第五十四話 不貞の二人

 将軍は毎日のように、妻と子供を見て欲しいと言っていたが、ディディモはそれを無視し、市井に教えを広める事を優先していた。無論、全く癒さないつもりではない。ただ将軍は、あの娘が、人間を止める決意をして復讐する程にまで愛した女を焼き殺し、剰えその処刑を「貴人に見せたくない」とのたまった。客人に足拭き用の布を見せたくない、ということはディディモも良く分かる。だがあの将軍は、娘と女の愛を否定した。その扇動をあの白蛇―――後で耳にした所によると、この地域では蛇は聖獣だと言うから尚の事仕方が無かったのかもしれない―――が行っていたとしても、愛を卑しんだその精神や根性が、個人的に気に入らなかったのだ。

「聖者様、それはこの前言っていた事と違います。聖者様は、霊的に愛し合うべきで、肉体による愛は避けるべきだと仰いました。」

 同じ町にいる筈だと思うのだが、シタ・ナーギニーとはあれ以来会えていない。何かしてあげたい、と、ディディモは思うのだけれども、メシアかあの白蛇かが隠しているらしかった。シタ・ナーギニーはディディモとは全く正反対のことを説き、民衆を啓蒙しているらしかった。性欲を制御し、自慰をしないことが理性の人である、という。

 ディディモはその質問をされる度に、首を大きく振ってそれを否定し、何度でも同じ答えを返した。

「いいえ、それは神の教えではありません。では、長老殿、お聞きします。貴方のご両親は、立派な方ですか?」

「如何にも、そうだと確信しています。」

「では、貴方はご母堂の胎に宿り、ご母堂の持つ穴から生まれたと、兄姉や近所の産婆などは言っていませんでしたか?」

「如何にも、大変安産だったそうです。」

 周囲の女たちが、クスクスと笑った。恐らくそれは、その老人の頭があまりにもつるつるのつるっぱげだったので、大変滑りそうだったからであろう。

「長老殿、貴方の瞳の輝きは知性で充ち、平民の身でありながら、さだめし良い教育や知恵によって育まれたのでしょう。それはご両親の愛と、厳しさの故ではありませんか?」

「如何にも、如何にも。とうに死んでおりますが、あの二人を超える男も女もいないと思っています。正直に言うならば、聖者殿、貴方様でさえ同列でございます。」

「その二人が肉体を重ね合わせた結果、長老殿という子供が生まれたのです。もし二人が理性に限りなく近い愛だとするなら、長老殿と言うより良い存在も無かったのです。男に因らず生まれた命は、メシアのみです。しかしそれは、メシアの父が、父なる神であり、そして父なる神はセックス以外の方法で、女を孕ませることが出来たからです。人間はセックスに因らなければ子を授かれません。即ち、地で繁栄する事は出来ないのです。」

「しかし聖者様、それは唯の淫売とは違うのですか?」

 別の男が訪ねた。少なからず、女たちは嫌そうな顔をする。

「愛のある交わりならば、いくらでも交わっても問題ないでしょう。夫婦であったり恋人であったり、愛し合う事は素晴らしい神の恵みです。その愛は何れ子を齎し、親の愛を神の愛とするからです。しかし売春するしか生活する術がないと言う事を理解していながら、セックスを金で買い、相手を再び売春の道に戻すのであれば、それは淫売であり邪淫です。同様に、愛もなく、誠実さもなく、尊敬もないのであれば、例え夫婦でも恋人でも許される事ではありません。」

「それは無理ですよ、聖者様。女房子供なんて、精々三年くらいなら愛し合えますけれども、四年もすると段々可愛げが…。」

「アタシだってアンタみたいなひょうろくだま掴んだって気付くのに三年かかったわァ!」

 本当ならばここで諭すべきだったのだろうが、ディディモは思わず唇を噛みしめた。

 妻が飽きた、夫が鬱陶しい。そんな夫婦のどこにでもある愚痴を、私たちは言う事すら出来ないと言うのに!

