第二十一節 引導の二人
番人小屋にたどり着いたころには、中天を過ぎていた。こんな状況だと言うのに、禿岩は泣いて体力を使ったからか、腹の虫が鳴きはじめていた。小さな番人小屋に大の男が四人もいると、流石に狭いし、暑い。ギシギシ軋む家鳴りが、外に響いているんじゃないかと思った。小さな窓から、外の様子を見ていると、誰かがこちらに向かって走ってくるのが見えた。
「黙れお前ら! 誰かこっちに来る!」
「ラビー!」
「兄さん黙って!」
四人は窓から下の空間にじっと縮こまる。ザリザリと徐々に近づいてくる音だけが家の中に遠く反射する。
「…………。」
「…………。」
「…………。」
「…………。」
「…………足音…。」
「誰かいるのか!」
「ぎゃーっ! ローマ兵だローマ兵だ! 殺されるー!」
「兄さん待って! この声は取税人だ!」
バタバタに傷んだ窓が叩かれて、ばき、と音を立てて外れる。突き刺すような日差しの中、元取税人が上半身を家の中に乗り込んできた。
「あっしは『元』がつく取税人でい! そんなことより皆さん方、こっちン方に会計士が走って来んかったかい?」
「会計士様ですか? 見ていませんが…。」
「会計士、そう言えば晩餐から見ていないけど、どこに行ったんだ?」
イシュが元取税人を家の中に引きずり込み、落ち着いて話を聞こうとするが、更に部屋は暑くなった。外れた窓を強引に押し込んで、日差しを遮る。
「あっしはあの後ラビをお助けしようと、ちこっと思って、神殿に行ったんでさあ。神殿の祭司たちに、ラビが如何に潔白か訴えようと思ったんでね。ところが、その神殿から、会計士が酷い顔色で出てきて、『こんなもの!』って叫んで、何か投げ込むと、エルサレムの外へ走って行っちまったんでさ。エルサレムの外を一周ぐるりと回ったんですけど、一向に見つからねえ。なんかこう、胸の奥がざわざわざわざわして、あっしはラビもそうですけど、会計士も心配なんでさ。」
別にイシュはあんな奴がどこで何をしていようと構わなかったのだが、何となく他の四人が、会計士も含めて探そうと言う風に話を持って行っているので、仕方なく頷いた。
「………。おいイシュ。」
突然、ずいっと禿岩が涙と鼻水でガビガビになった顔を近づけ、くんくんと鼻の穴を膨らました。
「お前、今屁こいたか?」
「な、何をこんな時に! してないよ!」
「そうか? なんか臭いぞ。」
言われてみると、確かに谷底の死体の腐臭に加え、新鮮、と言うと少し語弊がありそうだが、少なくとも今朝はしなかった糞尿の匂いが確かに混じっている。
「これは…。すみません、会計士様は神殿から出て来たとき、如何なご様子だったのですか?」
医者は何か心当たりがあるらしい。何か切羽詰った様子で取税人に掴み掛る。
「どうって…。なんか、涙流して、俯いて、思いつめた感じでさ。」
「禿岩様、臭いのする方に案内してください。会計士様がそこにいらっしゃるかもしれません!」
「え? 何あいつ、今便所行ってるの?」
「いいから早く!」
「こんな時位しか役に立たないんだから、兄さん早く!」
「お、おううう?」
五人が番人小屋をどたばたと出ると、番人小屋は、もうお役御免とでも言わんばかりに、派手に潰れてなくなってしまった。
轟音の余韻が、谷に静かに響き渡る―――。
禿岩の鼻は鋭く、咲いた花と谷底の腐敗臭を嗅ぎ分けて、きちんと目的地までやって来た。
