第49話 任務前夜

 リシェルは昨晩と同じく、青白い天井を眺めていた。


 明日はいよいよ任務だ。遭遇するのは、盗賊団か、魔物か。やはり緊張する。今夜もなかなか眠気が訪れない。


 ディナに睡眠の術をかけてもらった方がいいかもしれない。だが、隣の寝台で横になる彼女は、既に静かに寝息を立てている。

 その寝顔を眺めながら、ぼんやり考える。


 初めてできた、女友達。

 今日、二人で街を歩き、他愛もないおしゃべりをしたのは、本当に楽しい時間だった。昨日出会ったばかりなのにもう打ち解けることが出来たのは、人見知りのリシェルには珍しいことだ。連日の出来事で気分が沈みがちなリシェルも、彼女といると普段通りに過ごせた。


 少々思い込みが激しい所はあるが、明るく優しい、頼れる姉のようなディナ。

 リシェルは彼女のことがすっかり好きになっていた。


(なのに――)


 リシェルはそっと胸を押さえた。

 エリックがディナに見せた笑顔を思い出す。


 また、ずきんと胸が痛む。

 あの後――クライルにぽんっと肩を叩かれ、リシェルがようやく我に返ると、彼はにやっと笑って、「何かあったらいつでも相談してよね~」などと言って、エリックの方へ行ってしまった。ずっと彼に何か話しかけられていた気がするが、よく覚えていない。ぼんやりして、無視してしまっていたようだ。


 しかし、謝罪を言う前に、クライルと入れ違いにディナが戻ってきたので、つい彼女に真っ先に尋ねてしまった。


「あの……エリックさん、なんで笑ってたの?」


「あ、リシェルも見た? 笑顔も素敵よね~彼。なんで笑ったのかは、よくわからなかったけど。私、『よかったら、皆さんの防具に耐久性上げる魔法かけましょうか? 私の親友が開発した効果抜群の術があるんですよ』って言っただけなんだけど。そしたら急に笑って、『ああ、よろしく頼む』って。あ~もうドキドキしちゃった~」


 ディナはひどく上機嫌だ。


「そっか……エリックさんが笑うの初めて見たから、ちょっと驚いた」


「そうなの? 私には笑ってくれたのね。 嬉しい~。これはもしかして脈ありだったりして? 」


 きゃっきゃと笑うディナを見て、リシェルも必死で笑顔を作った。


 なぜだろう。友達が喜んでいるのを見て、こんな不快な気持ちになってしまうのは。自分はもしかして、ものすごく性格が悪いのだろうか。人の幸せを妬ましいと感じてしまうような、嫌な人間だったのか。


 昼食を終え、リシェルはずっとパリスと館の一室に籠りきり、魔法の特訓だった。ディナの方は、団員達の防具に片っ端から術を施したり、明日の準備を手伝っているようだった。


 窓から時折、中庭で彼女がエリックと話しているのが見える。その度に胸がざわつき、魔力が途切れ、パリスに怒られた。


「お前、今日全く集中してないな」


 幾度目かの注意の後、パリスは呆れたように言った。


「うん……ごめん……」


 せっかくパリスがこうして時間を割いてくれているというのに、成果をあげられないどころか、集中すらできない。リシェルが謝ると、パリスはこほんと咳払いをした。


「その……なんだ。お前の気持ちもわかるが……ディナ様が言ったことは気にするな。カロンのことも、アーシェのことも……仕方なかったんだ。当時、シグルト様はまだ導師になられていなかったし……命令に逆らえるお立場ではなかった」


 パリスは、リシェルの様子がおかしいのは、昨日のディナの話が原因だと思ったらしい。


「シグルト様は、ディナ様が言うような、冷たい方じゃない。僕が思うに、シグルト様がお前に向けているお気持ちは……本物だ。そこは疑うなよ」


「うん……」


 リシェルは素直に頷いた。

 パリスも随分変わったものだと思う。あれほどリシェルのことを嫌っていたのに、今ではこうしてリシェルの心中をおもんぱかってくれる。シグルトにリシェルのことを頼まれたから……というだけでなく、今はリシェルを友の一人と認めてくれていると自惚れてもいいだろうか。

 人の、人に対する感情は変わっていく。


 リシェルのシグルトに対する感情も変わりつつある。

 この六年間、自分を守ってくれる保護者として絶対的な信頼を置いてきた。求婚されてからは、異性として意識するようになった。そして、その過去を知ってからは――今まで一度も抱いたことのなかった、不信と疑念が生まれた。


