第二章 双子の王

第二十五節 奴隷の二人

 それからイシュは、暫くの間イシャを受け入れる為にシリアに旅に出た。

 ―――というのは建前で、実はイシュがシリアに行ったのには別の理由がある。

 会計士の分を補った十一の弟子と使徒たちは、其々がどこへ宣教に行くか決めたのだが、イシュは最も遠いインド・パルティアへ行くことになった。が、正直イシュは東の果てには特に興味がなかった。というより、良い印象が無かったのだ。メシアがお生まれになった時、遥か東から賢者がやって来たという話こそ聞いていたが、東といえば占星術だの太陽神だの拝火教だのローマとの政治だの、とにかく悪いイメージしかない。その上、パルティアは、聞くところによれば、つい最近統一され直されたばかりの国だ。そのような国は、未だ部族対立が激しいに決まっているし、既存の宗教もユダヤ教―――否、自分達とは相いれないものだろうという話も聞いている。真の太陽であるメシアを崇める自分たちは、今ではユダヤ教ナザレ派という新興宗教の扱いだ。そんな出来立てほやほやの歴史も浅い宗教が、何百年と続き土着した、ましてや偽の太陽神などという余計こじれそうなモノを信仰しているのだとすれば、行ったところでどうなるか、結末は見えているというものだ。

 そう言う訳で、イシュは東へ行くと偽ってシリアに赴き、そこで雇われ大工をして暮らしていた。と言っても、給金があるわけではない。ほとんどが、家を理不尽に壊されて途方に暮れている人のために無償で行っていることが多かった。そんなイシュの心意気に胸を打たれたシリア人の大工たちが何人か集まってくれ、イシュは彼等にメシアの教えを説いた。少し予定と違ってしまったが、こんな宣教でもいいのではないか、と思い始めている。

 そんなある日の事、いつものように無花果桑の下でイシュが石を測っていると、何やら異邦人がこちらを見ているのに気が付いた。この界隈では別に大したことではない。無視して、作業を続けていたが、その場にいた何人かの大工は、次々といなくなっていった。

「おいお前! 親石選びはどうした!」

「ちょ、ちょっと催しちまったんスよ! すぐに済ませてくるから待っててほしいッス!」

「ったく、しょうがないな…。」

 隅の親石がなければ家が直せないではないか。

 ぶつくさ文句を言いながら構わず石を次々測っていると、先ほど見かけた異邦人が近づいてきて尋ねた。

「この辺りで、一番腕のいい大工を知らないか?」

「大工? この辺りで?」

「そうだ。王の宮殿を建てる為に世界中から腕のいい大工を探している。」

「それだったら、さっきそこで親石選びをしていた禿がこの界隈で一番だと思うよ。親石選びは職人がやるからね。」

「お前は?」

「ぼくは唯の雇われ大工だ。あの職人の方が稼いでるし、経験も多いよ。」

 異邦人たちは、何かぶつぶつと話しこみだした。何を言っているか大体は聞こえていたが、無視して石を削る。しかしいつまでたっても異邦人が離れていかない。いい加減鬱陶しくなって、イシュは異邦人たちに喰ってかかった。

「仕事の邪魔だ。とっととどっかに行ってくれないか。」

「アンタ、パルティアに来たことはあるのか?」

 ギクリとしたが、イシュは溜息を吐いて言った。

「パルティア? ぼくは行ったこともないし行こうとも思わないね。」

 すると異邦人たちは目を合わせて、突然イシュに殴りかかって来た。間一髪でそれをかわし、咄嗟に削っていた石を蹴り上げると、男の一人の顎に命中した。だが異邦人たちはそれでもイシュに襲いかかってくる。

「な、なんだよ! やんのか!」

「こいつがあの男が言っていた、ここ一番の大工だ。絶対に逃がすな!」

「な、な、なんでそうなるんだよ!」

 訳が分からないが、とりあえずあの禿が戻ってこない事には自分が狙われるらしい。とりあえず禿が逃げて行った方に逃げる。幸か不幸か、それは助けを呼べそうな人がいる街とは、正反対の方面だったが仕方がない。あの禿を差し出せば、自分は助かるのだということだけが分かっていた。

