32話 温かな食事と不穏な噂(後)

「落ち着いてくれヘレナ、そしてユリエも」


 蒼白な顔で立ち上がった二人に、オットーがいつもどおりの柔かい微笑みで語りかけた。


「今のは私の憶測にすぎないし、もしそのとおりだったとしても、領境を防衛すべき騎士団が出陣準備すら始めていないのだ。今の段階では危険はないとみて間違いないだろう」


 そんなオットーの発言に、厳しい表情となったシルヴィエも小さい頷きを見せる。


「……そこはオットーの言うとおりだな。危険があればザヴジェル騎士団は真っ先に駆けつける。そういった動きがないのであれば、少なくともこのザヴジェル独立領内には危険はない。確かにそこはそのとおりだ」

「私がこれを家族であるお前たちにも話したのは、ザヴジェル商人たるもの常に最先端の情勢を把握していてほしいということと、慌てる必要はないが心積もりだけはしておいてほしかったからだ」


 噛んで含めるようなオットーの口調が、それに真剣に耳を傾けるヘレナとユリエのこわばりを劇的に溶かしていく。


「繰り返すが現状に危険はないと思っている。むしろ商機だと前向きに捉え、日々努めてもらえればありがたい」

「……分かりましたわ、あなた」

「……はい、お父さん」


 シルヴィエの擁護もあって家族を落ち着かせることに成功したオットーが、ということなのですが、と次はサシャとシルヴィエに視線を向けた。


 サシャは今の「家の柱石たる父親と、それに深い信頼を寄せる家族」という光景を見て軽い感動を覚えていたが、慌てて意識を奈落に戻した。


 奈落がこんな大陸の北端にまで迫ってきているとは考えたくもないが、そんな話があるのならもっと情報を集めなければならない、そう実感したからだ。


 そしてそれはシルヴィエも同じだったようで、サシャと一度目配せを交わしてからゆっくりと口を開いた。


「オットー、明日我々も何ヶ所か動いてみよう。元々ユニオンと<幻灯狐>、<連撃の戦矛>にはサシャを連れて顔を出そうと思っていたのだ」

「むむ? ユニオンは分かるのですが、<幻灯狐>と<連撃の戦矛>ですか……?」

「そうか、話しそびれていたな。昼間にユニオンで魔狂い騒ぎがあってな、そこでサシャの癒しが注目されて勧誘を受けているのだ。それぞれクランマスター直々にな」

「なんと……!」


 オットーがそのつぶらな瞳をこれでもかと見開き、加えてヘレナとユリエも一様に目を見開いている。


「サシャさん、あなた……!」

「えええー、すごいっ!」


 ザヴジェルに来たばかりのサシャには今ひとつ理解できていないが、<幻灯狐>も<連撃の戦矛>もこの迷宮都市ファルタでハンター系のトップをひた走る大御所クランである。ファルタ生え抜きの住人にとってはやはり、そこにいきなり知り合いがスカウトされるということはそれだけ驚くことなのだ。


 ……ある意味、今ひとつ現実味の薄い奈落の衝撃を忘れさせるぐらいには。


「まあクラン入りに対するサシャの結論はさておいてな。先ほど、<密緑の迷宮>前で見ず知らずの相手にサシャが直接癒しを求められたことは話しただろう?」

「あ。ええと、金貨一枚という価格設定を打ち立てた、というお話でしたね」

「そう。その価格設定について、両クランには出来るだけ早く話を通しておいた方が良いと思っていてな。ユニオンのファルタ支部に改めて通達にも行くが、その前にな」


 なるほど、確かにあの人たちには言っておいた方がいいよね、とサシャも頷いている。

 けして、ちょっと大げさすぎるユリエたちの反応から逃避したいなあ、などと考えている訳ではない。


 実際問題として、サシャ自身は金貨一枚という設定が高すぎるという思いが未だに消せないのだ。あの二人までもが問題ないと言えばさすがに自信もつく。クラン入りについても正直に今の自分の心境を話せば、どうなるにしても変にこじれることは避けられるはずだ。


