第五十七話
蒸気に包まれた霧の中、誉は紙に書かれた場所を目指して歩いていた。
そこは、大阪城の南側。外堀の向こうにある小高い山。茶臼山と呼ばれるその場所は、250年前、江戸幕府を開いた徳川家康が、豊臣一族との最後の決戦に臨んだ際、陣を引いたと伝えられる場所。
その山の麓で、誉は歩みを止め、虚ろな視線を暗闇に包まれた山道に向けた。
「よう、待ってたぜ」
暗闇の中から聞こえてきた声に、誉は首を横に向ける。
すると、木立の後ろから一人の青年が現れた。
「あんたなら、来ると思ってたよ」
ニヤニヤと、吟味するようにシュウタは誉を爪先から頭のてっぺんまで見つめる。
「別に、もうどうでもよくなっただけだよ…こんな街を護る理由が、私にはもうないから」
「それで、今まで護ってきた街を混乱に陥れる手伝いを申し出るんだから、あんたはやっぱり俺達の仲間に相応しいよ。ついてきな」
踵を返し、シュウタは暗闇の山道を進んでいく。
誉は、その後を静かについていった。
シュウタの後をついて登っていく山道は、あたかも地獄への入り口の様だった。登り切ったらもう、後戻りはできない。その先に足を踏み入れたら、自分は自分でなくなるような感覚がひしひしと伝わってくる。
だが、護る者も、支え合う者亡くした誉にとっては、どうでも良かった。
水原が隠していた真実を知った今、自分が、弟が命懸けで護っていたモノの価値はとうに失っていた。
ならば、この身がどうなろうと、構わなかった。
夜道を歩く中、思考の海に囚われていた誉の前に、唐突に廃墟が現れた。
西洋様式のその館の前で、肩からマントを羽織り、目元に仮面をつけた背の高い人物が経っていた。
「ようこそ、我が館へ。歓迎しよう」
恭しく腰を折り、西洋の観劇役者のような仕草で、その男は誉を出迎えた。
踝まである青みを帯びた髪が、背筋を伸ばす瞬間、さらさらと揺れる。
仮面の向こうに隠された瞳が、ぎらぎらと光り輝いている。
その好奇心に満ちた視線を受け止め、誉は少しだけ眉を顰めた。
「あんたが、メルクリウス?」
「ああ、そうだ。おやおや、君は私の事をどこまで知っているのかな?」
首を傾げる男―メルクリウスの問いに誉は「さあ?」と肩を竦めた。
「別に、そんな事どうでも良くないか?それで、私をどうするつもりなんだい?」
溜息交じりの誉の問いに、メルクリウスはほくそ笑む。
「シュウタの言う通りだ。君は我々とよく似た匂いがするね。どうだい?こんなくだらない世界を変えてみたいと思わないか?」
両手を肩幅に広げ、大仰にメルクリウスは誉に手を差し伸べる。
その誘いが、悪魔の甘言という事は理解していた。
けれど。
「私はただ、こんなくだらない街を壊したいだけだよ。あんなモノを生み出す為に造られた試験管を護るなんて、ごめんだね」
「その試験管で生み出されるものと、同じになるとしても?」
メルクリウスの問いに、一瞬、誉の脳裏を愛しき半身の姿が過った。
もしこの場に焔がいたら、きっと馬鹿な兄を止めただろう。
だが、歯止めの彼はとうにいない。
だから、決断した。この街があるから、弟は死んだのだと、自分に言い聞かせながら。
「ああ、この世界に復讐出来るなら、君達に力を貸すよ」
誉が口にした言葉に、メルクリウスは不敵な笑みを浮かべた。
差し出された手を、誉は迷いなく取る。
「では、始めましょうか」
誉がメルクリウスの手を取った直後、彼の身体を黒く禍禍しい帯状のモノが包み込んだ。
「ッ⁉」
全身を包む帯状のそれに、誉は息を飲んだ。何かが皮膚から流れ込んでくる。それは、体内に侵入し、全身の器官を細胞レベルから上書きしていく。
自分が自分でなくなる感覚。魂を黒く塗りつぶされる感覚に誉はその身をよじり、抗った。
「あっ、がっ」
すっぽりと全身を黒い帯状のそれが包み込む様は、はたから見れば成虫への変化を遂げる為の蛹のようだった。
「さあ、新たな生の始まりですよ。ホマレ」
メルクリウスが名前を呼んだ直後、身体を覆っていた帯にヒビが入り、それは羽化をするように弾けた。
蛹から現れたのは、かつて、この逢坂の執行人のエースとして街を護っていた誉だった者。
ゆっくりと顔を上げたホマレはにやりと赤い瞳で微笑んだ。
「どうやら、怪夷は馴染んだようですね」
「だから言っただろ、マスター。こいつには素質があるって。俺達と同じ、怪夷を取り込むに相応しいって」
「そうでしたね。ああ、これで五人。聖剣と同じ数が揃いました」
新たに仲間に加わったホマレを見つめ、恍惚にメルクリウスは目を細めた。
ゴウンン。ゴウンン。
蒸気を吹き出しながら、夜間にも関わらず大阪城の蒸気炉は絶えず動き続けていた。
堀から水車を使い、汲み上げられた水が構内に設けられた水路を通り、中へと引き入れられる。
