第二十六節 宮殿の二人

 宮殿は非常に立派なものだったが、イシュには虚飾の宮殿にしか見えなかった。至る所に動物の像や燭台があり、本当に異教の地に来てしまったのだと痛感する。衛兵たちは、イシュが宮殿の中に入るには余りにも小汚い恰好をしているのを見て訝しげに見ていたが、すぐ傍を高貴な男が歩いているのを見ると、うやうやしく頭を下げた。本当にこの高貴な男は何者なのだろう。宰相だろうか。

「国王陛下、イスラエルより、一の大工がやってきました。」

 謁見室に入って、驚いた。高貴な男に、もじゃもじゃの髭を付け足しただけのような、瓜二つの男が玉座に座っていたのである。

「おお、待ちくたびれておったぞ。これ以上待たせようものなら奴隷買いらの首を刎ねねばならなかったわ。」

 見た所将軍に近い王の様だ。かつて聖都を納めていた、大王や賢王の類ではない。国王はイシュを近づけさせ、臭い息を吹きかけながらゲラゲラと笑った。

「弟よ、本当にこの冴えない男がイスラエル一の大工なのか? 噂によれば、最近大工が十字架刑に処されたようだが、この男は碌にかんなも持てそうにないぞ。」

 王弟殿下だったのか。これまでの高貴な男への扱いに合点がいった。

「間違いなくこの男でございます、国王陛下。この者はわれらの言葉を全て理解しております。」

「ほう? では何故このパルティアへやって来たのかは知っているのか? 余は今あまり時間がない。適当な答えならば首を刎ねるぞ。」

 するとイシャが答えた。

「国王陛下、私はシリアで大工の仕事をしているところを、奴隷買いによって連れ去られました。しかし私の主人がここに来る事を許可しましたので、ここに拝謁させて頂いている所存にございます。」

「お前、よくそんなに口が回るな…。」

 イシュが呆れ返っていると、また国王はゲラゲラと笑った。品のない男だ。

「成程! 確かに流暢に喋りおるではないか。面白い。ではそなた、自分は何者で、誰に仕え、何が出来るのか、申してみよ。」

 この手の支配者はご機嫌取りをし過ぎても拗ねるし、かといって礼儀を欠いても拙い。イシュはイシャに任せた。

「私の生まれはベツサイダ、育ちはガリラヤ、先祖はカナに住んでいました。私はイスラエルの総督でも王でもなく、真なる真の王にお仕えしております。私は大工なので、石を測り、家を造ることが出来ます。」

「ほう。では余が、宮殿を建てよと言えば、そなたは建てられるのか?」

「この世の何よりも尊く美しく、また高貴な宮殿を建てることが出来ます。」

「ほうほう! これほどはっきり言うのでは、よかろう、この者に託してみようではないか。これ、あれを持て。」

 国王は婢の一人を遣わして、巨大な袋を持ってこさせた。じゃらん、と音がする。硬貨だろうか。

「余はこれから、二年余り北へ遠征に行かねばならぬ。その間、余の為に『尊く美しく、高貴な宮殿』とやらを造っておいてほしいのだ。この城も歴史ある城ゆえ、この城の雰囲気を壊さず、且つ新しい国を統べる余、この救世王の名に恥じぬものを造ってほしい。その為には、如何に遠い国の者であっても呼び寄せるように命じてある。」

 あまりにも思い上がった発言に、思わず吹き出しそうになったが、堪えた。この世を真の意味で救うに値するのはこの粗暴な将軍ではなく、何も持たず惨めに死んでいったメシアただ一人だというのに、この男は分かっていない。イシュとイシャが口を揃えてメシアについて証言しようとしても分かろうとすらしないだろう。実に憐れな男だ。

「分かりました、国王陛下。それでは、二年後までに、その宮殿を建てるとお約束申し上げます。しかし、それには条件があります。」

「ほう? 余に条件とは、面白い奴よ。」

「国庫の全てを、宮殿の建設費に回して頂きたく存じます。遠い地にいる仲間への伝達や、私の弟子になる者を募ったり、彼等を住まわせる家を借りたり、素晴らしい宮殿を建てるには、この国の国庫のお金を全て頂戴しても足りません。」

