54話 英雄たち(中)
「アレクサンドル! 今行くわ!」
上空から聞こえた、あまりにも場違いな幼い少女の叫び声。
それはサシャの幻聴か、それともただの人違いか。ここは奈落の先兵ひしめく戦地の真っただ中だし、少なくともサシャはアレクサンドルなどと呼ばれたことはない。とはいえ、アレクサンドルらしき他の人影はもちろんないのだが。
「アレクサンドル! 少しだけ待ってて!」
執拗な死蟲の攻撃をいなしつつも背後の空をちらりと見上げれば、猛烈な速度で飛来してくるものがひとつ――いや、一人。いや、子供。
人系種族は持ち得ないはずの翼を備えた、その少女。
そんなものを持つ種族があることすら、サシャはザヴジェルに来るまで知らなかった。
「奈落の蟲どもめええええ!」
子供といっても通用する華奢な体格に片翼二メートル弱、差し渡し四メートルほどの漆黒の翼を猛然と羽ばたかせたその人物が、高速のまま飛行蟲の大群に突っ込んでいく。
サシャが知る由もないことだが、彼女が燦然とふりかざしているのは天下に名高き無双の天人爪、ウィローネイル。
十の指先のそれぞれから、広げた翼と同じ長さにまで柳の枝のような鮮烈な青光が伸びている。それは悪名高きヴァンパイアが持つ殺戮手段、ヴァンパイアネイルの完全上位互換となる代物だ。
触れたものを空間ごと切り裂くという、ある種究極の破壊武装であるそれら。
彼女が持つものは二十センチに満たないというインファイト専門のヴァンパイアネイルとは異なり、近寄るもの全てをその長いリーチで細切れにしてしまう。
――ちょうど今、高速で突入した飛行蟲の大群を、近づく端から切り裂いているように。
剣も魔法も効かないと言われた奈落の先兵。
空を昏くするほどに密集した、千を超えるであろう飛行蟲がわずか一匹の例外もなく。
五本二対の青い閃光を煌めかせた彼女が高速で通過した途端、細切れの残骸となってばらばらと墜落していくのだ。
「これってまさか、天人族……?」
そのあまりの戦闘力に、サシャの口から思わず零れたその子供の種族名。
シルヴィエからちらほらと聞いてはいた。
この大陸で唯一、翼を持つ人系種族。かつてのカラミタ禍の英雄であり、今は種族の最後の一人しか残っていないという天人族。その最後の一人がシルヴィエの憧れの人物であり、心の師であるという話だった。
あとは、ザヴジェルにおける対奈落の最重要戦力と見做されている、とかなんとかヴィオラが口にしていたようにも思う。
サシャはそれがまさかあそこまで幼い外見をした子供だとは思ってもいなかったが、たしかイグナーツも彼女のことを、畏敬を込めて「天空の支配者」などと表現していたような記憶がある。
頭上で行われているあの圧倒的な蹂躙劇を見れば、それら全てがさもありなんと、心から頷けてしまうサシャだった。
……あと、月姫、とかっても呼ばれてたっけ。
先ほど彼女が通過していく刹那、確かに彼女と目が合ったとサシャは思う。
オットーの娘ユリエより確実に幼い、七歳か八歳ぐらいにしか見えない外見。けれども絶対にその見た目どおりの年齢の少女ではなかった。
風にはためく艶やかな黒絹の髪と、病的なまでに白く透きとおった肌。そして一度見たら絶対に忘れられそうにない、怖いぐらいに澄みきったアイスブルーの瞳。
ヴァンパイアを闇の帝王とするならば、彼女はたしかに月姫という呼称が似合う、まさに夜の姫君ともいえる存在だった。その綺麗な瞳がサシャに何か強烈な感情を訴えかけてきていた気もするが、それが何かは分からない。
何はともあれ、今、サシャがやらなければいけないことは。
「……今のうちに、この場をなんとかしないと!」
サシャが呆気にとられている間に、周囲はぐるりと死蟲に取り囲まれている。
アレクサンドルが誰かは知らないが、絶対に人違いである。そのアレクサンドルを助けに来たらしき天人族の彼女が、そのことに気づいてしまったら。