 郊外に走ると、そこはどこに身を寄せる事も出来そうにない荒野だったが、イシュは知っている。石切りの時に出来た、職人だけが知っている洞穴のような場所があるのだ。イシュは一先ずそこに隠れた。丁度日陰になっていて、休むにも丁度いい。

「ったく、一体誰と間違えてんだ?」

「もしかしたら、『あの男』って、他の使徒の誰かじゃない? アンタがパルティアに行っていないことがバレたのよ。」

「バカ言うな。シリアで十分宣教してる。今更行く所がシリアだろうがパルティアだろうが天国だろうが変わらないよ。」

「そうかしら?」

「そうに決まって―――。」

 その時、ざり、と何か踏みしめるような音が聞こえた。驚いて振り向いた瞬間、首を握られ持ち上げられる。不思議と殺気は無いような気もするが、頭が弾け飛びそうな錯覚に陥った。

「旦那! いましたぜー!!」

 粗暴な男の言葉を聞いた後、イシュの四肢から力が抜け落ちた。


 暗闇の中で、静かに呼吸をしている。イシャが、誰かと話している。その光から、すぐにそれがメシアだと分かった。

「メシア! あの、その、ぼくは…。」

 パルティアに行かなかった言い訳をしようとすると、ぴと、とメシアの人差し指が唇に当てられた。メシアは微笑み、言った。

「恐れることはない。君はこれから宮殿を作ることになる。」

「メシアのですか? メシア、今どこに暮らしているんですか?」

「私が使うのではない。私の兄弟たちが使う。私の後に続く者の為。」

「他の?」

「その通り。これから聖霊はイシャと共に在る。迷い事があるならイシャに尋ねなさい。私はこれまでもこれからも、君のメシアで、神であるから、何も恐れずにイシャの声に従いなさい。」

「仰せの儘に、我がメシア。」

「目を開きなさい。そこで君は、イシャを受け入れる人と出会う。」

 言われるがままに目を開くと、そこは積荷倉庫の様だった。葡萄酒の樽が沢山並んでいて、手を後ろ手に縛られている。床が上下左右に無尽に動くので、恐らくここは貿易船の貨物庫だろう。

「…え、嘘? 陸じゃないの!? そりゃ無しだって!」

「騒いでもどうにもならないわ。精々船長に殺されないように大人しくしてなさいよ。」

「どうせぼくは不安症だ。お前は楽観的すぎる。」

「でも、他に縛られている人もいないから、もしかしたら少々手荒だけど大事にされるかも知れないわよ。大工を探してるって言ってたじゃない。」

「ぼくは異邦の建築技術なんか知らないぞ!」

「どうにかなるでしょ。」

「お前は職人の世界を舐めてる。」

 イシュは深い溜息を吐いた。

 しかし、確かにイシャの言うとおり、ここが陸でないのであれば、逃げようがない。昔、海に放り投げられて魚に助けてもらった預言者がいたが、イシュとてそこまで無謀ではないし、自分で言うのも難だが、信心深いとは思っていない。仕方がないので、ごろんと横になって、寝ることにした。そう言えば件の預言者も、船が嵐で揉まれている時、船の下層で寝ていたんだっけか。幸いにも船は穏やかに進んでいるようだ。


 微睡みだしたころ、突然大きな音がして、光が差し込んできた。誰かが戸を開けたらしい。外から大柄な男がやってきて、イシュの頭を無言で掴み、引きずり出して行った。何か下手な事を言って殺されては堪らないので、イシュも黙って歩く。

 と、その時、突然男がパッと手を離し、肘と膝と頭を地面につける奇妙な姿勢を取った。周りに居た男たちも、次々と同じような姿勢を取る。どうしていいか分からないでいると、遠くから馬の蹄のような音が聞こえた。メシアはろばを好んだから、久しく聞いていない支配者や暴君の登場予告音だった。何が何だかわからないまま殺されるのはごめんなので、後ろ手に縛られたまま、どうにか似たような姿勢を取った。