 そして――エリック。彼への感情もまた、変わりつつある。

 最初はよくわからない、少し冷たい人、という印象だった。でも、彼を知るにつれ、その怜悧な美貌の下に、本当は他人を気遣える、優しい心があるのだと気づいた。


 彼ともっと話したい。

 カロンについて知りたいだけではない。彼自身について、もっと知りたかった。


 もしかしたら、エリックといる時のディナに対して抱いてしまう、このもやもやとした感情は、彼女が羨ましいからかもしれない。

 口下手な自分と違って、ディナはぐいぐいと相手の懐に入っていって、心を開かせてしまう。エリックまで笑顔にしてしまった。


 彼の笑顔を思い出し、また胸がとくん、と鳴った。

 リシェルにとってエリックは今、どうしようもなく、気になる存在だった。


 ふと、何か予感のようなものを感じて、ディナを起こさないように、そっと寝台から降り、窓から外を見てみた。

 夜空には満月に近い大きな月が明るく輝き、視線を下に落とすと、館の中庭が一望できる。そこに一人立つ人影を見つけた。


(エリックさん……?)


 リシェルは物音を立てないように、部屋を出た。




「エリックさん」


 中庭に着き、呼びかけると、長身の騎士が振り返った。

 月明かりに青白く浮かび上がる、幻想的なその美貌に、リシェルは一瞬息を飲む。


「あの……どうしたんですか?」


「……別に。お前こそどうした? 一人で行動するなと言ったろう? それもこんな夜中に……」


 とがめられ、また軽率な行動を取ってしまったことを悔いる。


「あ、ごめんなさい。その……ずっと眠れなくて……そしたらエリックさんの姿が見えたから……」


「……そうか」


 エリックはそれきり黙ってしまい、夜空の月を見ている。

 リシェルはこの場に留まっていいものか迷ったが、なんとなく彼ともう少し一緒にいたかった。そっと彼の隣に立ち、同じように月を見上げてみる。


「月……綺麗ですね」


「……」


 エリックは何も言わない。リシェルはそれを一緒にいてもよいという意味だと思うことにした。


 しばらく二人で、月を眺める。辺りは静かだった。遠くで鳥や虫の鳴く声が響くのみ。館にいる人間は、ここにいる二人を除いて、皆もう眠ってしまったようだった。


 頭上に広がる、白銀の月が浮かぶ、深い藍色の夜空。

 それは、導師のまとうローブを想わせた。


「私……ずっと先生を信じてきました……」


 何か話そうと思ったわけではないのに、不意に言葉が唇から零れていた。


「先生は、いつも私に優しくて……私のことを大切にしてくれたから……この六年間、先生のことを疑ったことなんて、一度もなかった……」


 記憶を失ったリシェルにとって、シグルトは世界そのものと言ってよかった。

 彼の隣が自分の居場所であり、彼の言葉すべてが真実だった。


「でも……先生は、私に隠してた……カロンでしたことも、前の弟子を手にかけたことも……」


「……」


 エリックはほんの僅かに目を細めた。


「エリックさん、教えてください。先生は、あなたの大事な人を……殺したんですか? だから、エリックさんは、先生のことを……憎んでいるんですか?」


 リシェルはまっすぐにエリックを見上げた。その薄紅色の瞳は、真実を知りたいという強い思いと、真実を知ることへの不安で揺れていた。

 エリックはそんなリシェルを見つめ返し、ゆっくりと口を開く。


「……六年前のあの日、あいつは俺から、何もかも……すべて奪った」


 黒い瞳に、黒髪の少女を捕えながら言う声には、常とは違って感情が籠っていた。


「だから、俺はあいつが憎い。殺してやりたい程に」


 ずしん――と、心臓が重みをまして、胃の方へ下がるかのような感覚があった。

 エリックの言葉は、ロビンやディナの師への憎しみを知った時以上に、なぜか心にこたえた。


「ごめんなさい……」


「なぜ謝る?」


「私……私もカロンにいたのに、何も知らなくて……知ろうとしなくて……先生は恨みを買うような人じゃないとか言って……きっとエリックさんに嫌な思いをさせてましたよね……」