「――この場を見捨てて! どこかに行っちゃうことは! ないとは思うけど!」
死蟲の海に敢然と斬り込み、目まぐるしく双剣を振るって活路を創出していくサシャ。
近くでそれを見る者がいれば、その双剣がまとう青い聖光と、上空の月姫が縦横無尽に振るうウィローネイルの鮮烈な青い軌跡、その色がそっくり同じことに気づくかもしれない。
けれども、この場にそんな者がいるはずもなく。
地上と上空、二人の壮絶な戦いは、あれだけいた上空の飛行蟲を月姫が遂に駆逐し尽くすまで続いたのであった。
◇
「よく頑張ったわ、アレクサンドル! お姉ちゃんは色んな感動で胸が一杯よ!」
「…………」
上空の飛行蟲を蹂躙した月姫が、地上のサシャの増援に降りてきて。
彼女の無双のウィローネイルは地上の死蟲にも俄然有効で、瞬く間に周囲の死蟲は細切れの残骸となり果てて、それから。
「ねえアレクサンドル、貴方の顔をよく見せて! ああ、父さん譲りのこの黒い髪と、母さん譲りのこの瞳! うう、二人が見たら何て言うか……父さん……母さん……」
サシャはそんな月姫に唐突に抱きつかれ、目を白黒させていた。
自分の胸までもない初対面の子供が自らのことをお姉ちゃんと豪語し、更には抱きつかれた上でサシャの顔を見て涙ぐみ始めたこの状況。
「……え、ええと、さすがに人違いじゃないかなー、なんて」
「な、なんてことを言うの!? 貴方を間違える訳がないじゃない! 私、貴方を赤ちゃんの時に抱っこしたことがあるのに……それはすぐに迎えに行けなくて申し訳ないと思っているけど……そんな、うううう」
恐るおそるサシャが人違いを指摘してみれば、まさかのボロ泣きである。
一体どうすればいいのか。泣きたいのはサシャも同じだ。けれどもここでサシャまで泣いてしまうと状況の混沌ぶりが天元突破してしまう。サシャは大人ごころで少女の涙を拭って、優しく微笑みかけた。
「ええと? その、助けてくれたのには感謝してるからね? ありがとう。あと、こんなところにずっといるのも何だし、今がみんなのところに戻るチャンスなんじゃないかなー、なんて」
「アレ、アレクサンドルが、わだっ、わだしに他人行儀……うわあああん」
もはや末期である。
サシャは言葉による意思疎通を諦めかけたところで、カラミタ禍の英雄と推定される少女はようやく落ち着きを取り戻した。
「……ご、ごめんねアレクサンドル。お姉ちゃん、ようやく貴方に会えて色んなものが込み上げてきちゃって」
「あー、それはまあ、いいんだけど」
「そうそう、私のことはダーシャって呼んで。家族なのよ、私たち」
「家族……なのかなあ?」
微妙に首を傾げるサシャだが、ダーシャと名乗った子供はそこで気持ちを切り替えたようだ。英雄と呼ばれるだけの毅然さをもって、周囲の焦土を鋭く見渡した。
「このままたくさんお話をしたいところだけど、そうね、のんびりもしていられないわ。この場はまあいいとして、今、境壁の救援にはフーゴおじさんが仲間たちと向かっているの。そっちはまだ到着までに時間がかかると思うから、アレクサンドル、今から一緒に向かえる? 大丈夫?」
澄みきったアイスブルーの瞳で気遣わしげに見つめられるサシャだが、正直なところ体力的にも泉の残量的にも、かなり厳しいのは事実だ。けれどもここで弱音を吐いている場合ではない。力強く「もちろん!」と頷いて、翼を持つダーシャと共に走り出した。
「ごめんねアレクサンドル、昔みたいにお姉ちゃんが貴方を抱っこして飛べればいいんだけど……」
「あ、赤ちゃんじゃないだから自分で走れるって……それにこっちの方がどうみても大人だし」
「でも貴方、だいぶ青の力を使っちゃってるでしょ。源泉が枯渇しかけているじゃない。まあ、それでもそれだけの量が残っているのは驚きでしかないんだけど――」
