第15話 TPOは弁えよう

 不思議な夢を見た。

 シロナガスクジラにのしかかられたことによって圧死する夢だ。いや、正確には身体に乗られてはいるものの、苦しいだけで死にはしていない。即死していない時点で、ああこれは夢なんだと気づいた。

 けれど、そのうち意識がぼんやりとしていく。そのくせ、身体にかかる圧力は弱まることを知らず、むしろ重みは増していた。


「……菘? 何してんの?」

「おはよう、涼」

「うん、おはよう」


 夢と現実の区別がつかぬまま、俺は目を開いた。依然として、身体の上に何かが乗っている感覚は消えない。むしろ、覚醒したから余計に鮮明にその重さを感じる。

 その原因は寝ぼけた頭でもすぐにわかった。


「それで、何してるんだ?」

「なにって、起こしにきたのよ」

「それはありがたいけど……。どうしてお前は俺に乗ってるんだ」


 菘は仰向けで寝ている俺の腰あたりに座るようにしてこちらを見下ろしていた。

 

「山科君が、幼馴染はこうやって目覚めを促すものだって」

「そうか、香澄か……」


 ありがとう、香澄。たまには役に立つじゃないか。


「あの……、重い?」

「いや、そんなことない。そりゃ、全く重さを感じないと言えば嘘になるけど」

「本当に? よかった。涼、私が乗ったら急に顔をしかめたから」

「ああ、どおりで変な夢を見たわけだ」

「へ、変な夢? それって、やっぱりやらしいの?」

「やっぱりってなんだよ……」


 こいつは俺のことを何だと思っているんだろうか。朝っぱらからこんな行為に及ぶ菘のほうがよっぽど変態の素質があるように見えるが。


「だって、その……。部屋に来てからすぐには涼に乗れなかったもの」

「言ってる意味がよくわからんが……。躊躇ったってことか?」

「当たり前じゃない!」


 顔を赤くして菘は答えた。頼むから俺の上で暴れないでくれ。


「百歩譲って私はいいわよ。でも、無理に乗ったら涼が折れちゃうし」

「俺の骨はそんなにやわじゃないけど」

「骨? あれって、骨入ってるの?」

「俺は軟体生物か何かなのか?」


 うーん、朝からなんだか話が嚙み合っていない気がする。

 起床してすぐということもあって、考えも上手く纏まらない。

 それによく考えてみたら、菘が俺の腰あたりに座っているこの状況はどうなんだ。セーフなのか。どこからどうみても、騎乗位にしか見えないけど。

 などと、邪なことを考えたのが良くなかった。


「……っ」


 下半身に血流が集中していく。これはいけない。

 このまま屹立しようものなら、腰に乗っている菘にばれてしまう。そうなる前に、退去願わねば。


「あの、菘さん。俺もう起きてるから降りてもよろしくない?」

「それもそうね」


 菘はすんなりと受け入れ、身体を浮かせた。よかった、これでなんとかなった。

 と思ったのも束の間、菘は布団に足を滑らせる。そして、俺の方へと倒れ込んできた。

 そのまま俺に覆い被さるようになった。俺の胸あたりに、菘は額を打ち付けた。

 目と鼻の先に菘の顔がある。ジクジクと胸が痛むが、これが物理的なものなのか精神的なものなのか、もはや判別はつかない。

 身体全体が、菘の重みと柔らかさで覆われていた。


「ご、ごめんなさい。涼、大丈夫?」

「だ、大丈夫。それより菘のほうは?」

「私はなんてことないけど……」


 菘と視線が絡み合う。ベッドの上で、二人折り重なった状態。なにを話せばいいのだろう。

 かくいう俺はいっぱいいっぱいだった。

 吐息のかかるような距離から菘は俺のことを上目遣いで見ている。どうして、すぐに離れてくれないのだろう。

 

「ね、ねえ涼。その……離してくれない?」

「え?」

「腕……。抱きつかれてたら、私離れられない」


 言われて気付く。あろうことか、俺は菘の背中に腕を回していた。がっちりとホールドして、抱きつく形。これでは、菘が離れないのも当然だ。俺をじっと見ていたのも、腕を離してくれと訴えていたのだろう。

 しかし、どおりでやたらと密着感があったのだ。

 腹のあたりに感じる、異様な柔らかさもきっとのそのせいだ。菘もまだパジャマ。きっと下着も付けていないから、直の感触だろう。

 

「涼? 聞いてる?」


 ああ、これ以上話さないでくれ。顔に吐息がかかり、間近から耳に菘の声が響く。ただでさえ寝起きで働かない脳が、菘一色に染められていく。


「ちょっと、離してって言ってるのに、なんでぎゅってするのよっ……」


 菘が身をよじる。けれど、抵抗と呼ぶにはあまりにも弱い。体勢的に、菘が俺から離れるのは容易なはずだ。腕を伸ばして、俺を突き放せばいい。

 

