第27話 訓練
エリックは一人部屋で、ぼんやりと、手の中のガラス玉を眺めていた。
なんとはなしに、指先でくるくると回転させる。それでもガラス玉の中に浮かぶ三角形の指針は、常に一つの方向を指し示した。
六年前のあの日。
この指針が示す方向に向かって、まだ少年だった自分は必死で走った。
そこには希望があるはずだった。
そこに辿り着きさえすれば、すべてがうまくいく。
そう信じていた。
だが、その先で待っていたのは、希望ではなく絶望だった――――
「うあああああああ――――!」
怒りの絶叫とともに、抜き放った剣を手に地を蹴った。
声に、男がこちらを見る。
紫の瞳。
その瞳には、暗い、大きな闇が宿っているように見えた。
だが、怯みはしなかった。
大切な人の命を奪った、目の前の男を殺す。
そのことしか頭になかった。
猛然と男に向かっていく。
剣を振りかぶったその時――――
男が片手を一閃させた。白いローブの袖が翻る。
まるで邪魔な虫を振り払うようなその仕草と同時に、身体を見えない衝撃が襲った。
身体が後方へ吹き飛ばされ、地面へと叩き付けられる。ごろごろと地を転がり、横たわる黒髪の少女の傍で止まった。
ぼやける視界の中で、男がこちらへ向かって一歩踏み出したのが見えた。
だが、気が変わったのか、すぐに向きを変え、自らの足元に横たわる、血を流して動かない少女の傍まで行くと屈み込む。男の手が少女へと伸びるのが見えた。
(アーシェに……触るな……)
想いは言葉にならなかった。痛みに声が出せない。
悔しさの中で、意識が途切れた――――
どれくらい気を失っていたのだろうか。
意識が戻ったのは、すぐそばで人の気配を感じたからだった。
ゆっくりと目を開けると、目の前に白い布が見えた。
「……ああ、気がつきましたか」
頭上から降って来た声に、目線を上へあげると、紫の瞳が自分を見下ろしていた。
男の腕の中には、力なく抱きかかえられる、黒髪の少女の姿があった。
一気に体中に力が――怒りが
だが、右足に激痛が走って、再び地面に倒れこんだ。
「動かない方がいい。足、折れているようだから」
男が他人事のように言った。その原因が、自分が先程放った衝撃波にあることなど、気にもしていないようだ。
「エレナ……! エレナを離せ……!」
それでも腕を支えに、上半身だけをなんとか持ち上げ、男を
「……エレナというんですか、この子は」
男は腕の中の少女に目を落とした。
「離せ……!」
「……この子はもう手遅れです。諦めなさい」
そんなこと、言われなくたってわかっている。
たった一つの希望を、目の前でこの男に奪われた瞬間、彼女がもう二度と目覚めることはないのだと覚悟した。
だが、そうだとしても、彼女が自分にとって大切な、守るべき存在であることに変わりはない。
さらに声を上げようとした時、男がぽつりと呟いた。
「でも――――私なら、あるいは――――」
だが、男はそこで言葉を止め、苦しげに顔を歪めると、くるりと背を向け、歩き出す。
腕に、黒髪の少女を抱いたまま。
その背に必死に声を投げかける。
「エレナをどうする気だ……!?」
「………私はただ、あの子の……アーシェの願いを叶えてやりたいだけです」
男は振り返らずに答えた。
「待てっ!」
折れていない方の足で身体を支え、立ち上がり、男を追おうとする。
倒れこむようにして男の白いローブを掴み、男が足を止めた――その瞬間、突然背中に強い圧力を感じて、再び地面へ倒れこむ。まるで見えない大きな物体に押さえつけられているかのようだ。
「……君を殺したくはありません。この子のことは忘れなさい。アーシェのことも」
男が顔だけ振り返って、地に這いつくばる自分を見下ろしながら言った。
冷たい紫の瞳。
この男にとって、自分を殺すことなど、本当に容易いことなのだろう。
誰よりも強い、そう信じていた存在を打ち負かしたくらいなのだから。
だが、この男がどれだけ圧倒的な力を持っていたとしても、大人しく言いなりになることなどできない。
「ふざけるな……!」
不可視の圧力に負けまいともがくうちに、懐から細い鎖の付いたガラス玉がころころと転がり落ちた。
それを見た男の目に驚きの色が浮かぶ。
「……“魂の羅針盤”ですか……」
奪われるかもしれない――――反射的にそう思って、慌ててガラス玉に手を伸ばし、握りしめる。
「……なるほど。それで君はこの場所がわかったわけか」
「……エレナをっ……返せっ……!」
ガラス玉を手にすると、不思議と力が湧いて来た。
肘をついて、身体を持ち上げる。気力が
男が眉を寄せた。
「君は、まさか……そうか、それでアーシェは君を……」
「アーシェ、アーシェって……気安く呼ぶなぁっ!」
叫んだと同時に、背にかかる圧力が一気に増した。先程の倍以上の重圧に耐えきれず、再び地に叩きつけられる。
「くっ……!」
今度は不可視の力に頭まで押さえつけられる。もう顔を上げることも出来ない。
「君がもし、すべてを知りたいと願うなら、その羅針盤を大切に持っていなさい。それが君を、この子の元へ導いてくれるでしょう」
男の声だけが聞こえてくる。
「羅針盤が指し示す先に辿り着いた時、君は今以上の苦しみを味わうことになるかもしれない。その覚悟が、君にあるのなら――――」
男の、雪を踏みしめる足音が遠くなっていく。
身体が自由に動くようになったのは、足音が完全に聞こえなくなって、しばらくしてからだった。
ゆっくりと身を起こし、男が去った方向を見たが、そこにはもう誰の姿も見えなかった。
ぎりっと奥歯を噛み締める。
自分は、なんて無力なんだろう――――
誰一人、守ることができなかった。
情けなさに目に熱いものがこみ上げてくる。
その時、視界を何かが横切った。
ひらひらと舞う、小さな蝶のようにも見えた。
(雪……?)
