、彼はこうして、よくキスをする。
二か月がたって、弘貴とのキスには慣れた遥香だが、このように不意打ちでされるキスにはまだ慣れず、心臓がどきどきと高鳴った。
「遥香、かわいい」
赤くなった遥香を見て、気をよくしたらしい弘貴が、遥香の腰に腕を回して引き寄せる。抱き込まれた遥香は、そのままあっさりと唇を奪われてしまった。
チーズケーキとコーヒーの味のするキスは長くて、だんだんと息苦しくなってきた遥香が弘貴の腕をきゅっとつかむと、気づいた彼が唇を離す。
はふはふと肩で息をする遥香に「ごめん、ごめん」と反省した様子もなく謝ると、弘貴は遥香を膝の上に乗せて抱きしめた。
「ね、遥香。そろそろ、旅行行こうよ」
耳元でささやかれて、遥香はドキンとした。
――今度はちゃんと計画して泊まりの旅行に行こう? その時は―――、遥香の全部をもらうから。
ゴールデンウィークにそう言われたことを思い出したからだ。
「と、泊りですか?」
「泊りだよ」
赤い顔のまま戸惑ったように瞳を揺らす遥香に、弘貴は笑う。
「そろそろ、遥香をちょうだい」
関係をすすめたいのだと言われて、遥香はますます顔を赤く染め上げた。
弘貴の腕の中で硬直していると、弘貴が顔を覗き込んでくる。
「いや?」
ふるふると首を横に振る。
嫌ではないのだ。前につき合っていた男性の時のことを思い出してしまうだけだ。関係を持ってしまうと「都合のいい女」になって、そのうちに捨てられるのかもしれないと、怖いだけ。
(でも、弘貴さんなら、大丈夫よね……)
弘貴は遥香をすごく大切にしてくれている。甘やかされすぎて、戸惑ってしまうほどに。きっと、今も遥香が「嫌だ」と言えば、旅行の話はなしになるだろう。けれど、遥香の中にも、怖いけれど関係をすすめたいという気持ちもあったので、拒否する気にはならなかった。
「実はさ、行き先の候補はもうあるんだよね」
遥香をいったんソファの上に下ろして、弘貴が立ち上がる。私室まで行って、旅行雑誌を片手に戻ってきた。
「連休使って、二泊三日で行こうよ。ほら、見てここ。温泉があって、近くに海もあって、のんびりできそうじゃない?」
見せられた雑誌に載せられた旅館の内装は、趣があってとてもきれいだった。旅館の裏手の山で蛍が見られるとも書いてある。
「蛍がいるんですね、すごい」
「うん。蛍を見るには少し時期が遅いかもしれないけど、この次の連休で行くなら、多少なりとも、まだ見られるはずだよ。予約が取れれば、だけどね」
「わ、すごい! 蛍なんて小さいころ以来だから、見られたらいいな」
「じゃあ、ここでいい?」
「はい!」
旅行は緊張するけれど、楽しみの方が強くなって、遥香は笑って頷いた。
弘貴が雑誌をローテーブルの上において、遥香を再び膝にのせて抱きしめる。
「遥香」
呼ばれて弘貴を見上げれば、唇にキスが落ちた。
つき合う前はあれほど不安に思っていたのに、この二か月は、幸せすぎて
(大好き)
言葉では恥ずかしくてなかなか伝えられない遥香は、弘貴のキスを受け止めながら、心の中でそうつぶやいた。
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