やってきて、禿岩は余りの出来事に仰天し、その場に引っくり返って怯え、放尿してしまった。強い臭いに、丈夫が鼻と口を覆って、元取税人は吐き戻していた。イシュは呆然と、ゆらゆら風に吹かれて揺れる、浮腫んだ醜い身体を見上げている。医者はもう見慣れているとばかりに、樹に登り、ナイフで首を吊っていた腰帯を切った。死んで内臓の溶けかかった身体は地面に叩きつけられ、真っ二つに折れた身体から、足元の糞尿の溜まりの中に、臓物の全てを注ぎだす。脆くなった四肢は千切れた。
「縊死してほぼ一日…位ですかね。恐らく、ラビが逮捕されて直ぐに、元取税人様が追いかけて直ぐに…。」
医者は涙を流し、自分の上着を脱ぐと、どろどろになった会計士の成れの果てを丁寧に包み、谷の底にそっと投げ入れた。ぐちゃ、と嫌な音がする。
「畜生ォ、あっしがもっと早くここにきてりゃあ…!」
「お終いだ…。もう皆お終いだ…。」
「何言ってるんだ丈夫! ラビはローマ兵なんかに屈しない!」
「そうだとも弟よ! 我らのラビはローマの悪政を正すために神から遣わされてきたんだ。こんな所でくたばるわけがない! きっと御栄光を表して、光と共にローマ兵を
すると、取税人が禿岩の頬を張った。あまりのことに驚いて、全員動きが止まる。
「何を世迷言を言ってんでい、禿岩! あっしは見たんですぜ、今にも死にそうなラビの御顔を! 犬のションベンかけられても抵抗すらできなかったあの御顔を! あの卑怯者が裏切りなんてしなければ、ラビは確かに今頃ローマ兵を
「お前はラビの何を見てきて、何を信じて来たんだ! ラビは死人を蘇らせ悪霊を追い出して見せただろう! あの方は神から遣わされた教師なんだ。こんな所でくたばるものか!」
「分かっていないのは兄さんの方だ! 僕達はそりゃ、すぐに逃げ出したからそんなことが言えるんだ。直接見て来たんだよ、取税人は! 今にも死にそうな顔で、今も苦しんでおられるラビの顔を! 諦めるんだ兄さん。洗礼者の時がそうだったように、僕達はきっと、またラビ以上に偉大なラビにお仕えする日が来るんだよ。その方のために、今はラビの教えをしっかりと伝えるべきで―――。」
丈夫が全て言い終わる前に、今度は禿岩が丈夫を殴り飛ばした。張り倒したのではない。殴り飛ばしたのである。禿岩は先ほどよりもより一層怒りを露にして、自分にはない、弟の髪の毛を掴み上げた。
「ラビは神の子だ! そんなことも忘れちまったのか!! これからもこれまでも、ラビ以上に優れたお人なんざ現れる訳がない! お前が言ったのは神への冒涜だ!!」
「そう言う兄さんだって、三度もラビを裏切って、『さっさと死ねばいい』とか言ってたじゃないか!」
「もう止めてくださいッ!」
その時、医者が叫んだ。身体を掻き抱いて、震えながら、ぽたぽたと涙を流している。
「おねがいです…。もう止めてください…。う、うう…っ。」
嗚咽を少し繰り返してから、医者はキッと顔を上げた。
「ラビがご心配なのは重々承知の上です。ですが何故皆様は、同じ十二弟子であった会計士様の死を悼まないのですか? 会計士様がどんな葛藤を経て死に到ったのか、何故考えないのですか? この世で最も優れた指導者がラビであるのはわたくしも重々承知の上。では、その指導者が選ばれた方を何故偲ばないのですか? ラビは父なる神の御子なれば、会計士様がわたくし達の信頼を裏切ることも知っていたはず。それなのに会計士様を選ばれたその理由を、ラビの御心を、何故お考えくださらないのですかッ! わたくしは…わたくしは…首を吊って自死するほどにラビを愛していた会計士様を忘れて欲しくないッ!! うっ…ううっ…。」
しかし、一同が医者を見る目は冷たかった。自分を含めて、彼等にとって会計士は最早仲間でも何でもなく、ただラビを異教徒に売り渡した裏切り者以外の何者でもなかったのだ。