「良かろう。大蔵大臣に、そなたの言う事を良く聞く様に命じておこう。他には何か欲しいものはあるか? 宮殿の為なら何でも遣わそう。」

「それでしたら。」

 イシャは少し考えて、イシュに話を振った。

「ねえ? 王弟殿下は何を悩んでらっしゃるのかしら?」

「そんなのぼくが知るわけないだろ。でも仮にも王族に生まれて兄が国王でって、そりゃ悩みの一つや二つ、ない方が可笑しいだろ。あの様子じゃ、国王と王弟は双子だろ? 運が良けりゃ、国王に成れたんだろ? 面白くないわな。」

「そうねえ。でも、もしここで宣教するなら、先ずは一番初めにわたし達の前に現れた悩める羊じゃない?」

「聖霊が導いているのはお前だ。お前が決めろ。」

「わかったわ。」

 イシャは国王の方を向き、一度後ろを振り向いて、また前を向いた。

「王弟殿下のお世話をさせて頂きたく存じます。」

「は!?」

 王弟が一番驚いていた。国王は目を瞬かせ、何故に、と問うた。困ったイシャは、適当な理由を付けた。

「私がパルティアに着いた時に、王弟殿下がお慈悲を下さったのです。私は国王陛下が戻られるまでの間、その御恩に報いたい所存です。」

「ふむ…。弟よ、確かお前の所では、四十日前に付き人が死んでおったな。」

「し、しかし畏れながら国王陛下、この者は陛下の宮殿を建立する者で、わたくしなどの世話をする暇など―――。」

「あいわかった。余の偉大な宮殿を建てるという、大義の下働く程の者の願いの、なんと小さく愛い事か。よかろうよかろう、たった今から、そなたは我が弟の付き人となるがよい。弟よ、お前は余のいない間、この国を統治し、この者に協力して新しい宮殿を造るのだ。」

「お、お待ちを、国王陛下―――。」

「有難き僥倖にございます、国王陛下。」

「弟よ、そう言うわけだから、当面の面倒は見てやるのだぞ。さあ、今夜は宴じゃ宴じゃ! 余の出征を記念とし、この遠征が偉大なるパルティアの大きな一歩となる前夜祭よ!」

「………。」

 王弟は呆然と言った風にイシャを見た。イシャは、彼に笑顔を向けた。


 宴もたけなわと言った頃、国王はしとどに飲んで目も当てられない程になり、寝室に運ばれていった。今は下男下女が凄惨な食べ残しを片づけている。イシャもかなり酒を飲んだ―――というか飲まされたので、少し外の空気が恋しくなった。召使たちに聞いて、外に出ると、城の窓辺で王弟が佇んでいた。イシャは声をかけてみた。

「王弟殿下、私がお付になるのはお嫌ですか?」

「………。ああ、お前か。」

しもべは傍にお控えしているものですが、今はお一人が宜しいですか?」

「構わぬ。よれ。」

 宛がわれた異邦の服を、優しい満月が染め上げる。着てきた衣服は、今イシャの腕の中で丸まっている。王弟はそれを見て、不思議そうに言った。

「その服はそんなに大切なものなのか。」

「はい、大切なものです。」

「親の形見か。」

「いいえ、私の主の教えによります。」

 そう言って、イシャは衣服を手摺の上からビラビラと開いた。下で、何か黒いものがどよどよと動く。王弟は、それが何なのか分からないようだった。

「王弟殿下、今私が外へ投げたのは、今宵の宴の品々の余り物です。城下の者達は皆餓えているのに、城の者は机から零れる僅かなパン屑さえ与えないのです。」

「お前は、餞民に施しをするために自分の服を使ったのか。」

「施しなんて滅相もございません。この食べ物は皆、主から無償で頂いたもの。それを力のある者だけが独り占めするなど、主は心を痛められます。」

われはお前に何かを渡した覚えはないが。」

「私は今、王弟殿下の付き人ですが、それは私の本当の主がそうせよとお命じになられたからなのです。」

 王弟はきょとんとして向き直った。

「お前は国王陛下と面識があったのか。」

「いいえ。」

「ではお前の主とは誰か。」

「私がこれから宮殿を建てる方です。その方は真の知恵であり、太陽であらせられます。」

「お前は善神からの預言者か。」

「いいえ。私はメシアのしもべです。」

 何もなくなった衣服を丸めて、イシャは向き直った。

「王弟殿下と国王陛下を始め、ローマ帝国支配下の人々は、大変信心深いお方ばかりです。宮殿の中には、拝火教の名に恥じぬだけの大量の灯がありますし、アテネのように、名前を知らない神ですら奉っておられます。ですので、その名前の知らない神について、私が証を致しましょう。」