「で、それぞれのクランでオルガとバルトロメイに、奈落――もしくは、品薄になっている魔鉱石の話を聞いてみよう。ユニオン副支部長のラドヴァンにも同様だな」

「おお、それは助かります。なんとも錚々たる顔触れですな。商人にはない耳をお持ちの方ばかりです」

「そして――」


 淡々と話を進めてきたシルヴィエが、ここでサシャを一瞥した。これまでのところでサシャに反対がなさそうなことを確認したのだ。そして、再びオットーに視線を据える。


「――そしてこの際だから、癒しの価格設定に関して領主にも話を通してしまおう、とも考えているのだが、オットーはどう思う?」

「り、領主様ですか。確かにザヴジェル家が領内の安定のため、格安でポーションを製造販売しているのは有名な話ですが……」

「そう、そこに優秀な神の癒しの使い手が出現したのだ。<連撃の戦矛>のバルトロメイ直々に熱烈勧誘するほどの、な」


 シルヴィエに再びそこでちらりと見られたサシャは、正直やめてくれ、と心底思った。


 きらきらと輝き続けるユリエの眼差しが痛い。大人たちの話の陰で、さっきまで無言でロールキャベツを奪い合っていた侮りがたい好敵手だったはずなのだが、なんだか今は皿ごとこちらに差し出してきそうである。それはそれでやり辛いし、ちょっと寂しい気がするサシャであった。


 と、そんなことを頭によぎらせた抗議の眼差しが届いたのか、シルヴィエのサシャ談義は一旦終焉を迎え、次のステップへと移り始めた。


「――という感じでまあ、戦局を左右する、とまで彼に言わせたサシャの癒しだ。奈落の話が本当であれば、戦いの準備を進めている領主も俄然興味を持ってくるのではないか? そしてズメイの魔鉱石の持ち主でもある。この二つを絡めれば」

「なるほど。そしてその際の反応で、より確度の高い情報を得る、と。一石三鳥ですな。サシャさんの癒しの公的な認可を得つつ、魔鉱石をザヴジェル随一の資産家に売りつけつつ、キナ臭い情勢にも探りを入れられる、と。いや、サシャさん自身を領主様や騎士団上層部に売り込む機会と考えれば、一石四鳥になりますか。問題は、その謁見が実現可能かどうかですが――」


 オットーは腕組みをして、ふうむ、と考え込んだ。


「……話の持って行き方にもよりますが、実現の可能は充分ありそうに思えます。謁見の際はシルヴィエさんにもご同行いただいても宜しいですかな? かの<青槍のフーゴ>は代々のザヴジェル本家と縁の深いお方、その血縁者が一緒ともなれば話の進み方も随分と違ってきますので」

「それは構わない。というか、そんな謁見の場などという貴族連中の只中に、このサシャひとりで行かせる方が無茶な話だ」


 え、ちょっとそれはないんじゃ、とサシャが言いかけたが、考えてみればそのとおりだった。なにせサシャの知る礼儀作法とは、明るくニコニコ元気よく、だけである。貴族の貴族による貴族のための複雑怪奇な礼法などは全然知らないのだ。


 謁見の場とやらで、レースを多用したひらひらの服を着て口元に扇をあて、ウフフフフと意味ありげに笑う自分を思わず想像して、サシャは全力でシルヴィエに同意した。それはいろんな意味で、確かに無茶だと。


「――ねえあなた、これは私の思い違いかもしれないのですが」


 また会話に参加するチャンスを逃したサシャをよそに、ヘレナが何事もなかったかのように話に戻ってきた。


「先ほどシルヴィエさんは、<幻灯狐>に行くとおっしゃっていましたでしょう? 記憶違いでなければ、今あそこにはザヴジェル本家の姫君が修業にいらしているのでは?」

「む? そうなのか?」

「たしかゴシップ好きの奥方様たちが、一時そんな噂をしていたような」


 ヘレナが言うのは、少し前に婦人層に広まった市井の噂のことだ。


 この独立領を治めるザヴジェル家は尚武の家柄。かのカラミタ禍で殊勲の活躍をした女傑、<姫将軍>ことアマーリエ=ザヴジェルから連綿と続く伝統によれば、ザヴジェル家に生まれた姫ならばこそ、より一層の武芸を要求されるという。


 自分の身だけでなく周囲も守れるように、勇武で名高いザヴジェル騎士団の範となれるように、ザヴジェル家に生まれた女性は日々、男性以上に厳しい修練に明け暮れているのだ。


 そして、先日。

 まさにそのアマーリエ=ザヴジェルの直系の玄孫にあたるザヴジェル本家の姫君が、この迷宮都市に武を磨きに来たという。なんでもクラールの啓示を授かったとかで、ファルタで更なる研鑽を積めば真の運命に出会えるのだとか。


 普段はあまり浮いた話のない領主一族から聞こえてきたそんなロマンチックな話に、ファルタの婦人層はしばらく大いに盛り上がっていたのだ。


 あまりゴシップには興味のないヘレナは付き合い程度に耳を傾けていただけだったが、たしか姫君の受け入れ先は、メンバーの大半を実力確かな女性魔法使いが占める超一流クラン、ラビリンス討伐の実績を持つ<幻灯狐>に決まったとかで――


