8 竜神少年
紫色の闇が空を支配する頃、廃墟となった街でレンは瓦礫の上に腰掛けていた。
上半身は裸。
彼の驚異的な身体能力を考えれば不思議なほど筋肉は少ない。
その後ろ姿だけ見れば年相応の、つまり普通の小学生にしか見えないくらいだ。
レンは香織とリーメイに背中を向けていた。
肩甲骨の間、意識しなければ触れる事のない部分。
そこに肉眼では確認不可能な極小の『封』の一文字があった。
香織がそっとレンの背中に手を伸ばす。
ちらりとリーメイ老師の方を見るが、彼女は無言のまま頷くことさえしない。
大丈夫、この子はおかしなマネはしない。
万が一に本来の力を取り戻したことで一時的に我を忘れるようなことがあったとしても、おとなしくさせるための仕掛けは万全だ。
レンは……上海の龍童、
「いくよ」
香織の呟きはレンに向かって言ったというよりは、自分の手を先に進めるための確認であった。
右手が虹色の光を放つ。
この光の名は≪
あらゆる能力を一方的に潰す能力だ。
能力封印など触れるだけで解除できる。
レンの第一の封印を解いたのも香織の力だった。
そして香織の指先があの時は気づかなかった第二の封印に触れた。
「っ!?」
瞬間、荒れ狂った暴風のような力がレンの体から巻き起こる。
香織はとっさに距離を取って身構えた。
力の圧が止む。
こちらに背を向けるレンの姿はさっきと何ら変わりがない。
少年はゆっくり立ち上がると、香織の方を振り向いた。
「せいげんは解けたみたいです。どうもありがとう」
レンは律儀に頭を下げて礼を言う。
力を取り戻したことによる高揚はないようである。
少年は自身の両手を見つめ、手のひらを開いたり閉じたりしている。
握り締めた拳の甲に『武』と『闘』の文字、そして胸元に『龍』の文字が浮かぶ。
「また≪龍神詛≫が解き放たれちまったか……」
リーメイがため息を吐き呟いた。
彼女の言う≪龍神詛≫とはラバースでは≪竜童の力≫と呼ばれているレンの体に埋め込まれた力である。
その正体はこの清国大陸に古代より伝えられる呪い。
ラバース上海支社が科学的に研究し、
実験途中で何人……
いや、何百人の被験者が龍神に心を食い破られて死んだかわからない。
龍神詛を受け入れて生き残った人間はレンを含めてたったの二人しかおらず、そのうちの片割れはレンが上海支社を潰した際に命を落としている。
すでに≪龍神詛≫の源泉は枯渇しており、研究過程も闇の中。
レンがこの世に唯一残った龍神の力の継承者である。
近代軍隊をも上回る力を持つ少年。
ラバースコンツェルンの支配を終わらせることができる者。
「レンくん」
この少年を操るために必要な切り札は香織の手の中にあった。
「なんですか?」
「私は荏原新九郎くんの居場所を知ってるよ」
レンのまぶたがびくりとはねた。
龍神の力を持つ少年は荏原恋歌の甥を敬愛している。
仲間内からはシンクと呼ばれている青年、彼にとって誰よりも大切な人物だ。
初めて敗北を教えられた相手であり、その後に行われたアミティエによる洗脳のような人格矯正があったという経緯はともかく、刷り込まれた『好き』という情報は容易に消せるものではない。
香織自身も、今は憎きあの男へのおぞましき感情から解放されるまでに払った犠牲を思えば、好意という感情の持つ呪縛の強さは容易に想像できる。
「シンくんは、いま何をしているですか?」
「暴人窟の人たちを率いて神奈川県内でテロ行為をしてるよ」
そうと知ってなお香織はレンの純粋な感情を利用する。
「ここに来る前に一度彼に会った。初動はうまくいったけど、軍が動いたら捉えられるのは時間の問題だと思う。そしたらきっと――」
再びレンの体から暴風が巻き起こった。
目に見えるほどの薄緑色に輝くエネルギー。
それが風となって体から止めどなく溢れている。
とてつもないパワーだ。
複数の高位能力者を要していた上海支社をたった一人で壊滅させたという話も頷ける。
だが、足りない。
これではまだ足りない。
「ありがとうございます、香織さん。後は自分で探しますから。それじゃ……」
「待って!」
振りむいて歩き出そうとしたレンの肩に触れて呼び止める。