「師父、疲れたのなら帰ろう。何れは他の町にも行かねばならぬ。それに、陽ももう沈む。」

 少し待って、と、手で侍従長を制し、ディディモは声をあげた。

「性欲だけが愛ではありませんし、言葉だけが愛ではありません。一人一人、どのように愛に生きるかは、その恵みによって変わるでしょう。…それでは、皆さん、今日の日の糧が家にあるでしょう。また明日、私はここに来ます。」


 将軍の屋敷に戻ると、既に召使たちが食事を用意して待っていた。それなのに、妹子いもこがいない。この所護衛を背子せこに任せているが、月のものでも来ているのだろうか。確かに男所帯で、刺客と雖も年頃の少女でもある妹子いもこは恥ずかしいのかもしれない。

「全く、何処まで行っても、所詮男とは男、女は女ですね。」

「どうした。今日の説教の事か。」

「いいえ、違いますよ。妹子いもこを呼んできてください。食卓の準備をしておきますから」

 少し心配そうだったが、侍従長は額に口付け、奥の部屋へ行った。

 メシアをまだラビと呼んでいた頃の最後の夜、記念とするようにと言われたあの晩餐を、ディディモは飽きもせず繰り返している。三人が葡萄酒に抵抗のある人間でなくて良かったと思う。それに三人はあの晩餐に出ていないので、どうしてもパンが無くなり葡萄酒が無くなった時、パンを薄く切った果物で代替したり、葡萄酒の代わりに油を使ったりしても何も言わない。これがもし禿岩の耳に入ったら、怒髪天を衝くどころではないだろう。自分も随分と応用力がついたものだ。パルティアからは「気持ち」以外は、本当に持ってこなかったのだ。「イシュ」がいたなら、パンに浸す葡萄酒の量まで細かく再現しろとうるさいだろう。

「お帰りなさいませ、師父。ご覧ください、たった今出来上がったのです。」

 奥から妹子いもこが出てきた。顔色は少し悪いようだが、血の気が無いと言うよりも、寝不足、という感じだ。元々刺客だから眠りは浅いが、回数は多い。恐らくその回数を少し減らし、手に持った骨を加工していたのだろう。…骨である。何処をどう見ても、骨である。動物の顎の骨だろうか。歯がまだ残っている。

「………。」

「………。」

「師父、師兄、お気持ちは分かりますが、せめてこれは何か聞いていただけませんか。これはあの信心深いろばの骨を使ったのです。」

 そう言えば、あのろばは頭以外の骨が砕けてしまったのだったっけか。しかしその頭骨を装飾品にしたにしてはあまりに大きいし不格好だ。妹子いもこの細腕の二倍くらいの幅があり、肩から手首くらいまでの長さがある。それにとても持ちにくそうだ。妹子いもこが弓を引くために背中を鍛えていなかったら、女では持てないのではないか。

「師兄、いじわるなさらず、お分かりでしたら仰ってください。」

われにはそれが悪趣味な耳飾りか、扇の成りそこないにしか見えぬ。」

 がっくり、と、妹子いもこは項垂れた。そこへ、背子せこが戻ってくる。少し遅かった。外に不穏な動きがあったのかもしれない。しかし背子せこはそんな報告よりも、妹子いもこの手にしているものを見て歓びの声をあげた。

「あ! やっと完成したのか! やったじゃないか。」

「兄さま、でも師兄ですら気づいてくれないのよ。」

「そりゃお前、使って見せなきゃ分からんだろうな。師父、師兄、今宵の晩餐の前の祈りを、妹が歌にてお納めしたいと申しておりますが、メシアは洗礼のない者の歌をお受け取りになりますか?」

「??? いえ、そんなことはないでしょう。妹子いもこ、どんな歌でもいいですから、私にその楽器…? を、使っている所を見せてください。」

 楽器、と言われ、侍従長は何か思い当たる節が出来たようだった。妹子いもこ背子せこの脛を思い切り蹴り、えへんと咳払いをして、その顎の骨をカンカンと叩き、朗々と唄いはじめた。

「これは私の身体、………雨のみつかい、おんからだとうんちによって…。」

「覚えておらなんだか。」

「師兄、妹は弓以外てんで駄目なんです。」

「メガマワッタ・メガマワッタ、メガ・オーイニ・マワッタ…。」

 妹子いもこは正直何も覚えていないらしい。侍従長と背子せこは、大真面目に顎の骨を叩いている妹子いもこを笑わないように唇に力を籠めている。

 だがディディモは、今こそ妹子いもこに神の恩寵が与えられていると言う事を理解していた。

「メガマワッタ、メガマワッタ、メガ・オーイニ・マワッタ…。」

 同じことを繰り返す妹子いもこの言葉は、アラム語ですらない。ディディモは聞いたことが無い発音と構文を持っていて、しかしそれはメシアに与えられた、全ての国の言葉を理解する耳に確かに届いていた。