例えラビが一度たりとも、「私を裏切る者。」と言っていなかったとしても、これから語り継がれていく会計士は、裏切り者であって、罷り間違っても神の計画の一端を担った者ではないのだ。
「終わりなんだよ、僕達は…。」
「丈夫…。」
「もうお終いなんだ! あの時、坊やはラビの力で息を吹き返したけれど、そのラビがもう終わりなんだ! 僕達はもう、殺されるのを待つしかないんだ!」
「おれっちはどこまででも逃げてラビの御言葉を少しでも多く伝えっぜ! 例え此処でラビを見捨てた卑怯者と罵られても構わねえ、おれっちはラビの奇跡を遺す!」
「でもどんなに活躍したところで、ぼく達の末路は同じようなもんだと思うけどね。」
「アンタ、こんな時位見栄張んなさいよ。」
「張ってどうする! 良くて斬首、悪くて同じ十字架刑だぞ!! 今は逃げること以外の事は考えるべきじゃない!」
「落ち着きやしょうや丈夫、あっしまで不安になっちまうでさ。」
「これが! どこが落ち着いていられるっていうんだ! 後釜もいない、今は処刑場へ行く道を甘んじて受けて、唾棄されながら行進していくラビの姿が見なくても目に浮かぶ! あれほど完璧な御方を追い抜くほどの逸材が来るとしたら、それは世界が終わる時だ!!」
「いい加減に―――。」
「もう、もう止めて! お願いします、もう止めてください!!」
禿岩と丈夫が殴る蹴るの大喧嘩をしている中、心優しい医者が泣き叫ぶ。そんな修羅場の中にいながら、イシュの心は不思議と穏やかだった。
野心があったのかもしれない。或いは、安堵があったのかもしれない。
完璧だった自分たちの師が死んで、高弟として十二弟子の一人に選ばれ、それでも坊やと禿岩を始めとする三人程には目に掛けられなかった。唯一と言ってもいい程、活躍の場が設けられたのは、あの山上の垂訓の時、弟子達を起こすという役目だけだ。しかしそれも、どうして自分が選ばれたのか、なぜ選ばれたのか、本人すら知らないのだ。どうして他人がそれを知り得ようか。
そんな中で、完璧なラビが死んだとなれば、禿岩は、丈夫は、坊やは、その兄は、どうなるだろうか。
取り乱すだろう。泣き狂うだろう。その中で、毅然とイシュがラビの御言葉を伝える。その時に一歩近づいたのではないか。ラビ程完璧に教えを伝えることは難しい。ラビの起こした奇跡は星の数をも凌ぐだろう。禿岩しか知らないもの、丈夫しか知らないもの、或いは、医者やヘレニストや女たちしか知らないものもあるだろう。男の心と女の心を知り尽くした自分なら、その指揮を執ることが出来る。それはつまり、目立たなかった自分が弟子達を
それと同時に、ラビはイシュがイシャを虐げていることについて、もう咎めたりはしない。否、今までも咎めなかったのだ。いつもラビがイシュにもイシャにも平等に接していただけで、イシュにイシャを尊重する様になどと言うバカげたことは言わなかった。
だけれども、男ばかりの弟子の中で、徐々に女の弟子が入り、優しくラビに話を聞かされている女たちに、イシャは混じりたいと思い始め、それをイシュは快く思わなかった。女たちの中に男の自分が入るなんて、ましてや自分の女が入るなんて、そんな穢らわしいことはあってはならなかった。
しかし女たちを従えることが出来るなら、あの時聞けなかったラビの御言葉を、正々堂々と聞くことが出来るのだ。あの時お前たちは何を聞いたのか、今頭取である自分に教えろと、道理に適った要求が出来るのだ。
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