以前とは比べ物にならない力を得たとは言え、一人で行くのは危険だ。
「焦る気持ちはわかるけど落ち着いて。ひとりなんて言わないで私と一緒に日本に行こう。そこで私の仲間たちと合流して、一緒に新九郎君を探そうよ」
今のレンなら本社の能力者にも勝てるかもしれない。
現代兵器を用いた軍隊ですらその身一つで凌駕するかもしれない。
それでも、たった一人ですべてを潰せるほどラバースコンツェルンは甘くはない。
竜神の力を持つレンと、神器所有者のショウ。
この二人に加え、組織内部の綻びを利用して初めて風穴を開けることができる相手だ。
だが。
「おことわりします」
「……え?」
「シンくんは犯罪をして追われているですよね? ゆっくりしている間にシンくんが殺されちゃったら嫌ですから、すぐに行きます」
「な、なにもすぐに危ないってわけじゃないよ。それに、新九郎くんには身を隠すのに使えるジョイストーンを渡してきた。彼だけならいくらでも逃げることはできると思う」
「だったらなおさら自分で探します。せいげんを解いてくれたことは感謝します。でも、ぼくは香織さんの仲間じゃありません。だから言うことを聞く理由はありません」
「な……」
思わず耳を疑ったが、香織は歯を食いしばって気を取り直す。
「別に仲間じゃなくてもいいよ。ただ、敵はあまりに強大だから協力し合わなきゃ……」
「それもできません。ぼくは一刻も早くシンくんに会いたいです」
「少しでいいんだよ! ここから飛行場に向かって、三時間もあれば日本に着く!」
「それじゃ遅すぎです。待てません」
ダメだ、完全に頭に血が上っている。
暴走とまでは言わないが、力を取り戻した全能感に囚われている。
「いくら君が強くっても、たった一人じゃラバースには勝てないよ!」
香織も必死である。
せっかくの切り札を勇み足で失いたくはない。
こんな事ならせめてショウと合流してからここにくるべきだった。
「勝つとか負けるとか、そうれはどうでもいいんです。ぼくはでシンくんを守りたいだけですから」
「……っ!」
レンの言葉に香織は愕然とする。
洗脳に等しい感情操作といったが、すでに完全に常軌を逸している。
以前に読んだ小説、愛しい人のために世界を滅ぼす決意をした恋する乙女の物語を思い出した。
今のレンにとっては世界も、敵も、自分自身の命すら度外視できる事柄なのだ。
多くの人の運命をもて遊び狂わせた憎むべき男、ミイ=ヘルサード。
彼を盲目的に崇拝していたL.N.T.の仲間たちのように。
あれほど強力な洗脳ではないが、彼は己の内からわき出る衝動に逆らうことができないのだ。
それを利用しようとした立場で都合の良い言い分であるが予想以上に感情が強すぎる。
もはや部外者である香織の手によるコントロールは不可能なほどに。
もし、彼の心を動かせるとすれば……
「レン!」
リーメイ老師が少年の名を呼ぶ。
育ての親であり武術の師匠でもある老女。
彼女の言葉ならあるいは思い留まらせることができるかもしない。
そんな香織の淡い期待は老師本人によって打ち砕かれた。
リーメイはなにやら布が巻き付いた棒をレンに放り投げる。
「裸のままってのも格好がつかないだろう、服くらい着ていけ。そいつは餞別代わりにくれてやる」
巻き付いていた布は黒の長袍、子供サイズの清華風衣装である。
しかしレンが驚いたのは渡された棒の方であった。
「これ、武心槍……!」
「ファンロンの形見だよ。大事に使ってやんな」
その名は確か、レンと同じく龍神詛の受け入れに成功した男の名前か。
ラバース上海支社に所属していた能力者で、かつてレンによって倒された人物だ。
「服の方はアタシの手縫いだからね。ボロボロにしたら承知しないよ」
「ありがとう、ばばあ!」
レンは満面の笑みを浮かべて服と棒を掴むと、香織の制止を振り払って駆けだした。
「あ、ちょっと!」
「ドン! いくよ!」
「キュィィ!」
少年は飛んできた子ドラゴンの背中に飛び乗ると、あっという間に東の空へと飛び去って、やがて見えなくなってしまった。
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