手に掴もうとすると、ふわりと逃げるように離れていく、灰色の――――
ぞくりと嫌な予感がした。
ゆっくりと首を回す。
そこに、血を流し倒れているはずの少女の姿はなかった。
少女が倒れていた場所だけ、雪が解け、地面がむき出しになっていた。
地面は真っ黒に
風が起こる度、そこから僅かばかり残された灰が舞い上がり、空をくるくると回転する。
あの男はすべてを奪っていったのだ。
本当に、何一つ残さずに――――――
「それにしても、リシェルちゃん可愛かったよね~」
突然耳に入ってきた能天気な声に、はっと我に帰る。
見れば、一体いつからいたのか、クライルがソファの上にふんぞりかえっていた。
部屋に入ってくる気配は感じなかった。どうやら随分とぼんやりしていたようだ。
「……
「あんな可愛い子と一つ屋根の下……はあ~、シグルト、羨ましいなぁ」
エリックの咎めるような問いかけを無視して、クライルは何を想像しているのか、鼻の下を伸ばしている。その様子には、王族らしい気品や凛々しさの欠片もない。
「ね、やっぱりあの二人って、デキてると思う?」
この主に仕えて数週間。出てくるのはこんな下世話な話題ばかりだ。
うんざりした様子を見せるエリックに構わず、クライルは嬉々として話し続ける。
「法院内じゃ、あの子、シグルトの愛人だってもっぱらの噂らしいけど、僕はシグルトはまだ手を出してないと思ったね。だって、リシェルちゃん、なんかすっごく無垢な感じがしたし~」
エリックは主から手の中のガラス玉に目を戻した。
三度目の再会。
茶会の時、彼女はあの薄紅色の瞳で何度も自分に視線を送ってきた。自分と話したいのだということはわかったが、あの場にはクライルやミルレイユ、そしてあの男がいた。
あの男が茶をローブにこぼした時の、彼女の心配そうな表情――本当にあの男を師として慕っているのだとわかった。憎むべき、あの男を。
もし、噂通り、あの男に師弟関係以上の特別な感情があるのだとしたら――
「ね、どう思う?」
「……別に。興味ないんで」
できるかぎり素っ気なく答えたつもりだった。
「……本当に?」
探るような問いかけに、再び主を見る。クライルは緑の瞳をすっと細めて、意味ありげな視線を送ってくる。
だがそれも一瞬で、すぐにいつもの気の抜けた表情に戻ると、能天気な声で言った。
「ま、いいや~。ところで、さっき叔父上に呼び出されてさ。お前は王族としての自覚が足りんとか、また説教されちゃった~。で、ちょっとはお国のために役に立て、働いて来いってさ」
クライルはにっと笑って見せた。
「ラティール騎士団、初任務だ」
闇の中。
浮かび上がる、金色の光。
光はどんどん大きくなり、やがて、闇を消し去る程、輝きを増す――
リシェルはゆっくりと目を開いた。
何かを受け取るかのように、前へと差し出した両手には、期待した“光”はなく、目を閉じる前となんら変わりなかった。
リシェルはため息をついて、両手を降ろした。
「……苦戦してますねぇ」
少し笑いを含んだ声に、リシェルは執務室の大きな椅子に腰かけている師匠を恨めしげに睨んだ。
「先生、見てばっかりいないで、師匠らしくなんか有効な助言して下さい」
シグルトから渡された入門書は既に読み終わり、リシェルは一番初歩の魔法の訓練をしていた。光を生み出す、最も初歩の術。いつか役所勤めの魔道士たちが、夜の街灯に灯りを灯していた、あの術だ。
本に書かれていた通り、頭の中で光を思い浮かべる、という訓練をもう何日も行っているが、現実にこの手の中に光が生まれる気配は微塵もなかった。
シグルトといえば、弟子が苦労している様子をただ見守るだけで、具体的な助言は一つもしてくれなかった。だが、さすがに行き詰って、助けを求める。
「う~ん、君の場合、まず魔力を感じ取る訓練から始めないといけないようですね」
シグルトは書類が広がる机の上に頬杖をついて、微笑みながら言った。
「魔力を感じ取る?」
「ええ。まず魔力というものがどういうものか。それがわからないと、引き出して使うも何もないでしょう。魔術学院に入学してくるくらいの年齢の子供だと素直なせいか、たいした訓練をしなくても、わりとすぐに感じ取れるようになるんですが……君の場合、もう結構年齢がいってしまっていますから」
