第四十七節 随従の二人

 人が崩れ落ちる音がする。二つ。何が起こったのか分からず、イシュは辺りを見回す。ついさっきまで槍を構えていた兵士の足が、腕が、矢で射ぬかれている。

「その処刑、待ったッ!!」

 今在る筈のない声が聞こえた。その声を知らない者などこの場にいない。全員が全員、悲鳴をあげてうずくまった。

 逞しい青駒に跨り、手に弓矢を持ち、群衆の頭の上を飛び越え、その馬の主は国王の前に進み出た。

「国王陛下、お待ちください! この者の処刑の前に、わたくしの証言を、どうかお許しを!」

 王弟だ。

 馬鹿な。四日も前に死んだ筈だ。メシアの業を行う者も無く、ましてやイシャすら救えなかった命が、なぜここに『戻されて』いるのだ。

「きゃあああっ! 悪霊!」

 妃が悲鳴をあげて国王にすがりつく。すると王弟は、うずくまる近衛兵から槍を奪い取り、その刃を強く握りしめた。だらだらと血が流れる。肉体を持っている証拠だ。国王は今にも卒倒しそうな勢いで、それでも震えながら王弟の頬に触れた。

「そなた………。本当に余の弟か?」

「国王陛下―――兄上、確かにわたくしでございます。たった今、鳩の姿の守護霊に導かれ、この大工の助命のために馳せ参じた次第でございます。」

「そんなまやかしになど惑わされぬ! 余は、確かに鳥に啄まれ骨となった余の弟を見たのだ!」

「その通りです。わたくしは四日の間死んでいました。しかし今、肉を持って、善神メシアの力によって、此処に作りなおされたのです。」

 国王は意見を求めるように妃を見たが、妃は真っ青に震えて何も意思表示も出来なかった。国王は暫し王弟の眼をじっとりと見つめ、頬や腹、更に最低限の布で隠している下腹部から足先まで触り、確かに心臓が動き、全身の体毛や、黒子や痣の位置、布に隠された場所には陰茎と陰嚢と陰毛も、ついでに尻の穴もあり、呼吸もしていることが分かると、わっと泣きついて喜んだ。王弟も涙を流して、国王の無事の帰還と、それを迎えられなかった非礼を詫びた。しかし一通り感動の再会が終わると、国王はその喜びもどこかしらに放り込み、イシュを軽蔑して言った。

「弟よ、そなたは騙されたのだ。善神を見たから、守護霊を見たからと言って安易に信じてはならぬ。行いと信仰は別なのだ。」

「いいえ! この者の言っていることに偽りはございません。今すぐそれを証明してご覧に入れます!」

 そう言うと、王弟は槍を持ち、地面に何かガリガリと描きはじめた。一心不乱に、血が流れ、槍の先を汚し、地を穢すこともいとわず、只管描き続ける。イシュはその図面に見覚えがあった。

「弟よ、それは何だ。」

 妃は怯えきって、図面を見ようともしないが、国王はまじまじとその四角が重ねられた図形を見ていた。

「天の宮殿の見取り図にございます、兄上。」

「これがか。」

「既に何名かがこの宮殿にて、兄上がいらっしゃる準備をしておりました。わたくしは死んだ後、最初に網を打つ男に会いました。そして、わたくしがこの大工の建てました宮殿について聞きますと、この宮殿に連れてきて、鳩の使いを呼び、設計図の巻物を持たせ、これを兄上、救世王に見せよと、そう仰せになりました。わたくしが、もう死んでしまったからと渋りますと、形容しがたい光の衣を身にまとった高貴な御方が現れ、『お前の身体を思い出した。安心して行きなさい』と申し付けたのです。そこで、最初に出会った男に案内され、わたくしはこの身体に戻りました。すると、青駒の背中に弓矢が置いてあり、遠くから罵声が聞こえ、すぐにそれが大工の処刑を望む声だと気づき、大急ぎでここへやって来たのです。」