 騎乗の主は、表を上げよと命じて、イシュをまじまじと見つめた。

 顔はギリシア人ともローマ人ともユダヤ人とも違う、彫りの深い顔をしていて、肌の色は茶色い。目は細く、睨んでいるようにも見えたが、その表情は穏やかで、薄い瞼の隙間から覗く黒真珠のような瞳は、とても清らかに見える。年は、イシュと同じ年くらいだろうか。イスラエルでも何度か出稼ぎ労働者として見たことがある。遥か東に生まれた人間の、特徴的な顔をしていた。服装はかなり豪華で、見るだけで柔らかそうな布と重たそうな大きな首飾りを付けているのが印象的だった。青駒の馬の毛並みは、それらの装飾品を良く際立たせる。

「そのユダヤ人が、国王陛下御所望の大工か。」

「はっ、現地のユダヤ人が、この銀貨二十枚と引き換えに、この男を買うようにと言われまして。この男ならば、我々の言葉を理解しているからだと。」

「ユダヤ人よ、それは本当か。」

 イシュには、彼等が話している言葉も、自分たちが日頃使う言葉も、両方同じように理解できていたので、はい、と答えた。すると馬上の男は馬を下りて、剣を抜くと、突然奴隷買いの首元に振り下ろそうとした。いくらなんでもそれはない、と、イシュが奴隷買いを突き飛ばすと、男は不思議そうな顔をした。

「何故邪魔をする。この男は国賓である貴殿を奴隷の様に扱った不埒者ぞ。何故貴殿はこの男を庇うのか。」

 するとイシャが声を張り上げた。

「彼は何も知らなかった。奴隷買いだから、奴隷買いのように振舞っただけです。慈悲深い高貴な御方とお見受けいたします。どうぞ彼等にお慈悲を、彼等は自分が何をしているか分からなかっただけなのです。」

「イシャ! お前、何でそんなことを…!」

「面白い。銀貨二十枚では惜しいくらいに面白い奴だ。良かろう、貴殿に免じてその男は恩赦しよう。だがそれではわれの気が済まぬ。貴殿を宮殿まで馬で届けよう。」

「私は主にお仕えする奴隷の一人です。高貴な御方を退けることは、我が主の意向に反しますので、それは出来ません。」

「………。」

 すると高貴な男は、ふっと口元を釣り上げた。

「益々面白い奴だ。この国の者は皆吾われを担ぎ上げるのに、貴殿はまるで無垢な聖火のようだ。われらは火を尊ぶ。火を体現したかのような貴殿の精神を、われは尊重したい。」

「それならば尚更、お受けする訳には参りません。私は一介の隷、そのように持ち上げられてはなりません。」

「強情な奴め。では共にこの馬を牽いて宮殿へ歩いて行こうではないか。それなら文句はあるまい。奴隷買いよ、縄を解け。」

 恩赦をしてもらった礼も言わず、奴隷買いはイシュの縄を解いた。案内しよう、といった高貴な男は、暫く黙っていたが、やがて口を開いた。

「そう言えば貴殿の名を聞いていなかった。貴殿の名はなんという。」

「イシュと申します。」

「イシュ…。確かアラム語で『男』という意味だったな。」

「ご無礼でなければ、お名前をお聞きしたいのですが。」

「名乗るほどの価値のある人間ではない。好きに呼ぶと言い。貴殿は国賓だからな。」

 何故だろうか。その言葉は酷く寂しげに聞こえた。まるでメシアと出会う前のイシュのような―――何か深刻な悩みを抱えている、と、直感で分かった。

 暫く他愛のない話をした。

 高貴な男は、どうやら国王にかなり近しい存在らしい。服の装飾から見ても、恐らく国王の縁者だろう。宮殿での発言力もある程度にはあるらしいが、彼は森で狩猟をしている事の方が好きなのだという。昔から病気知らずらしく、気弱になったことはあまりないと言っていたが、虚勢を張っているのが直ぐに分かった。

 彼の悩みはどうやらかなり奥深いらしい。そう簡単にメシアの教えを教えるだけでは解決されないだろうと直感する。ただ、もしメシアがこの理不尽すぎるやり方で、パルティアへの訪問を導いたのであれば、恐らく一番に救うべきはこの高貴な男だろうと思った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る