「その名前の知らない神の名は、何というのか。」

 イシャはメシアの名前を告げた。王弟はやはりきょとんとして、残飯を漁る下々を見下ろしながら言った。

「冗談は好まぬ。故に、そのような戯言は好まぬ。」

「王弟殿下が御心を開いて、その内の悩みを話して下さるまで、私は待ちます。」

 すると王弟は、弾かれたように驚いてこちらを見つめた。イシャはまるで誘惑するかのように、にこりと微笑む。

「まだ残飯が残っています。あの者達に分けたいのですが。」

「好きにすると良い。」

「有難うございます。」

「おい、そこの者。」

 イシャが戻る前に、王弟はたまたま近くにいた瓶担ぎの少年を呼び止めた。

「その瓶担ぎの少年に手伝わせよう。布ではたかが知れている。今夜の宴のために空けられた瓶は、酒だけで六つは下らない。」

「有難うございます、殿下。」

 イシャはそう言って、瓶担ぎの少年の元へ行った。


 会場にはまだまだ沢山の残飯が残っている。食べかけのパンや果物を全て詰め込み、イシャは瓶担ぎの少年を連れて宮殿を出ようとした。その時、衛兵の一人が、槍で道先を阻んだ。

「何を邪魔するのですか。」

「至高なる王への供物を、下賤の痴れ者に渡してはならない。貴方の生まれた国ではどうか知らないが、この国ではギリシア人の他は、四つの身分によって、死の行く末さえも決められている。」

「その身分を創った方が、私にそうせよとお命じになっているのです。そこを退きなさい。これは貴方の神からの命令です。」

 イシャが余りにも堂々と言うので、衛兵は渋々槍を引っ込めたが、もう一人の衛兵は、扉を開けるのを渋った。

「大工よ、心がけは立派かもしれないが、今外は飢えた民衆でこぼれている。その食べ物を狙って宮殿が穢されては元も子もない。」

「この宮殿にはこの国の人々を満足させるだけの食べ物があります。もし無くても、私の主が足りない分を補ってくださいます。だから扉を開きなさい。」

 衛兵達は顔を見合わせたが、イシャが退け退けと煩く言うので、やけくそになって思い切り扉を開いた。門扉の向こうの柵から、食べかすを拾おうとする民衆たちの腕がうようよと伸びている。小枝のようなそれらは、まるで嵐に揉まれる枯木のようだった。

「何をしているのです。瓶の中身を返して御上げなさい。」

「返す?」

 瓶担ぎが戻ろうとするので、イシャはむんずとその首元を掴んだ。

「それらの食べ物は、元々彼らが作った物でしょう。余ってもう要らないのならば、お返ししなさい。」

「は、はあ…。」

 瓶担ぎは今一釈然としない顔をしながらも、瓶をおっかなびっくり柵の前に置いた。瓶は破壊され、中身が零れだすと、下の方でうめき声がする。誰か押し潰されたのだろうか。それでも必死に食べ物を掻き集めるその姿は、唯々只管憐憫れんびんしか感じられない。彼等には、地上の火ではなく、天上の火が必要なのだ。

 瓶の中身が無くなった頃、後ろに誰かがやって来た。振り向くと、別の瓶担ぎの男が、瓶と柄杓を持ってきたようだった。酒が入っているらしい。イシャが道を開けると、男は及び腰になりながら、柄杓に酒を汲んで、そっと差し出した。液体だと気付いた腕が一斉に皿を作り、更に及び腰になったが、恐る恐る柄杓を傾けると、手が一斉にそれを飲み干していった。ふと気が付くと、最初の瓶担ぎの少年がいない。まあ、初めてならば怖がるだろう、と少し寂しく思っていると、宮殿の奥から、次々と少年が仲間を連れて戻ってきた。どうやら勝手口で用をしていた者達らしい。

「おい。」

 頭上で声がした。王弟だ。

「来い。話がある。」

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