サシャが最後に呟いたひと言を華麗に無視したダーシャはそこで一旦言葉を止め、背中の翼を羽ばたかせて一気に加速した。
そして地を這うように鋭く滑空し、前方を塞ぐ死蟲の群れを瞬く間に無力化していく。
置き去りにされたサシャはその出鱈目な強さに舌を巻きつつも、その前の言葉、自分の体内の泉を見透かしているらしき発言に激しく動揺していた。青の泉のことはこれまで誰にも話したことはなかったし、話したとしても誰も理解できないと思っていたのだ。
「――お待たせ。とりあえず余計なものはお姉ちゃんが片付けるから、アレクサンドルは走ることに専念して」
進路上の死蟲を圧倒的戦力で排除し、翼を広げて華麗な宙返りをして戻ってきた月姫がそうサシャに微笑みかけてきた。とん、と軽やかに着地し、サシャのペースで並走しながら、である。
「ええと、あの、なんで枯渇しかけてるって……」
「お話はあとで、ね。今は力の温存が大切。早く皆のところに戻りたいでしょう?」
質問を遮るようにそう言われてしまえば、サシャとしては従うしかない。
皆のいる境壁を目指し、口をつぐんで黙々と走っていく。
「――ねえアレクサンドル。もしかして貴方、【ゾーン】って使えたりする?」
何度目かの前方制圧からサシャの元へと戻ってきたダーシャが、ふとそんなことを尋ねてきた。
「ゾーンて、言われても、何のことだか」
いよいよ残りの体力も怪しくなってきたサシャは、苦しい呼吸の間から言葉を絞り出すように答える。ダーシャはそんなサシャを心配そうに眺め、小さくため息を零した。
「そうよね、いきなりそんなこと言われてもだし、使えてたらこれまでにも使ってるもんね。……【ゾーン】ていうのはね、父さんの得意能力のひとつなの。私も少しなら使えるし、もしかしたら貴方も使えたりしないかな、なんて思って」
「そんな、無茶な、そもそも、父さんて、誰」
「……そうよね。貴方きっと、父さんの顔も覚えていないのよね」
寂しそうに俯いてしまったダーシャだが、それでも敏感に前方の死蟲を察知し、無言のまま飛び立っていった。そうして戻ってきて、再びサシャに話しかけた。
「あのね、私がこっちに来る時に境壁の様子も見てきたんだけど、ほんのちょっとその【ゾーン】の気配があったのよね。それで、もしかしたらアレクサンドルが、なんて思っちゃって」
「ごめん、さっきはちょっと、言葉選び、間違えた……でも、やっぱり何のことだか、さっぱり」
「ふふ、アレクサンドルは優しいのね。【ゾーン】はね、領域化、と表現すれば分かりやすいかしら。周辺一帯を自分の領域にしてしまうの」
ふわりと微笑んだダーシャが追加の説明をしてくれたが、サシャはますます意味が分からなくなっただけである。周辺一帯を自分の領域にするとか、領主さまにでもなる能力なのかとしか連想できない。
境壁にその【ゾーン】なるものの気配があったと言われても、あの場にいた一番偉い人はたぶん騎士ヘルベルトだし、あの人は絶対にそんなことをする人ではない。もちろんサシャも同様である。
「ふふふ、自分の領域にといっても、世俗的なものではないわ。空間的な支配権というか、その領域で起こることを見なくても把握できたり、そこで失われた他者の命の欠片を自らのものとしてちょっぴり吸収できたり、そんな感じね」
「うわ、他人の命とか、なんか、物騒な響きに、聞こえるんだけど……」
「ううん、そんな酷いものではないわ。領域内のものを勝手に殺したり傷つけたりとは全然できなくて、精々が物の表面を撫でれるくらいよ。ただその中で死んだ生物の力を、少しお裾分けしてもらえるってだけ。あとひとつちょっと凄い力があるのが最近分かったんだけど、それは後のお楽しみね」
「えええ……全然想像、できない」
「うーん、そうねえ。身近な例でいえば、ラビリンスがやっているのがまさにそれなんだけど」
