第16話 裏の森のフェンリル

 アオーーーーン……。


 それはとても晴れた夜の事でした。


 慢性的な不眠症に陥っている方が村に何人かいらしたので、その為の薬を作っていました。


 レシピは簡単で、副交感神経有利になるハーブを幾つかと、強制的に体を休ませる麻酔薬と筋弛緩剤をちょっぴり混ぜます。イグニスさんやシェルさんに使った薬より100倍に薄めた量です。


 対人間用ですし、生活リズムが戻るまでの服用なので常用する為の薬ではありません。マウス実験はできませんが、【調薬】の魔法は薬を見たら効能が分かるので便利です。可哀想なマウスはここにはいません。


 それを【調薬】で、飲みやすい丸薬にします。


 さらには【創造】で作ったクリス神様の横顔が印刷された紙袋に入れて完成です。


 私が作った薬は全てこの紙袋に入れて卸しています。卸す時にも、このクリス神様からの御加護で薬が作れるんですよ、と売り込みもばっちりです。近々村に彫像を建てても文句は言われないでしょう。草の根活動楽しいなっと。


 そんな夜更けに、裏の森から遠吠えが聞こえます。ここに暮らし始めてから2週間は経ちますが、こんなのは初めてです。


 シェルさんには厩に戻って頂いていますし(馬の姿で寝てくださいと念を押しておきました)、怪我の経過を診てから屋敷に戻ったので、今はこの家に一人です。


 不思議と怖い気持ちは湧いてきません。どちらかというと、切なくなるような声で遠吠えしています。


「よし……!」


 どうせ私は不老不死、死ぬ事はありませんから様子を見に行こうと思いました。


 チェストの一つからランタンを取り出すと、その中に光魔法を閉じ込めます。


 夜なのでワンピースの上から上着を着て、前例が2件あるので簡単な治療ができる素材を持って、私は夜の森へと一人で出掛ける事にしました。


 玄関のドアを開けると、シェルさんもぐっすりお休みの様子。寝息が聞こえてきました。


 ランタンの頼りない灯りを元に、遠吠えのする方へと暗い森の中を歩きます。


 ザザァ、と風に揺れる木の枝が擦れる音が時折私をビビらせますが、どうにも気になるのでゆっくりと森の奥へと入って行きました。


 遠吠えはかなり近いです。見上げると、高い岩の上で満月に向かって大きな狼のようなものが吠えています。


 訂正します。大きすぎる狼です。


 まだ距離があるのに、その乗っている岩の半分はあろうかという個体の狼です。フェンリルって言うんでしたっけ? 真っ白な毛皮の、もふもふの獣です。


 私はそっと岩の真下まで近付きました。フェンリルを見上げると、フェンリルは視線に気付いて此方を見ました。


 フェンリルの目が大きく見開かれます。え、そんな驚かせちゃいましたか?


 そしてフェンリルはその岩からあろうことか私に向かってダイブして来ました。


(受け止められるか……?!)


 魔力を体力に変換してるので私はかなりの力持ちですが、あの巨体が物理法則プラス勢いよく飛び込んできたら、さすがに受け止め切れないかもしれません。私の10倍はありますからね。


「よいしょぉ!」


「クズハ!」


 思い切り目を瞑って腕を伸ばした私の掛け声とフェンリルの声が重なりました。重くありません。


 というか、もふもふでは無く立派な男性の体を抱き締めている感触がします。腕がちょっと回らないくらいの、大きな男性です。


 恐る恐る目を開けて見上げると、そこには一人の灰色の髪の男性がいました。しっかりと腕の中に抱きしめられています。


「クズハ……クズハ……! 会いたかった……!」


「あのぉ、すみません……どなたかとお間違えのようですが……」


 ぽすぽすと背中を叩いて宥めながら告げると、がばっと体を離した男性は、じっと私の顔を見ています。


 必然的に見つめあって数秒、彼は力なく私の肩から腕を下ろしました。人違いだったようですが、なんだか可哀想で見ていられません。


「あの、よかったらうちでお茶にしませんか……?」


「……人違いをして失礼した。夜道は危ない、女性が森を一人歩きするものではない。茶は要らぬが家まで送っていこう」


「あ、はい……」


 なんだか体格に似合わずとても紳士なお方のようです。


 袖なしの緑の服に、腰には毛皮が巻いてあり、その下に革のズボンを履いています。あのフェンリルがこの人なのでしょうか。歩幅を合わせてくれては居ますが、このままでは置いて行かれるので慌ててついて行きました。


「あの……フェンリルさん?」


「そうだ。遠吠えが煩かったのなら謝罪しよう。晴れた満月の日だけの事だ、許してくれればありがたい」


 特に煩かった訳ではないのですが、先程の様子がどうにも気になります。


「お前は最近あの家に越してきた魔女だろう。ドラゴンの咆哮を止めてくれたことに礼を言わなければと思っていた。……クズハに遠吠えが届かないと歯噛みしていたのだ」


 ここにもドラゴン騒音被害にあっていたお方が居ました。


「いえ、いいんです。……そのクズハさんというのは……?」


 フェンリルさんはその問いには答えず、歩きやすい場所を通って森を抜けます。あとは私の家まで短い道があるだけです。


「お前には関係ない事だ。……抱き締めてすまなかった」


「あの!」


 やはり気になります。踵を返したフェンリルさんの腕を両手で掴んで引き止めました。ランタンが地面に転がる乾いた音がしました。


「お話、聞かせてください。……抱き締められたのなんて初めてなので、その分です」


 これは本当です。喪女アラサーだった前世でも、夜会に出ていた今世でも、あんなに力強く抱き締められた事はありませんでした。


 フェンリルさんは少し考えて、渋々と言ったていで了承してくれました。


「……分かった。非礼を働いたのは此方だ。しかし今日は遅い、明日、明るいうちに伺おう」


「お待ちしてますね。……あの、名前は」


 ホッとして私が尋ねると、フェンリルさんは短く「アオイ」と答えて森の中へ戻って行きました。


「アオイさん……」


 私がカンテラを拾って家に着く頃、また切ない遠吠えが聞こえてきました。


 さっとお風呂を済ませて、遠吠えを聞きながら布団に潜り込みます。


(誰だろう、クズハって……、あんなに力強く抱き締められる女性だったんだろうな……)


 何でしょう、このもやもやは。


 明日は朝に村に行って薬を卸し、食材を買い込んだらお茶の支度をしなければ。


 なのに、何故か、この遠吠えに私は中々眠れませんでした。

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