第20話 訪問者ともやもや

「あら、まぁ……」


 それは庭でハーブの手入れをしている時でした。仕立てのいい箱馬車が門の前に停まった音がして近づくと、品のいい帽子を被ったご婦人が私の家を見て驚いています。


 手紙を届けて1週間とちょっと、クズハさんがやってきました。


 私はスカートの前に掛けていたエプロンで手についた土を払うと、鉄の門を開けて笑顔で彼女を出迎えました。


「こんにちは、クズハ婦人。はじめまして、魔女のマルグリートです」


「こんにちは。素敵なお手紙をありがとう、クズハ・ニライヤよ。……どうしたことかしら、あの煩い声はもうしないのね?」


「えぇ、原因は排除しましたので! さぁ、中へどうぞ。暫く泊まって行ってくださいな」


 私がそう告げると、クズハさんは少し困ったようにしました。まさかあの別荘が人が住めるようになっているとは思っていなかったのでしょう。


「まぁ、そんな……私は、アオイさんに一目会えればと思って……」


「クズハ!」


 言うが早いか、玄関のドアを開けたアオイさんが狼程の大きさで駆け寄ってきました。


 飛びつくような真似はしません。慎重に、二人の間に横たわっていた時間を噛みしめるように、速度を緩めてゆっくりとクズハさんへと近付き、足元でお座りをしました。


 ゆらゆらと尻尾が揺れています。クズハさんはそっとそのアオイさんの首に腕を回して抱き締めました。


 おや? またもやもやが再燃してきました。理性で抑え込めるものなので構わないんですが、私は一体何をもやもやする事があるのでしょう。


 クズハさんはアオイさんの大切な方です。逆もしかり。その二人の再会が嬉しいのに、何だかとても苦しくて。


 嬉しそうにアオイさんがクズハさんの首元に顔をすり寄せます。そして見つめあって、二人は笑いました。


「マルグリート様、先程のお言葉に甘えてもいいかしら。夫にも、事情を話したら暫く行っておいで、と言われて居るんです。アオイさんにたくさん話したい事があるの」


「勿論です。すぐに客間を用意しますから、中でお茶になさってください」


「ありがとう」


 品の良い婦人は馬車から大きなトランクケースを取り出すと、3日後に迎えに来てと伝えて馬車を帰しました。


 私はクズハさんの側から離れないアオイさんを見ていられなくて、さっと踵を返して家の中に戻りました。


 シェルさんにお茶と、アオイさんの部屋の隣の客間を準備するようにお願いすると、具合が悪いからと自室に篭りました。


 エプロンを外して椅子にかけると、ベッドの上に飛び込みました。そして胸を押さえます。


 暫くすると、リビングの方から楽しげな笑い声、話し声が聞こえてきました。もやもやはどんどん大きくなっていきます。


(アオイさんに勘違いで抱きしめられて好きになってしまったの……? いいえ、なら私はイグニスさんに抱き寄せられて安心したりなんてしなかった。このもやもやは何……? 誰か、誰か助けて……)


 胸の中のもやもやがぎゅっと心臓を締め付けます。


 私がベッドの上で硬く身体を丸め、助けて、と胸中で繰り返していると、ふと顔に影が差しました。


「どうしました、マリー」


「クリス神様……」


 そっとベッドに腰掛けたクリス神様は、今日もラフな格好です。優美な手が、私の頭をそっと撫でます。


 少しだけ胸の苦しみが和らぎました。


「クリス神様……あの、はしたないお願いなのですが」


「なんでしょう? 貴女のお願いならなんでも聞きますよ」


 私はベッドの上に起き上がると、そっとクリス神様に近付き腕を開きました。


「抱き締めてもらっても……いいでしょうか」


「もちろん。おいで、マリー」


 笑って快諾してくれた神様の腕の中に、私は夢中になって飛び込みました。背に回された腕が確かに私を抱き締めると、胸のもやもやが晴れていきます。


 そのまま抱き締められているうちに、なんだか安心してしまいまして。涙がぽろぽろと溢れてきました。


「……辛かったですね、マリー」


「クリス神様、私のこの胸の苦しみは、一体何なのでしょう……?」


 しっかりと片腕で抱き締めたまま、片手でクリス神様は私のとめどない涙を拭ってくださいました。


「貴女は覚えているのです。自分を顧みない婚約者の仕打ちを。本来なら自分に向けられるべき愛情も優しさも、全て持っていかれてしまったことを。前世を思い出したからといって、それが消える事はありません」


「で、でも、アオイさんはカルロ様ではありません……」


 きっとずっと見守ってくれていた神様は、少しだけほろ苦く微笑いました。


「違う女性の名前を呼びながら人生で……これは前世も含めてですが……初めてあんなに強く抱き締められたのでしょう? 婚約者にだってダンスで近付く以上の事は無かったのに。アオイが悪いとは言いませんが、些か貴女には苦い思い出となる初めてになってしまいましたね」


「クリス、神様……っわたし、は、……カルロ様に未練など……なくて……っ」


 しゃくり上げながら、自分の胸の内をゆっくりと話しました。


「前世から、……男性に、求められる事なんて、なくて……だから、わた、私は、今……勘違い、されて……悲しいです」


「マリー……マルグリート」


 涙が止まらない私を、クリス神様は大事そうに自分の胸の中に抱き込みました。


「貴女は何も悪くありません。その胸の苦しみを、私で良いのならいつでも慰めましょう。貴女は傷付いている。傷付けたのは他でもない、あの皇太子です」


「わたしっ、でも、何度も毒を……盛ろうとして……がまん、したんです、我慢したんです」


 私の紺色の髪をゆったりと撫でながら、分かっています、えらかったですね、そう繰り返しながらクリス神様はずっと抱き締めてくれていました。


 ***


「聞いたか、馬」


「勿論です」


 マルグリートの自室のドアの前で、腕を組んで怒りを露わにするイグニスと、凍りそうな程冷めた目をしたシェルが立っていた。


 中の話は全て聞いた。彼らの耳には造作もない事だ。


 カルロという馬鹿皇太子がマルグリートを深く傷付けた。


 看過できる問題ではない。


「見張りからだな」


「えぇ、それがいいでしょう」


「これ以上マルグリートを傷つける真似はさせぬ」


 二人はそれだけ言葉を交わすと、そっと階下に降りて行った。


 今必要なのは、きっと彼女だけの神の優しさだ。


 だから、今後必要な事をするために。今はその役目を奪うより、やるべき事があった。

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