そんな爆弾発言をさらりと残し、月姫は再び死蟲の駆除に跳び立っていった。
残されたサシャはなんとかペースを守って走りつつも、頭の中は大混乱だ。確かに以前シルヴィエに、ラビリンスは生き物だという説がある、そんな話をしてもらった覚えはある。
だが、ダーシャがこうして話してくれていることは、全てにおいてそんなサシャの知識の遥か上を前提としているような、そんな状態なのだ。戦闘能力といい、知識といい、軽々しく相手取れるような存在では全くなかった。見た目は七歳か八歳ぐらいの子供でしかないのに、さすがは英雄と称えられる人物ということなのだろう。
「ええと、ちょっと話が逸れちゃったけどね」
前方で凄まじいばかりの殺戮劇を繰り広げたダーシャが軽やかに飛び戻ってきて、何事もなかったかのように話を再開させる。
「アレクサンドルがもしそんな【ゾーン】を使えるんだったら、体力だって少しは回復するし、今の源泉の枯渇状態もすぐに抜けられるのにね――辛そうだったから、そんな話をしたかったの」
「そ、そ、それ!」
思わず足を止めて叫んでしまったサシャ。
無理もない。眼前の英雄がため息まじりに言ったことは、まさに今のサシャにどんぴしゃりで必要なもの。しかも今後を考えても、体内の泉を魔獣の血を飲まずとも補充できるという、天佑のごとき画期的な方法に他ならないのだから。
……ちなみにダーシャからしてみれば、先ほどは曖昧になって追求しきっていなかったサシャの体内にある源泉の存在、それを認めたに等しいサシャの反応であった。
「あらら、うふふふふ。……でも今使えないってことは、すぐには無理だわ。あれは最初の感覚を掴むのが大変なの。私だってその初めの一歩に五十年かかったんだから」
「ご、ごじゅうねん」
「そうよ、それでもとびきり早い方なのよ。父さんにも褒められたんだから、うふふふふ」
サシャと共に足を止めたダーシャが幼い胸を逸らせて何だか自慢げだが、サシャが動揺したのはそこではない。目の前の少女が見た目どおりの年齢でないことを、改めて突きつけられたからだ。
「うふふ、後でお姉ちゃんがババーンってお手本を見せてあげるからね。でもアレクサンドル、今はもうちょっと頑張って走って」
「そ、そうだった。こうしちゃいられないんだった。行こう!」
「そうね、出来るだけ早く戻っておきましょ。さっきチラって見た境壁の戦況はだいぶ落ち着いていたようだけど、あれから状況がどう変わっているか分からないし」
そうして再び走り始める二人。
少し休んだお陰で、サシャの足はかなり動くようになっている。自称“お姉ちゃん”が圧倒的殲滅力で完璧な露払いをしてくれていることもあるが、随分と快調なペースで進めるようになった。
この分ならもうじき皆のいる境壁が見えてくるはず、サシャはそうも思うのだが。
が。
そうやって快調なペースで走れば走るほど、嫌な予感がサシャの意識の奥でむくむくと頭をもたげ始めているのだ。
空飛ぶダーシャが通りすがりに見た時は、境壁の戦況は落ち着いていた――それはいい。おそらくその時は、無数の奈落の先兵がまだサシャへと殺到していたタイミングだと思われるからだ。
けれども。
こうしてその天人族の英雄と帰還の途上にある今。
ふと気づけば、襲いかかってくる死蟲の数自体がさっきよりかなり少ないように思うのだ。
それが、ついに死蟲が壊滅しつつある、ということなら問題ない。
だが、それは圧倒的強者の助勢を得たサシャに殺到するのを止めただけ。その代わりに、攻撃の主力を別の弱いところに向けた、ということなら――
……みんな、大丈夫だよね?
境壁へ帰投するサシャの足は、いつしか全力疾走となっていた。
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