「……」


 他になんと言ってよいのか、わからない。

 彼が奪われたものが何なのか、訊くべきなのか。

 弟子として、師のしたことを謝るべきなのか。

 わからなくて、リシェルはただ黙って俯いた。


 再び訪れる、沈黙。

 それを破ったのは、エリックだった。


「……お前、この六年、あいつと居て……幸せだったか?」


「え?」


 問われて、考える。

 シグルトと過ごした六年間。

 記憶がないことに、不安もあった。魔法を教えてもらえないことに、不満もあった。

 でも、不幸では、決してなかった。


 シグルトはいつも傍にいてくれたから。

 寂しい時は抱きしめてくれた。辛い時はふざけたことを言って、忘れさせてくれた。楽しい時は一緒に笑いあった。


「はい……幸せ、でした……」


 故郷を滅ぼした憎い相手といて幸せだった。

 その答えは、エリックに不快な思いをさせるかもしれないとは思ったが、リシェルは正直に言った。


 この六年、シグルトといて幸せだったことは嘘でも否定できない。

 例え彼が、自分から何もかも奪った張本人だったのだとしても。


「……そうか……」


 エリックの黒い瞳が揺れた。

 表情そのものにほとんど変化はない。だが、その双眸はなぜか悲しげに見えた。


「……なら、あいつと結婚するつもりなのか?」


「あ! えっと……それは!」


 今度の問いには思わず動揺する。シグルトと結婚すると言ったことを、クライルから聞いたのだろう。本当に彼はおしゃべりだ。


「考え中、です……」


「やめておけ」


 エリックの声が鋭くなった。


「もし記憶が戻れば、辛い思いをすることになる」


「それはどういう――」


 問いかけの途中で、思い当たる。


「……エリックさんは、もしかして知ってるんですか? 記憶を失う前の、私のことを」


 カロンの村は雪山にある小さな村だったと聞く。ならば、カロンの出身であるエリックと自分が、知り合いだった可能性は十分ある。


 エリックは答えなかった。だが、否定しないのは肯定しているのと同じだ。

 彼は、何かを知っている。


「お願いします! 私のこと、なんでもいいから知ってるなら教えて下さい!」


 必死に頼むリシェルに、エリックは口を閉じたまま。


「エリックさん!」


「……お前は、俺を信じられるか?」


 ようやく返ってきたのは、問いかけだった。


「え?」


「 俺とシグルトがお前に話す過去は、おそらくまったく違うものだ。俺の話が真実で、あいつの言っていることは嘘だ。だがシグルトも、同じことを言うだろう。結局はお前が、俺とあいつ、どちらを信じるか、だ」


 六年間自分を守ってきてくれたが、カロンのことを隠していたシグルト。

 二度も自分を助けてくれたが、出会ったばかりで謎の多いエリック。


 どちらを信じるべきか。

 リシェルは即答できなかった。答えに詰まる少女に、騎士は息を吐いた。


「……まあ、出会ったばかりで、素性もはっきりしない、こんな怪しげな奴を信じろ、というのが無理な話か」


「そんな……! 私、エリックさんがいい方だってちゃんとわかってます!」


 決してエリックを疑っているわけではない。そのことだけはわかって欲しい。つい声が大きくなってしまった。


 エリックがふと、微笑んだ。

 リシェルの心臓が跳ねる。

 それは、昼間ディナに見せたのと同じ、穏やかなものだった。


 彼は懐をまさぐると、何かを取り出した。


「手を出せ」


 言われてリシェルが広げた手の上に置かれたのは、花を模した、薄紅色のガラス細工のペンダント。


「これ……!」


 ミレーレの街で見つけ、一度手にしたが、結局買わなかったものだ。

 一体なぜ彼がこれを持っているのだろう。

 まさか、自分に渡すために買ってくれたのか。自分に、贈るために……リシェルの胸が高鳴った。


「あの、これは?」


「お前にやる」


 エリックは、視線を下に逸らした。俯いた顔に、長いまつげが影を落とす。


「どうして、私に?」


 しばらく考えるように間をおいてから、答えが返ってくる。


「……お前は騙されやすいから」


「?」


「あいつに何か言われたら、それを見て、俺のことを思い出せ。そして、あいつを信じるかどうか、よく考えろ」


 リシェルは手の中のペンダントに視線を落とした。月の光を受けて、花の形のガラスがきらきらと輝いている。


 理由はどうあれ、自分のために、エリックが買ってくれた――そう思うと、胸のあたりがなんだかこそばゆい。


「お前はお人好しで、世間知らずだ。俺みたいな怪しい奴のことも疑わない。そんなんじゃ、あいつにすぐ丸め込まれそうだからな」


「そんなこと……」


 嬉しさを感じたのも束の間、エリックの言葉に少し傷つく。自分が騙されやすいのは事実だが、なんだか馬鹿にされているように感じて、リシェルはむくれた。


 その様子にエリックが再び微笑む。また心臓がどくんと反応してしまう。


「お前がもし、あいつを信じられなくなったら……俺を信じると決めたなら……俺はお前に、知っていることを話そう。六年前のあの日、何があったのかを……」


「今、話してはもらえないんですか?」


「……お前はまだ、あいつを信じているだろう? お前はきっと俺の話を信じられない」

 