魔術学院に入学してくる生徒の大半が六~八歳ということを考えれば、十六歳という年齢は、魔道の修行を始める年齢としては、あまりにも遅い。
「どうしたら感じ取れるようになりますか?」
身を乗り出してきた弟子に、シグルトは何か思いついたのか、悪戯を企む子供のような顔になった。
「そうですねぇ、一番手っ取り早いのは、自分より強い魔力を持つ人から感じ取る方法でしょうね。たとえば、私が魔力を解放して、それを君が感じ取る」
「それ、どうやるんですか?」
熱心なあまり、リシェルはシグルトの表情の変化に気づかなかった。
「やってみます?」
「はい!」
リシェルが力強く頷くと、シグルトは席から立ち上がり、リシェルの傍まで歩み寄ると、両手を広げて見せた。
「さ、おいで」
「へ?」
「いいから」
シグルトがリシェルの肩を掴んで抱き寄せた。訳がわからないまま、リシェルはシグルトの腕の中にいた。
「あの、先生?」
「魔力とは魂が持つ固有の波動……というのは本で読んだでしょう。こうしてくっついていると、その波動を感じやすくなるんですよ。今、魔力を軽く解放してる状態なんですが、どうです? 私の魔力、感じます?」
恥ずかしかったが、師の口調が真面目なものだったので、これは訓練なんだと言い聞かせ、師の魔力を感じ取ろうと集中する。
とりあえず、目を閉じて、シグルトの胸に頭を押し付けてみた。
「う~ん……」
聞こえてくるのは、シグルトの規則正しい心臓の鼓動。
感じるのは、肩に回されているシグルトの腕の温もり。
「よくわかんない……です」
魔力と思われるものは、何も感じ取れなかった。
シグルトの顔を見上げて首を振る。
「そうですか。じゃあ今度は……」
シグルトの口元にうっすら笑みが浮かんだ。
「口と口を合わせてみましょうか」
「は?」
師の提案に思わず間の抜けた声が出る。
「聞いたことありませんか? 悪魔は契約者の魂を口から吸い取って、奪い取ると言われているんですよ。それに、術の中には特殊な呪文を必要とするものもあります。声に魔力――魂の波動を乗せて術を行使するわけです。つまり、口は魂の通り道なわけで、最も魔力を感じやすいわけです」
シグルトはもっともらしく説明する。
(口と口を合わせるって……それって……)
想像してリシェルは真っ赤になった。
「で、でも……そ、そんなの、こっ……恋人同士がすることじゃないですかっ!」
「魔力、早く感じ取れるようになりたいんでしょう?」
シグルトはそんなリシェルの反応を、愉快そうに目を細めて見下ろす。
「そ、それは……!」
「これも訓練ですよ」
言って、シグルトはリシェルの顎に軽く指をかけ上向かせた。
ゆっくりと、師の顔が近付いて来る。
訓練だと言われては拒む理由も思いつかず、観念して、リシェルはぎゅっと目を閉じた。
そして―――
「シグルトー、入るぞー」
声と共に、唐突に部屋の扉が開いた。
「……って、お前ら何やってんだよ!?」
入って来たのはブランだった。抱き合うシグルトとリシェルを見て、巨体をのけぞらせている。
リシェルはとっさにシグルトを突き飛ばすようにして離れると、しどろもどろに誤解を解こうとした。
「ブ、ブラン様! こ、これは、その、今、魔力を感じ取る訓練をしてて……!」
「……そんな訓練、聞いたことないぞ」
ブランの言葉に、リシェルはきっとシグルトを睨んだ。
「……!? せんせいっ! 騙したんですかっ!?」
「……ブラン、君は本当に人の邪魔ばかりするんだから……」
シグルトは恨めしそうに眉を寄せてブランを見る。
状況を察したらしく、ブランが呆れ声で言った。
「……リシェル、こいつに修行だ何だのって言われて、なんかおかしな事されそうになったら、俺に言いに来いよ」
「そうします! 絶対そうします!」
リシェルは涙目になって激しく何度も頷いた。
「ブラン、
「お前の恋路がまっとうだったら、俺も何も言わないんだがな」
友の言葉に、ブランはため息交じりに言い返した。
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