巨大な槌に似た機械が上下に動き、燃料を燃やす巨大な蒸気炉からは離れた場所からも熱気が感じられた。
夜間とあって、従業員もまばらなのか、莉桜と悠生は水を引き入れる水路から難なく大阪城の中へと侵入した。
蒸気炉の隣には、カタカタとパンチカードの真鍮の版に鋲を打ち続ける解析機関がある。
炉の前では、絡繰り機械達が黒い石を運び、それをくべていく。
あちこちから吹き出す蒸気の熱気に、莉桜は眉を顰めた。
「熱い…」
「流石は大阪や帝都、神戸にまで動力を運ぶ巨大炉だね…」
「あの蒸気炉が怪しいんやろ?でも、そんな感じする?」
こっそりと。遠目でみた感じ、禍禍しさは感じられない。
「レオから送られた魔術炉の見た目とも違う…あれは、普通のよくある蒸気炉だ」
コートのポケットから悠生が取り出したのは、魔術炉の図面だった。そこに描かれた魔術炉と呼ばれるそれは、円柱型で、繋ぎ目のない異様な形をしているモノだった。
それに対し、蒸気炉はレンガで積み上げられ、蒸気を逃がす煙突が天井を突き抜け、左右対称の窯のような造りをしている。
「なら、大阪城はユウさんがいう魔術炉ではないのか…」
「そうなると、他に巨大な機関を隠せそうな場所は…」
眉を顰め、考えを巡らせていた悠生を莉桜は咄嗟に引き寄せた。
「ッ⁉」
「危ないっ」
それは、一瞬の事だった。
何かに気づいた莉桜は、殆ど勘で悠生を自身の方に引き寄せると、物陰に身を隠した。刹那、爆音と振動が大阪城の全体を揺るがした。
何が起こったのか、瞬時には理解できなかった。
だが、隠れた物陰の横を、爆風と共にそれまで炉の中で燃やされていた炎と蒸気が駆け抜けていく。
莉桜に庇われた悠生だったが、咄嗟に莉桜を抱き締める姿勢で物陰に身を潜めた。
ガラガラと、レンガが崩れていく音が響き渡り、蒸気炉の置かれた空間に塵や灰が舞い上がる。
蒸気による曇りとは異なる、灰色の視界に包まれた空間で悠生と莉桜はゆっくりと身体を起こした。
「…今のは…」
「蒸気炉が爆発した…」
状況が呑み込めず、莉桜と悠生は物陰から顔を覗かせ、辺りを見渡す。
未だ熱気の残る空間へ這い出した二人が目にしたのは、粉々に崩れ去った蒸気炉と解析機関。そして、舞い上がる塵灰の中に佇むシルエット。
「あんた達は⁉」
「おやまあ、まさか、こんな所で会えるとは、思いもよらなんだ」
爆発を起こし、崩れ落ちた蒸気炉の上に立っていたのは、辻斬りの一人、花魁姿のラン。
そして、彼女の隣に立っていた人物に莉桜は驚愕した。
「誉さんっなんで、なんであんたがその辻斬りと一緒にいるんよ」
莉桜の声に、赤く光る冷めた瞳を向け、ホマレは脱力気味に唇を持ち上げた。
「ああ、誰かと思えば…なんでって、君と同じだよ。私は、この街に、世界に復讐するために彼女達の仲間になったんだ」
唐突な答えに、莉桜は意味が分からず視線を彷徨わせた。
一体、誉に何が起こったというのだろう。
彼が、自身の言葉を肯定するように、その瞳は隣にいるランや先日対峙したソウジ、捕虜にしたジュウロウザと同じスグリの色をしている。
それは、何処か怪夷の目と同じ、禍禍しさを孕んでいた。
「この街に復讐って…何のために?あんたは、あんなにこの逢坂を護る事に一生懸命だったやないのっそれを、なんで」
疑問符が、莉桜の中で浮かんでは消えて行く。
ライバルではあったが、この逢坂を怪夷から護る仲間として、これまで執行人のエースとして肩を並べてきた。
自分にとって、先輩である執行人の彼が、何故街を襲った辻斬りと共にあるのか。
「復讐するなら、そいつらやないの!あんたが今一緒にいる奴等が焔さんや水原さんを殺した張本人やん。それなのに、なんで、どうして敵の味方をするの⁉」
莉桜の問いかけに、ホマレは溜息をつく。うっとうしいとでも言うように、彼は力の抜けた視線を莉桜へと向けた。
「確かに…直接私の弟を殺したのはこいつらかもしれない…けど、弟が死ななければならなかったのは、全部現状を作り出した政府のせいだよ」
「何を言って…」
意味を掴み損ねて莉桜は困惑した。
「教えてもいいの?」
「さあ、わっちは深い事まで知らんのでありんす。あんたの好きにしたらええ」
ホマレに問いにランは口元を袖で隠しながら答えた。
「じゃあ、教えてあげるよ。この逢坂がなんのために作られたのか。何故、結界を貼ってあるにも関わらず、怪夷が蔓延っているのかをね」
クスリと、不敵な笑みを浮かべてホマレは真実を口にする。
この逢坂が抱えた闇を。本来の役割を。
「この逢坂の蒸気炉が燃料にしていたのは石炭なんかじゃない!私達執行人が狩った怪夷の核。そして、この逢坂は
「なっ」
ホマレが公言した事実に、莉桜と悠生は衝撃に息を飲んだ。
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