「イシュよ、この図は、そなたが作った宮殿か。」

「………。」

 絶体絶命だった。イシュは大工の仕事こそ教えてきたが、天にどんな宮殿が築かれているかなぞ考えたことが無い。イシュが黙っていると、すぐ後ろで声がした。

「その通りでございます、国王陛下。」

「………!」

「お待たせ、イシュ。帰って来たわ。もう大丈夫よ。」

 イシャだった。王弟の馬の後ろに乗って来たのだろう。縛られたままのイシュに寄り添い、代わりに答える。

「何でしたら、今、天の宮殿のどの部屋に誰がいて、どのように使われているのか、全て証言いたします。」

 あまりにも自信たっぷりに言うので、民衆は遂に、気が触れた様に怖がり、散り散りになってしまった。国王は暫く考えていたが、首を振って答えた。

「弟よ。一度は楽土に行きながら、再びこの憂き世に戻って来たその理由を申せ。」

「恐れながら、この大工のこれからの旅路に随従する許可を得に戻りました。この者は、以前狼藉に襲われ、もう碌に歩けません。わたくしがその脚となる為に、この者のために、スーレーンを、パルティアを捨てたく、今一度の生を授かってまいりました。」

「………。良かろう。弟よ、イシュの縄を解くがよい。」

「父上!」

「娘よ。そなたの夫が帰って来たのだぞ、何故喜ばぬのだ。」

 妃は押し黙った。王弟がイシュの縄を解くと、妃と国王の前にも関わらず、ぎゅっとイシャを抱きしめた。

「お前を遺して逝くことがどれ程無念であったか…。もう大丈夫だ。われが共にいる。」

「殿下………。」

「拒否は認めぬ。われはこの国を捨て、お前と共に行く。」

 あまりにも妃には残酷な場面だった。けれどもイシャは、それに涙を流して答えることしか出来なかった。

「弟よ、そなたの望みは分かった。大工よ、余と娘の非礼を詫びよう。しかし弟を連れて行くことは、一晩待て。」

 妃は、王弟が自分ではなくイシャに駆け寄ったことがショックだったらしい。何も言わず泣き崩れ、妃は父でもある国王の馬に、イシャとイシュは王弟の馬に乗って離宮に帰った。


 離宮に戻ると、罵ったことを詫びる者や奇跡の復活を遂げた王弟について聞こうと、多くの臣民が集まり、イシャは中々眠らせて貰えなかった。

 漸く最後の一人を帰らせたときには、月が中天を超えていた。今日一日、いろんなことがあったにも関わらず、イシャは眠れなかった。

「愛しているのか?」

 ふと、王弟の部屋から国王の声が聞こえた。離宮に戻ってから、ずっと国王と王弟は話をしている。まだ帰っていなかったのか。好奇心に駆られ、そっと足を偲ばせて傍に寄る。

「あの大工を、あの大工こそを、そなたの伴侶としたいのか?」

「妻には…。妃には申し訳ないと思っております。なれど兄上、だからこそ、妻をいまこそ自由に―――本当に好いた男と結ばれるように、してやりたいと、そう思うのでございます。」

「…まさか、娘が身籠っているのは―――。」

「わたくしの子で間違いない筈です。まだ、妻には好いた男がおりません。わたくしを心から愛してくれておりました。だからこそ、イシャを排除しようとしていたのでしょう。」

「この国を捨てて行けば、二度と王弟と名乗ることは出来まい。」

「結構でございます。」

「そなたは、全く別の名前で生きることになる。」

「既に一度死んだ身、今更別の名前で生きることに躊躇いはありません。」

「この国に二度と戻ることも出来ぬ。余が死んでもそうだ。余は―――二度とそなたを弟とは呼ばぬ。パルティアの庇護はない。それでも行くのか。そなたはあの大工を愛しているのか!?」

 ばん、と何かを叩く音がした。間髪入れず王弟が、兄上、と呼びかける。

「わたくしは…。わたくしは兄上と同じく双子の男として生まれて参りました。されども兄上が国王としての責務を果たし、妻を―――妃を授かり、その後義姉上を殺してまで、二度と女は抱かぬと申された時、わたくしの責務も運命も決まりました。その責務を途中で放棄してしまう事はお詫びしてもしきれません。しかし! それでもわたくしは、イシャを支え、イシャの信ずる御方に殉じたいと、そう願って再びこの世に生を受けたのです!」

