4

 数々の花が咲き誇る温室の中で、リリー――遥香はリリックとともに午後のティータイムの時間をすごしていた。


 婚約者のいる身でありながら元婚約候補者と一緒にいることをクロードに見つかると咎められるだろうが、リリックに誘われて断れるほど遥香は強くない。


「ぼんやりしてるね」


 リリックに指摘されて、遥香はハッとした。


 ティーカップを持ったままぼーっとしていたようだ。


 最近はいつもこうだった。気づいたらぼーっとしている。原因もわかっているのだが、遥香にはどうしようもなかった。


 原因、それは、この前に姉コレットに連れられて参加した仮面舞踏会に他ならない。


 仮面舞踏会で、遥香とダンスを踊った金髪の男性――どこの誰かもわからない彼のことが、頭から離れないのだ。


 彼はとても優しかった。


 優しく、紳士的で、――また会いたいと、思ってしまう。


 遥香は婚約者がいる身だ。婚約者でない男性にときめいてしまったのは咎められることだろう。それでも、もう一度会いたいと思ってしまうことは、遥香にはどうすることもできない感情的な部分だった。


(忘れなきゃ……)


 あの時の気持ちは忘れてしまわなくてはいけない。そう思えば思うほどに強く思い出してしまうのだ。


「ごめんなさい、リリック兄様。昨日のアリスのお誕生日パーティーで疲れてしまったのかもしれないわ」


 真実は言えないので遥香はとっさに誤魔化したが、あながちそれも嘘ではない。


 昨日、アリスの十七歳の誕生日パーティーが催された。アリスの希望で、身内だけではなくアリスと仲のいい貴族の子弟や令嬢も呼ばれ、それなりに大がかりなパーティーだった。


 父や妃たちは半ばで席を立ったのだが、誕生日パーティーは遅くまで開かれ、最後の方はダンスパーティーのようになっていたのを思い出す。


 遥香は踊らなかったのだが、リリックはアリスに連れまわされて何曲も踊らされていた。


 そういえばクロードもいたが、彼も踊らなかったなと、遥香は今更不思議に思う。彼は遥香のそばにいたが、始終猫かぶりのにこやかな微笑みをたたえたままで、ダンスに誘われても、やんわりと断っていた。


 かわりに、頻繁に遥香に話しかけ、近くにいたコレットやスチュアートと談笑を楽しんでいたようだ。


 猫かぶりの時のクロードは優しいが、彼の本性を知っている遥香は、どう接していいものかわかりかねて戸惑ってしまう。


 結局、猫をかぶっているときも、そうでないときも、できるだけ近寄らないでほしいと思ってしまうのだった。


「ああ、あれね。アリスも派手好きだからね。結局三曲も続けてつきあわされて、僕も今日は少し疲れている気がするよ。もう踊らないって言ったら、わたしの相手はできないのかって怒り出すんだもんな。困った子だよ」


「ごめんなさい、兄様。アリスもきっと悪気があったわけじゃないはずよ」


「わかってるよ。僕は怒ってないから大丈夫」


 リリックはレモンを落とした紅茶を口に運び、穏やかに微笑んだ。


「楽しそうですね」


 そこへ、遥香とリリック以外の声が聞こえてきて、遥香は驚いて温室の入口に視線を投げた。


「クロード王子……」


 優雅な足取りでこちらへ向かってくるクロードの姿を見つけて、遥香はさーっと青くなる。リリックと二人でお茶を飲んでいたことを、きっとあとから責められるだろう。あのときのように、壁に追い込まれるのは怖かった。壁に追い込まれて無理やりキスをされて、遥香はとても怖かったのだ。


 リリックが立ち上がって会釈をする。


 遥香は立ち上がることができずにクロードを見上げていたが、彼は微笑むとこう言った。


「俺も混ぜてもらってもいいですか?」


 クロードと一緒にいることは気が進まなかったが、婚約者である彼を追い返すことはできない。遥香がリリックを見ると、彼は笑顔を浮かべて頷いた。


「ええ。もちろんですよ」


 そばにいた使用人にクロードの分のお茶を用意するように告げ、リリックは椅子に座りなおす。果たしてリリックとクロードに挟まれるような形となった遥香は、困りきって黙って紅茶に口をつけるしかできなかった。


 なんだか、クロードが来てから、リリックの笑顔も怖い。


 使用人がいる手前、この前のように「婚約者候補だった」などという問題発言はしないだろうが、それでもリリックの口から何が飛び出すのか、遥香は気が気ではなかった。薄々感じていることだが、どうも、リリックはクロードがあまり好きではないようなのだ。


「クロード王子はどうしてこちらへ?」


 遥香には怖く映る微笑みを浮かべたまま、リリックが訊ねた。


 クロードは紅茶に少しだけ蜂蜜を落として、ティースプーンでかき混ぜた。


「リリーを探していたのですよ」


「わたしを?」


 ぎくりと思わず肩を強張らせてしまった。


 クロードは体ごと遥香に視線を向けると、口の端を持ち上げた。


「国王陛下が、湖の近くにある別荘を進めてくださったんだ」


 城から馬車で一時間ほど行ったところに、王家所有の別荘がある。近くにきれいな湖があることから、所有する別荘の中でも「湖畔の別荘」と呼ばれて親しまれているところだ。おそらくそこのことを言っているのだろう。


「リリーと行っておいでと言われたから、君の都合を訊きに来たんだ」


 お父様も余計なことを言う、と遥香は心の中で毒づいた。遥香の都合を訊きに来たと言うが、断れるはずがない。ここで断った場合、おそらく父王に呼び出されて小言を言われるのは目に見えていた。


「この時期は緑がきれいだそうだね」


「ええ……。まだ少し寒いかもしれませんが、暖かくなったら、湖でボート遊びもできるんです」


 ティーカップに半分ほど残った紅茶を、無意味にティースプーンでかき混ぜながら遥香は答える。


「どうだろう、来週あたり行かないかな?」


 意地悪な表情を浮かべないクロードは、どこまでも王子様然とした好青年だ。


 遥香に、断るという選択肢は残されていない。


 仕方なく遥香が頷くと、リリックが口を挟んだ。


「僕も一緒に行ってもいいでしょうか?」


「え?」


 遥香は紅茶をかき混ぜていた手を止めて、驚いてリリックを見上げる。


「婚約しているとはいえ、未婚の、それも王女と隣国の王子が二人で出かけることをよく思わない重臣たちもいるので」


 やんわりと、しかし有無を言わさない口調でリリックが言えば、クロードは小さく肩をすくめて頷いた。


「ええ。そう言うことであれば、ご一緒に来ていただけるとありがたいですね」


 遥香の目の前で、クロードとリリックが微笑みあう。


(二人とも、なんだか怖いわ……)


 遥香は二人を交互に見やりながら、来週のことを考えて、頭が痛くなりそうだった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る