第19話 ティムへの謁見
同時刻、センブリはかつてないほど動揺していた。
「ディーン様が……この湖の中に……なんたる失態……早く助け出さないと……しかしここは強力な保護呪文がかけられている……保護解除呪文は聞かなかった……大臣の応援を待つしか……」
頭の中で考えていることをついつい口に出してしまうのは、おそらく余裕が無いからであろう。彼は人差し指で自分の太ももを何度もつついた。彼の生来の癖だが、人に見せたことはない。
彼が数分思案していると、突然湖から、数メートルにも及ぶ水しぶきが舞い上がった。彼の背中に数滴のしぶきがかかる。見上げると、ずぶ濡れのディーンが陸に上がって、げほげほと咳をしていた。
「ディーン様っ!!!!! 無事で……」センブリは思わずディーンに駆け寄った。
「私のスーツをどうぞ着てください。立てますか?」センブリは自分の羽織り物を脱ぎ、彼の肩にかけた。よく見ると肩にワールテローも見える。
「けほっ……大丈夫です。それよりも聞きたいことがある」
「はい、なんなりと。立てますか?」ディーンはセンブリの肩を借り、ゆっくり立ち上がった。
「レメディオス様に会わせてほしいんだ」
ワールテローが寝ているので、センブリが帰りの馬車を運転した。センブリは冷静を装っていたが、内心は混乱していた。ティムに内縁の妻がいることは極秘重要事項であり、このことを知っているのはティム自身とセンブリしかいなかったからだ。彼は形式上未婚となっており、国民はおろか城の者にも発表していなかった。
ディーンが湖の中で体験したことをセンブリは一通り聞き、納得した。と同時に、エネ大王の逆鱗に触れかかっていることに危機感を抱いていた。センブリ自身は詳しくは歴史を知らないが、古い言い伝えで、エネ大王はその昔この世界の人々を全てなくさせるほどの大きな力を持っていると聞いていた。くだらない民間伝承と言えばそれまでだが、火のないところに煙が立たないのも確かで、用心することに越したことはない。センブリはいつになく、自分の鼓動が早く刻んでいることを自覚した。
そもそもレメディオス様とディーン様を会わせるなどと、ティム様が納得するだろうか。彼はこの職に就いてから最大の危機に直面していた。ちら、と後ろのディーンを見やると、まっすぐに前だけをじっと見ている。やれやれ、こちらも一筋縄ではいかなさそうだ。
城に着くや否や、濡れた服を着替えることもせず、ずんずんとディーンはティムの部屋へと向かった。例の合言葉を早口で言い、一切後ろを見ず、すれ違う女中にも眼中はないようで、ただひたすらにティムのもとへ進んで行った。
ティムはちょうど書類と格闘していたところだった。
「ティム様、ディーンです。レメディオス様をエネ大王に会わせてください」
いきなり訪問し、唐突に言葉を浴びせたディーンに対し、ティムは片方の眉毛をピクリと動かした。ディーンの後ろから息を切らし、顔面蒼白になっているセンブリと気絶したワールテローも見える。
「レメディオス、と言ったな」彼は顔だけをディーンに向け、体は机に向かったままだった。銀色の長く丁寧に梳かれた髪が、黄昏を浴びて光っている。
「はい。湖で今日、エネ大王とお会いしました。そこで大王が仰るには、レメディオス様の安否がわからなければ、この国に地響きを起こすことも厭わない、とのことでした」
「なるほど。君はそれを、どこで?」
「渡された暗号が、湖の地図になっておりました」
「ふむ。父さんも君もなかなかやるね」とティムは誰にも聞こえないように呟いたがすぐに、
「そうか、君にレメのことを伝えるべき時が来たのだろう」とディーンに向き直った。
「レメディオス様はティム様と婚約しているのですか?」
「厳密にはしていない。彼女自身、婚約などという一つの形式にとらわれるような存在ではない。ただ、私のことも、彼女の父のことも理解している。そのうえで彼女は自由と新しい外の世界を選んだ」
「彼女は今どこに……」
「今は眠っている。彼女は性別が2カ月に一度交代する。変態の時期になると1週間ほど眠り続けるのだ。来なさい」
「ティム様、」センブリが思わず声をかけたが、ティムはそれを制した。
「いずれ知らなくてはならない」
「……」センブリは何かを言いかけたが、一切表情を変えないティムを見て黙り込んでしまった。
「私のベッドをどかせるかな?」ティムはディーンに聞いた。天蓋付きのシルクのバカに大きなベッドだった。