「もう……。遅刻するわよ?」


 あまつさえ、甘い声でそんなことを言う。

 理性の限界が見えたような気がした。そして、それはもう目の前だ。


「まるで遅刻しないなら大丈夫みたいな言い方だな」

「……知らない」


 菘がプイっと目線を逸らす。

 もういっそ、学校も休んでしまおうか。菘と二人揃ってサボろうものなら、香澄に何を言われたものかわかったものではないけど、今はそんなことどうでもよかった。

 ただ、この温かさに身を委ねていたい。このままもうひと眠りするのも一興だろう。

 

「お邪魔するわよー!」


 ……は?

 意識が覚醒する。誰かが俺の部屋の扉を開いて殴り込んできた。


「……」

「……」

「……」


 俺と菘と侵入者、三人の視線が絡まる。痛いほどの沈黙が襲った。コチコチと、置き時計が時間を刻む音だけがしている。


「ええと、ごめんね? お取込み中だったか」


 見てはいけないものを見たように、侵入者、もとい葵さんは部屋から出ていこうとする。


「ちょっとお母さん!」

「ごふっ」


 菘が葵さんを止めるために勢いよくベッドから飛び降りた。その際、俺は思いっきり蹴とばされた。


「これは……。そう、違うの!」

「ごめん、お母さん何がどう違うのかわからない」

「ほら、脱いでない!」


 菘は無理のある潔白を主張する。いや、たしかに脱いではないけども。


「あー、葵さん。俺が寝ぼけて菘を抱き枕扱いしちゃってたみたいで」

「へえ、涼くんやるじゃない」


 何が?


「ん? てことは、二人は一緒に寝てたの?」

「いや、流石に別々ですよ?」


 まあ昨日は同衾してたけど。言ったら面倒だし黙っておく。


「私が涼を起こしにきたのよ。そしたら、涼に捕まって」

「で、菘も抵抗の一つもせず、されるがままだったと」

「それは、だって涼のほうが力強いし……」

「あれ? 私が部屋に来た時、菘も涼くんに腕回してたよね」

「ええと」


 ひたすらに墓穴を掘り続ける菘。ていうかそうなの? どうりで密着してると思ったよ。


「昨日のプレゼントもあげた甲斐があるってものねえ」

「あれなら昨日捨てたわよ」

「あら、本当に捨てたの」

「当たり前だろ……」


 この人は娘の貞操に興味がないのか? いや、娘を男と同居させてる時点でそんなものないのはわかりきってたけど。


「ううん。でも、流石に高校生で妊娠されるのはお母さん困るんだけど」

「なんでヤる前提なんだよ!」

「さっき、あんなことしてた涼くんに言われてもねえ」

「うぐっ」


 何も言い返せない。


「いやでも、ほらそういうのって相手の合意が必要というか」

「合意? え、何その今更感あるワードは」

「今更感……?」

「今更も今更でしょ。だって、菘が断るわけ――」


 と言葉の途中で葵さんは宙に浮いた。菘がぶん投げたのだ。どこにそんな力が……。


「ほら、お母さんは帰る!」


 地べたに這いつくばった葵さんを、菘は米俵のように抱える。そして、玄関まで連れて行き、そのまま外に放り投げた。相変わらず、菘は葵さんの扱いが雑だ。

 

「また来るからね!」


 葵さんは葵さんで、全く気にした素振りもなく、笑顔で去っていった。

 ていうか、あの人朝からいったい何しに来たの。まさか覗きがしたかっただけ? 

 たしかに昨日、家に忍び込んでたのもそんな理由だったなあ。

 

「あの、涼?」

「ああ、なに?」


 朝から意味不明な出来事がありすぎて、思わず玄関でそのまま惚けていた。

 菘はワタワタと手を動かしながら、早口で話し始める。


「お母さんはああ言ってたけど、私は、ちゃんと時と場所は弁えるべきだと思うの。いや、たしかにね、場所は問題ないかもしれないけど。でも、まだ時期尚早というか。別に絶対、死ぬほど嫌ってわけじゃないんだけど」

「……何の話?」


 こいつは一体いきなりなにを捲し立ててるんだろう。主語がないのは困る。


「……わからないならいい」

「お、おお」


 むすっと言って菘はリビングに台所に消えていった。弁当を作るのだろう。

 その動作の一つ一つに妙に力がこもっている。

 どっからどう見ても怒っていた。まあ、葵さんがあんなことしたからだろう。

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