7

 弘貴と二人、少し薄暗い水族館の館内を歩く。


 数分おきにくしゃみをしている弘貴が気になって仕方がないが、意地でも帰らないと言うのだから仕方がない。


 イベントブースの「世界のクラゲ展」に足を踏み入れると、カラフルにライトアップされている水槽に、イルミネーションを見ているようで少し感動した。


「ほらほら、どう、クラゲ? 癒されない?」


 弘貴は楽しそうに目を輝かせて、青色のライトに照らされている筒形の水槽へ近寄っていく。


(……子供みたい)


 遥香は水槽に張りついて中を覗き込んでいる弘貴を見て、小さく笑った。


 会社で仕事をしているときの弘貴、少し強引な大人の男の人の顔を持った弘貴、そして、クラゲを見て子供のようにはしゃぐ弘貴――


 いろいろな顔を見せてくれる弘貴に、遥香は「まずいなぁ」と思う。


 好きにならないと決めたのに、油断していると好きになりそうになる。


(気をつけなきゃ……)


 弘貴の横に立って、ふよふよと水中を漂うお椀サイズのクラゲを観察する。確かに、不規則な動きでゆっくりと動き回るクラゲを見ていると、癒されるかもしれない。


「なんだか、いつまでもぼーっと見ていたくなりますね」


「でしょう? 俺、クラゲ飼いたいんだよね。でも、水の管理とか難しいって聞いてさ、諦めて水草にしたんだ」


「……水草?」


「うん」


「魚じゃなくて?」


「魚はいないなぁ。一メートルくらいの水槽に、水草だけ育てているんだ」


 何が楽しいのだろうか。遥香は疑問に思ったが、個人の趣味をとやかく言うのはよくないので黙っておいた。


 一緒に次の水槽に移りながら、くしゅん、とくしゃみをした弘貴を見上げる。心なしか、顔色が悪いような気もする。


「大丈夫ですか?」


「大丈夫だよ」


 水族館の中は比較的暖かいので、濡れたジャケットは手に持っているが、髪はまだ半乾きだし、きっとジャケットの下に着ていた紺色のシャツも湿っているはずだ。


 早く水族館を一周して家に帰した方がいいと思うのだが、弘貴はのんびりと水槽を見て回る。


 赤いライトで照らされた水槽の中を興味津々に覗き込む横顔を見つめて、遥香はこっそりとため息をついたのだった。



     ☆   ☆   ☆



 ゆっくりと時間をかけて水族館を回り、出口の売店にたどり着いたころには、弘貴の顔は真っ青になっていた。


 売店なんか飛ばしてかまわないのに、売店までゆっくりと見ていきたい弘貴は、真っ青な顔で商品を見て回っている。


 遥香はおろおろしながら弘貴を見上げた。


「もう帰りましょう。本当に、体調悪くなっちゃうから……」


 すでに体調は悪そうなのだが、弘貴は頑として首を振った。


「もうちょっと。あ、みて、このイルカのキーホルダー可愛いね」


(……子供)


 遥香は改めてそう思った。三歳も年上なのだが、今日の弘貴は弟を見ているような気になる。


 真っ白いイルカの、小さなぬいぐるみのついたキーホルダーを持ってきて、それが気に入ったのだろう、弘貴はそのキーホルダーを二個カゴの中に入れた。


 そのあとも、アザラシの顔の絵が描かれているクッキーだったり、クラゲの絵葉書だったり、と次々かごに入れていく。さすがに抱きかかえて歩くほどの大きなぬいぐるみを手に取ったときは、遥香は慌てて止めに入ったが、結果、水族館の売店で一万円を超える買い物をした弘貴に、遥香は少しあきれた。


「はい、プレゼント」


「え?」


 買い物した中から、二個あるうちのイルカのキーホルダーの一つと、クラゲの絵葉書を抜き取り、あとに残ったものすべてを弘貴は遥香に押し付けてくる。


 ファンシーな海の生き物の絵が描かれた袋を開ければ、キーホルダーやお菓子、二十センチ大ほどのシャチのぬいぐるみや、遥香が密かに気になって見つめていたペンギンの絵柄のハンカチまで入っている。


「今日つきあってくれたお礼。これはお揃いだけど、これくらいいいよね?」


 そう言って、イルカのキーホルダーを揺らして見せてくる。


「そんな……。こんなにたくさん、受け取れません!」


「えー。でも、受け取ってくれないと、返品することになっちゃうから」


「じゃあ、誰かほかに……」


「水族館行きましたって、社内の人に配るの? 誰と行ったのって訊かれると思うなぁ」


 にやっと笑って告げる弘貴に、遥香はぐっと押し黙った。


「もらってね」


 押し切られるまま弘貴からのプレゼントを受け取った遥香は、買い物袋を腕に抱えて、小声で「ありがとうございます」とお礼を言った。プレゼントは嫌ではなかったのだ。むしろ、嬉しい。ただ、申し訳ないのと恥ずかしいのとで、素直に受け取れなかっただけで。