「はい」ディーンは呪文でそれを動かした。すると、ちょうどベッドの真ん中あたりにあったであろう床の部分に扉があった。
「我は孤独である。我は自由である。我は我みずからの王である」
ティムが合言葉を唱えると扉が開いた。
「ついてきなさい」
扉が開くと、中には木製の階段が続いていた。ディーンが歩くたびにギシギシと音がした。明かりもなく、わずかに扉から差し込む光を頼りに彼は慎重に歩いた。ともすると足を滑らせてしまいそうだったからだ。ティムは慣れているのか、足元を見ずにずんずんと歩いていく。ディーンの後ろにはセンブリが続いて慎重に歩みを進めていた。
地下は暗く、大きな空間が広がっていた。呪文の詠唱破棄でティムは自身の右手に明かりを灯した。そこには壁一面にガラスが貼ってある。いや、よく目を凝らすとそれは水槽であることがわかる。銀色のどろっとした液体がたっぷりと詰まっている。
液体の中から、突如一人の女性が現れた。ぬめぬめと湿った白髪で、銀色の瞳の華奢な女性だった。長いまつげも白く光っている。かなりの美人と言えるだろう。
「何じゃ、主か。今日は早いのお」外見に似合わず、中世的な声が響く。
「今日はお客様なんだ、レメディオス」とティムはガラスに向かって優しくつぶやいた。
「なんじゃなんじゃ」彼女は大きな目を丸くして、ディーンの方を見た。ディーンはガラスに一歩近づいた。
「君の愛しの息子さ。君が20年前、シャーレに子守唄を歌っていただろう」ティムはなお優しくつぶやく。ディーンはただ茫然と、ゆらゆら揺れる銀色の波と、レメディオスの髪を見ていた。
「おお、あの時の人形が大きくなったのか。どれどれ近くで見せてみい」ディーンはガラスに額をくっつけた。こつ、と小さな音がした。同じ場所にレメディオスも額をくっつけた。
「我が息子よ……」
ディーンはそのままじっと目をつぶった。レメディオスは優しく笑う。ティムも微笑む。ディーンはじっと目を瞑ったままだ。
「よしよし……」レメディオスは満面の笑みで、ガラス越しに彼の頭を撫でる。勿論その手は彼に触れない。
「強く、生きておったな」
レメディオスはガラス越しに、ディーンを抱いた。彼はただぼうっと立っていた。そのうちに彼は自身の輪郭がぼやけるような、体中の骨が溶けてしまうような不思議な気持ちを抱いた。レメディオスが喋り、動くたび、彼の胸は温かくなり、全てが肯定され、世界は優しく、色に満ちたような気分になった。彼はレメディオスに包まれていた。肌のぬくもりこそ感じられないが、二人はお互いに目を合わせるだけで何かが満たされるような熱い気分になった。
「お母さま……」ディーンは自然と言葉が口をついていた。
「我が息子よ。強く、今まで生きていたな」ディーンは今までに感じたことのないような気恥しさで、思わず顔を赤くした。思えば、彼が真に甘えることのできる存在は、ジャンを除けばレベーカしかいなかった。しかしそんな恥ずかしさを悟られることさえ、彼には恥ずかしく、もどかしかった。
「お母さま、エネ大王が貴方に会いたがっています」冷静さを取り戻すように、ディーンは顔を真っ赤にしながら言った。
「父さまか。まったく、そろそろ子離れしてほしいものだな」レメディオスはぬるぬると滑る頭のてっぺんを掻いた。
「おい、ティム、どげんするか? 儂を移動させてくれ」レメディオスが叫ぶ。
「移動するかね。いったん湖の周りの保護呪文を解除して『すり抜け』で移動するから、少なくとも一週間はかかる。大臣の許可もいるし。だいたい君がお義父様からのテレパシーを無視していたんじゃないか」
「まあそれは言うな。こうしてせっかく息子がいるんだから。ったく、父さんもたったの20年でがたがた言いなさんな」
「エネ大王はお母さまに会わせないと人類を滅ぼすほどの地響きを起こすと仰っていました」ディーンが夫婦げんかに口を挟む。
「確かに親父ならやりかねんな」レメディオスが頷いた。
「君は悪いが」とティムは慈愛に満ちた声のまま続ける。
「義父さんには眠ってもらおう。何度も言っただろう」
「……それができるならば今までにやっているわい」レメディオスは苦い顔をした。
「やっぱりエネ大王は、エネの集合体なんですか?」ディーンがティムに向き直った。
「……そこまでわかっているならば話は早い。今こそ、お互い話すべき時が来たのだろう……。語ろう、我が妻と息子よ」
ティムが通る声で厳かに宣言した。
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