 やはり、話をしてくれる気はないらしい。

 リシェルはぎゅっとペンダントを握りしめた。


 シグルトを信じられなくなったら――――そして、エリックを信じると決めたなら――――


「……明日は任務だ。もう部屋に戻って寝ろ」


 話は終わりだ、とばかりにエリックが顔をそむけた。

 正直、もっと彼と話していたかった。いや、別に会話をしなくてもいい。ただ、もう少し彼の傍に居たいような気がした。


 だが、エリックの言う通り、明日は大事な任務だ。わがままは言えない。


「……これ、ありがとうございます。おやすみなさい」


 リシェルはペンダントの礼を言って、名残惜しさを感じつつ、その場を後にした。





 リシェルが去った後――

 背後からした気配にエリックは振り返る。そこにいたのは、にやにやとした笑いを浮かべた、ノーグだった。


「待ち合わせに遅れて来てみれば……エリック、うまくあの娘を手懐けてるじゃないか。お前が女に贈り物とはな」


「また覗き見か。あんた本当に趣味が悪いな」


「お前といい、シグルトといい、あの娘といる時は“らしくない”ところを見られるからな。なかなか面白い」


 ノーグは薄ら笑いを顔に張り付かせたまま、言った。


「明日、任務中にあの娘をシグルトから奪うぞ」


 エリックが口元を引き締めた。


「ディナ……あいつまで来たのは予想外だったが……魔道士二人が任務に気をとられている隙を狙おう」


「シグルトのつけた“護衛”はどうするんだ?」


「俺が抑える」


「あんたにできるのか?」


 疑わし気なエリックに、ノーグは笑った。


「俺だってこれでも法院にいた頃は、それなりに名の通った魔道士だったんだぜ? それに、召喚主であるシグルトとここまで距離が離れれば、あの化け物も本来の力は発揮できないはずだ。まあ、なんとかやってみるさ」


 軽い調子で言う男に、エリックは信用ならないとばかりに目をすがめた。


 六年前、何もかも失った自分を拾い、ここまで育てた男。学問から礼儀作法、体術に剣術、そして、自分でも知らなった“能力ちから”の使い方――生きていくための、そして憎い男に復讐するための術すべてを教えてくれた、師とも呼べる存在。エリックにとっては、恩人と言ってもいいだろう。


 だが、未だにこの男を心から信じることができない。ノーグにとって、自分は目的を達成するための、道具、駒の一つに過ぎないのだ。別にそれは構わない。自分だって彼を利用しているのだから。問題なのは、この男が“彼女”のことも駒として利用しようとしていることだ。


 もし、“彼女”を害するようなら――この男もまた、自分にとっては敵だ。


「あの娘はお前にかなり気を許しているな。あと一押しでこちらに引き込めるかもしれん。お前は任務の混乱に乗じて、あの娘を拐え。説得するのでも、力付くでも、どちらでも構わん。俺の部下に娘を引き渡したら、すぐに王子のもとへ戻ればいい」


 ノーグは言いながら頭上で輝く、白銀の月を見上げた。その半分ほどに雲がかかり、光がかげっていた。


「シグルトは王都を離れられない。あの娘を奴から奪う機会は、今しかない」


 エレナ――

 エリックは先ほどまで話していた黒髪の少女を思う。


 なんとしても、自分は彼女を取り戻さなくてはならない。

 奪われたものは、奪い返す。当然のことだ。


 だが――


 幸せ、でした……


 少女の答え。それが、ほんの僅か心に引っ掛かり、決意を鈍らせる。


 エリックは迷いを振り切るように、身を翻すと、館に向かって歩き出す。

 その背に向かって、ノーグが声を掛けた。


「エリック、明日の任務……怪我には気を付けろよ。何度も言うが、大怪我されちゃ、もう俺でもお前を助けてやれないからな」


 うんざりするほど聞かされてきた忠告が、また繰り返される。こういうところだけ、この男は口うるさい母親のようだ。別に本気で心配しているわけでもないだろうに。


「……わかってる」


 エリックは、反抗期の子供のように、ただぶっきらぼうに返した。

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