「………。そなたがあの大工を愛していることは分かった。その証拠に…二年前、余が旅立った時より、今のそなたは瞳が輝いているし、声も生き生きとしている。―――まるで余の娘を嫁がせる前の様に。」

「兄上………。」

「正直、娘を嫁がせたとき、余は取り返しのつかぬことをしたと思った。余と時を同じくして生まれたそなたに、王としての最大の責務を押し付け、余だけが寵愛を求めるなど、端から碌でもない事だったのだ…。そなたが余の孫を見た時の絶望と落胆、余とて分からぬ訳ではない…。それでも諦めず、そなたは再び娘の胎に魂を吹き込んでくれた…。これに報いることこそ、余が出来る最大の感謝ではないか。」

「それでは…。」

「あい分かった。明日の朝より、そなたは拝火教ではなく、イシャの為、そしてイシャの仕えるメシアの為に生きよ。―――そして、余もそなたを再び現世に戻し、余の疑いを晴らした真の炎に仕えることとしよう。」

「イシャが聞いたら喜びましょう、兄上。」

「今まですまなかったな、弟よ…。これからは余も逃げぬ。もし娘が産んだ子がまた姫であったのなら、余は娘をめとり、王太子を余が産ませよう。」

 それからも会話は聞こえていたが、別れを惜しむ兄弟の会話だったので、イシャはその場を立ち去った。


 翌早朝、思っていた通り、国王と王弟は洗礼を望んだ。但し、妃はそうではないし、他の臣民たちにも出来れば知られたくないとのことで、ひっそりと行われた。イシャと、王弟と、国王の三人だけの慎ましい洗礼だ。だがこれこそが、洗礼の本髄であるのだろう。誰の手本になる事も、誰を手本とする事も無く、ただ本能に従い、メシアを求めることが出来るのだから。裏の森の川で洗礼を授けた後、国王は言った。

「余はこれから、拝火教をより完全な信仰とするために、真の炎を灯そう。暗愚な救世王は死んだ。余はメシアより与えられたこのパルティアの支配者として、そして天の宮殿に見合うよう信仰を磨き続けようぞ。」

 イシャは微笑んで答えた。

「今日、この国に救いが来ました。ですが国王陛下、決して拝火教を蔑にしたり、それを信じる者を迫害してはなりません。寧ろ尊び、その信仰が益々磨かれ、メシアの捧げものとなる事をお喜び下さい。」

 そうかそうか、と、国王は笑って手を叩いた。いつかの王弟の様だ。

「安心しなよ、イシャ。ぼくがこの国に残って、国王を律するから。」

「お別れね、イシュ。」

「ああ、これからお前は、その信仰だけで生きていけ。ぼくよりも、王弟の方がずっとお前を愛してくれるし―――何より、その方法でしか王弟は救えない。ぼくのエゴで、王弟の救いを取り上げることがあってはならない。」

「ええ、ありがとう。でも、いままでも、これからも、死が二人を別つ事はないわ。」

「勿論だとも。ぼくとお前は、二人で一人だ。お前はぼく、ぼくはお前だよ、イシャ。だけどもう、お前はイシャじゃない。名前を改めるといい。お前は最早、ぼくの物ではないのだから。」

「師父、そろそろ行こう。」

 王弟が青駒を連れてきて言った。否、最早彼は王弟ではない。メシアに集う、イシャの兄弟なのだ。それを踏まえ、王弟も最早、気軽にイシャの名を呼ばない。

「はい、兄弟。行きましょう。」

 王弟―――兄弟の手を借りてどうにか馬の上に跨った時、バタバタと走ってくる音がした。密偵の双子だ。何だろうと兄弟と顔を合わせると、双子は弓矢を片手に、青駒の前にひざまずいた。

「閣下! 殿下! 閣下のお怪我はわたし共一族の罪にございます!」

「その罪をお赦し頂いた御恩に報いるべく、どうぞぼく達を随従させてください!」

「わたしを閣下の弓に!」

「ぼくを閣下の刃に!」

 そして双子は、示し合わせたわけでもなく、声を揃えて言った。

「害する全てを排除する為の恩寵をお授け下さい!」

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