「お二人はせっかくその<幻灯狐>に縁があるのですから、その姫君にもお声をかけてみてはいかがでしょう? 現領主様の姪にあたる姫君で、ご本人はファルタで真面目に魔法の鍛錬に励んでいるようですよ。何より領主様に大層可愛がられている御方とのこと、もしその姫君の興味を引くことができ、今回の謁見に多少なりとも口添えしてもらえれば」


 そんなところに願ってもいない伝手が転がっていたとは、とオットーが妻のヘレナを賞賛の眼差して見詰めている。が、シルヴィエとサシャにあまり喜ぶ様子はない。


 それぞれ気乗りしない理由があり、サシャは魔法使いにあまり近寄りたくないという事情で、シルヴィエは元来人見知りなのと、ザヴジェル本家の人間など父のフーゴに連れられて挨拶に行ったきりでほとんど覚えていないからだ。


「……面識があるか正直自信はないが、話してみるだけなら損はないか」

「ふふ、シルヴィエさんならきっとご友人としても気が合いますよ? 同じように武を磨きに修業に出ている由緒正しい血筋の姫君で、ご実家同士の仲もよろしいんですもの」

「…………私は姫君でも何でもないが、どんな鍛錬をしているかなどの話を交換してみるのは悪くないのかもしれないな」

「ええ、是非。噂によるとヴィオラ様とおっしゃる方で、剣も魔法も一流の腕前をお持ちだとか」

「――ほう?」


 サシャは、そこでシルヴィエの目がきらりと光ったのを見た。

 サシャは知っている。同志シルヴィエが世話好きの可愛いもの好きというだけでなく、その前に根っからの武人であることを。


 サシャは魔法が神がかり的に不得手だが、剣も魔法も一流とは実に珍しい人材であることぐらいは分かる。どちらも血の滲むような修練を必要とし、両方の分野でそういった評判が立つのは才能と努力が高い境地で両立されている証だからだ。


「ふむ、なかなかに興味深い御仁のようだ。サシャ、明日は一番で<幻灯狐>に行ってみるぞ」


 案の定、シルヴィエはその類稀な姫君にころりと興味を示した。

 が、サシャには<幻灯狐>という魔法使いの集団にはあまり行きたくない。ようやく巡ってきた会話に参加するチャンスだったが、ついつい否定的な口ぶりになってしまう。


「え、んーと、オルガさんのところは二番目ぐらいにしない? 先にユニオンに行って、カーヴィの登録の具合をラドヴァンさんに確認してからにしようよ。朝から大勢の魔法使いの中に入っていくとか、ちょっと具合悪くなりそうなんだけど」

「何を訳の分からないことを。先にオルガとバルトロメイに話を通してからでないと、場合によっては二度手間になるだろうに。それにそのカーヴィのことも含め、お前のことを相談するにはオルガが一番だ。あれほど面倒見が良くて頼りになる存在はいないぞ」

「そ、それはそうかもしれないけど――」



 ――でも、具合悪くなるのはきっと本当だよ?



 そんな言葉を思わず呑み込んだサシャ。

 それは自分の我が儘のように聞こえるだろうし、何よりここまで色々と世話を焼いてくれるシルヴィエに、まだ秘密にしていることがあることを思い出してしまったからだ。


「……サシャ、何かあるのか?」

「ななな、何でもない!」


 打ち明けるには未だ勇気が足らず、思わず勢いよく顔を左右に振って否定してしまうサシャ。


 いつかは打ち明けるつもりでいるのは嘘ではない。嘘ではないが、この温かな家族の前で自分が嫌われ者のヴァンパイアの仲間かもしれない、そう暴露する勇気はもっとなかった。


 とりあえずこの場は、明日に備えるために――




「い、いただきます!」




 目の前に残っていた、最後のロールキャベツに手を伸ばすサシャであった。


 ……ずっと気にはなっていた最後の一切れ。


 それをどのタイミングで自分のものとするかずっと機会を窺っていたのもまた、嘘ではないのだから。


 ユリエが「あっ」と小さな声を漏らしたような気がしたが、サシャは心を鬼にして譲らない。明日への鋭気を養うため、ロールキャベツが必要なのだ。そして口に広がる幸せな味わい――サシャの鋭気は間違いなく、十二分に蓄積されていく。


 それは結果的に必要な事だったといえる。


 なぜならば明日、彼が出会う姫君は只者ではないからだ。




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