「Mea《我が》 Culpa《過ち也》, Mea《我が》 Culpa《過ち也》, Mea《我が》 Maxima《大いなる》 Culpa《過ち也》…。」

 ぐぐぐ、と、愈々腹が捩れそうな背子せこは、まだ妹子いもこが「目が回った目が回った、目が大いに回った」と謳っている様に聞こえるのだろう。だがディディモが大いに真面目に聞いているのを見て、侍従長はその言語が、嘗て学んだ古典であることに気付いたようだった。

 一通り唄いきったらしく、妹子いもこは歯を下向きにして、一回弾いた後、四秒ほど黙って―――後ろを向いて泣きだした。

「いやいやいや! よく唄えてたと思うぞ! うんうん、良い妹だ、一芸に秀でるとはこの事だ。兄さまはくらくらしてしまったぞ。」

「あーん! 兄さまのばかばか、兄さまだって覚えてない癖に!」

「弓の、その『言語』、何時の間に覚えたのだ?」

 侍従長がそう尋ねると、半泣きの妹子いもこはきょとんとして答えた。背子せこはどんなふうに侍従長が妹子いもこをけなすのか、興味津々に見ている。

「師兄、仰る意味が分かりません。」

「その言葉は、われがまだ国王陛下が王太子だった頃、戦乱の隙間に母上が教えてくれた言葉ぞ。今やパルティアは勿論、このサータヴァーハナですら話されていまい。」

「師兄、わたしの言葉足らずを遠まわしにからかうのはおやめください。」

 ぷん、と、拗ねてしまった妹子いもこの機嫌をどうにかしようと、無神経な男二人があれこれと話しかけているのを尻目に、一体いつになったら晩餐になるやら、と思っていると、扉の外に人の気配がした。

 人の、というと、少々語弊がある。正しくは、病の気配だ。ディディモは全く気付いていない男達を放っておいて、召使に言って扉を開けさせた。

「聖者様、お助け下さい!」

 鍵が開くなり飛び込んできたのは青年だった。家庭的な雰囲気を醸し出していた三人が、目にも止まらぬ速さでディディモとの前に割り込む。青年は両手に包帯を巻いていた。手首から先がだらりとなった腕で必死に両手を合わせながら、泣きながら訴える。