 家族でない誰かに――異性に、こんな風にプレゼントをもらったのははじめてだったから。


 水族館を出ると、夕方の六時すぎだった。


「夕ご飯、どうする?」


 当然のように訊いてきた弘貴に遥香は唖然とする。


「何言ってるんですか。顔色悪いです! これ以上はダメです」


「……どうしてもだめかな」


「だめです」


 きっぱり告げると、弘貴が肩を落とす。


 濡れたジャケットを羽織り、コンビニで買ったビニール傘を差して歩く弘貴の顔色は、冗談ではなく血の気がない。相変わらずくしゃみはしているし、無意識だろうが、時折腕をさするような動作をしているから、寒気もしているはずだ。


「まあ、水族館つき合ってくれたし、今日は帰るよ」


「はい。帰って、着替えて温かくしてくださいね」


「うん。……はは、なんか彼女に心配されてるみたいで、こういうの、ちょっといいなぁ」


「な、何を言ってるんですかっ」


 遥香はかぁっと顔を赤く染めると、傘を持ち直して顔を隠した。


「また、つきあってくれる?」


「それは……」


「つきあってくれないなら、やっぱり夕飯―――」


「わかりました!」


 顔色の悪い弘貴をこれ以上つきあわせないため、と心の中で言い訳しつつ頷けば、くすくすと笑い声が聞こえて、遥香は彼を見上げた。


 楽しそうに笑っている弘貴に、遥香は口をとがらせる。


「もしかして、からかってます?」


「違うよ。こういう言い合いも楽しいなって思っただけ」


 弘貴の笑顔を見ながら、遥香は、弘貴にとって、自分のどこが良いんだろうと考える。特別何かが秀でているわけでもない、平々凡々な派遣社員だ。一方弘貴は、仕事ができて、イケメンで優しくて――きっと、恐ろしくモテるだろう。


 訊いてみたくなったが、訊いたらなんだか後戻りできなくなる気がして、遥香は口を閉ざした。


 顔色の悪い弘貴が心配だったので、駅前のマンションまで送り届けることにした遥香は、到着したマンションのエントランスで茫然と立ち尽くした。


 ピカピカのエントランス。奥にはコンシェルジュがいて、広いエントランス内には高そうなソファが点在している。


 入ったことはないが、噂で聞いたことがある、最上階は軽く億は超える、恐ろしく高い高層マンションだ。


 たしか、マンションの住民用に、スポーツジムと温泉、上の階には夜景の見えるバーもあるはずである。


(……うそぉ)


 藤倉商事は、一社員用の社宅に、これほど高いマンションを差し出すほど羽振りがよかっただろうか。


「秋月さん、どうかした?」


 エントランスで固まってしまった遥香に、弘貴が不思議そうに声をかける。


 その声でハッとした遥香は、ぎこちなく弘貴を見上げた。


「……ここが、八城係長のお家ですか」


「うん。ここの十二階の端の部屋ね」


 部屋の場所は訊いていないが、どうやら間違いなくここに住んでいるらしい。


「あ、びっくりした? なんかさ、このマンションの部屋、会長が税金対策で何部屋か購入してるんだって。その一室を貸してもらえたんだ」


 つまり、会長の個人所有の部屋を、一社員である弘貴が使っているということだ。そんなことってあるだろうか。社長を通り越して会長。ありえない。


(……この人、何者?)


 確か、坂上の話だと、おいおい経営陣へ引き抜かれるのではないかという話だった。つまり、会長にまで目をかけてもらっているということだろうか。


 突然、弘貴が雲の上の人のような気がしてきた。


「あがっていく?」


 当たり前のように訊いてくる弘貴に、遥香は勢いよく首を横に振ると、目的は果たした、と弘貴に背を向けた。


「じゃあ、わたしは帰りますから、ちゃんと着替えて、風邪に気をつけてくださいね!」


「うん。今日はありがとう」


「……わたしも、お土産まで、ありがとうございました」


 遥香はぺこりと頭を下げると、マンションを出て、家路についた。


 弘貴の青い顔が脳裏にちらちらと浮かび、心配になるが、遥香が心配したところでどうしようもない。


 家に帰ると、遥香は弘貴からプレゼントされたシャチのぬいぐるみを取り出して、ベッドの枕元においた。


「―――楽しかった、んだよね」


 ベッドにうつぶせに寝転がり、シャチの頭をちょんと指先でつつく。


「やばいなぁ……」


 好きにはならない。


 そう決めているのに、惹かれかけている。


「信じていいのかな……。ねえ、どう思う?」


 話しかけるが、もちろんぬいぐるみが答えるはずもなく。


「……風邪、引いていないといいな」


 ぽつんとつぶやいて、遥香はシャチのぬいぐるみを抱きしめた。

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