「どうか、どうか、僕の手を元に戻してください。聖者様のお言いつけどおりにしようとして失敗して、呪われてしまったのです。」

 侍従長は不思議そうな顔をしたが、ディディモはすぐに、青年の言う「聖者」が、白蛇女の恋人を焼き殺した、あの男だと気付いた。

「侍従長、背子せこ妹子いもこ、彼の告解を聞かねばなりません。席を外してください。」

「しかし師父、この男は両手を隠しています。何を持っているか分かりません。」

 妹子いもこが言うと、かつん、と、背子せこがその頭を柄で小突いた。

「この未熟者、金属の臭いが嗅ぎ分けられないのか。それにこの手から、膿の臭いもするだろう。本当にこの手は萎えてる。」

「刃の、そう本人の前でずけずけ言うものではないぞ。…客人よ、愚弟が失礼をした。われらは席を外す故、ゆるり罪の告白をするが良い。」

 今にも喰ってかかりそうな妹子いもこを右脇に、背子せこを左脇に抱え侍従長は出て行った。青年はおいおいと泣きながら、耳まで赤くなっている。

「今この場には私とあなただけです。貴方の失敗を神が顧みて下さるように取り次ぎます。何があったのかお話しなさい。」

 青年は嗚咽を交えて答えた。

 青年が「聖者」の話を聞いたのは、一昨日の夕方だったという。それによれば、「聖者」は、肉体ではなく魂で婚姻関係を結び、肉欲に因る絆を絶ち、魂に因る絆を強めよと言ったのだと言う。それは、その場にいた、精通や初潮も危うい子供から、とうに精も根も尽き果てた老人、身を売って食いつなぐ娼婦から、カシミヤの着物と金細工に身を固めた貴族にまで、等しく説いたのだと言う。そこで青年は、想いを寄せる旅の踊り子の娘に、霊的な婚姻関係を結びたい、と、告白したのだと言う。もしそれが結ばれれば、例え踊り子がこの街に留まらなくても、永遠に愛し合える、と、考えたのだ。ところが踊り子の娘は、それを拒否し、精神的な束縛よりも開放的な快楽と愛を求めた。挙句の果てに、昨晩まで熱烈に花だ何だと贈ってきていた青年がそのような事を言ったことに不信感を持ち、青年を不能だと罵ったのだ。そして娘は、女に生まれたからには生娘のままでいるのは嫌だ、結婚するなら子供がほしい、と言った。青年は自分以外の男との間に娘が子供を作ってしまうのではないか、と不安になり、思わず踊り子の首飾りを引き千切って殺してしまったのだという。悲鳴を聞きつけて一座の主人や宿屋の者がやってくる足音がした。青年は娘をきつく抱きしめた後、窓から逃げ出した。しかし自分が何を間違えたのか分からないでいると、段々と娘を殺した両手が重くなり、ついには指先一つ動かなくなったのだと言う。

 一連の告白を聞いて、ディディモは深い溜息を吐き、目元を片手で覆った。想像以上に、相手が狡猾だ。

 確かに、魂の交わりは最も理想的な関係の在り方だろう。だがそれは肉体の交わりより尊いとか、そんなことはないのだ。もしそんなことを信じて、頭の中で沢山の理想的な男や女とセックスをする妄想をしているのなら、ちゃっちゃと惚れた相手とセックスすればいい。想いを遂げる事が叶わないからと言って、妄想の中で睦みあうだけなら、その人物は確かに相手の操を踏みにじったかもしれないが、そんな罪は神のみが知っていれば良いのであって、他人、まして肉欲と情愛で繁殖する人間がしゃあしゃあと肉欲を否定して裁くことなど出来よう筈がないのだ。

 けれども人は忘れる生き物だ。そして高みを目指すと言う向上心は、時に悪く働く。だれでもいいから子を為したいと思った激しい本能が、犬や猿が交尾する事と同じように見えてくる。若い頃と老いた自分は違うと思いたくなる。老いた自分の方が、進歩的で建設的で理性的だと思いたくなる。ディディモはそれを否定はしない。しかしそれによって若者の情熱や衝動を嘲笑う事は、それこそイスラエルの律法学者たちと同じだ。自分の事を棚に上げ、嘗て来た道に綺麗な布と像をおいて、美しく飾っているだけだ。

 しかし美しい物を、人は善いものと考えるのだ。だから綺麗事を並べるあの偽物に、青年は惑わされたのだろう。女が子供を欲しがると言うその本能を、神からの使命を、軽んじて嘲笑ったのだ。

「ここに葡萄酒の入った壺があります。両手の包帯を解いて、この壺に浸しなさい。」

 青年は何のためらいもなく、包帯を口で千切って解いた。ぺり、ぺり、と、乾いた膿が剥がれ、むっとした臭いが充満する。膿は血が混じり、薄皮が剥け、まるで毒草の棘で引っ掻いたようになっていた。包帯の端は繊維が解け、瘡蓋に食い込まれていたので、剥がしたところから、真っ黒い血が流れた。ディディモに促され、青年は壺に両手を入れた。

「あれ、痛くありません。沁みません。」

「それはそうでしょう。既にその手は治っていますから。」

 ぎょっとして青年は手を引っ込める。水仕事をしたことのない貴族の娘か何かのように、滑らかできめ細かい皮膚に包まれた手が、葡萄酒を勢いよく弾き、ぽたぽたと絨毯に染みを作っていた。

「なんて素晴らしい!」

「まだ終わっていません、その娘を蘇らせなければ。宿に案内しなさい。…侍従長たち! もうお戻りなさい、出かけますので来てください。」

 侍従長は最早驚かなかったが、少なくとも膿の臭いをかぎ分けた背子せこは、目を丸くして青年の手を凝視していた。


 青年が案内した宿には、既に衛兵たちがいたが、青年が一芝居すると、気の毒がって少女に合わせてくれた。青白く、乾いた砂のような色になった娘に、青年が自分のしたことも忘れて縋りつくと、娘は腕を動かして胸の青年の頭を撫で、目を覚ました。ディディモも、人が蘇るその瞬間は見たことが無かったので、もっと神々しいものかと思っていたが、少し肩透かしを食らった気分だ。

「そうです聖者様、お話しなければならないことがあります。」

「なんでしょう。」

「私が今の今まで、いた場所のことです。そこは地獄である、と、悪鬼が言いましたの。」

 ディディモは嫌な予感がしたが、娘は勝手に話し始めた。

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