第十七節 予兆の二人

 翌日になって、今度はパリサイ人達がやって来た。性懲りもなくまた雷兄弟に火傷を負わされたいのかと思ったが、どうやらそうでもないようで、なんというか、ラビに論破されるのを期待しているような、そんな表情だった。あれは多分、何人か此方側に来ることになる集団だろう。

「おはようございます、ラビ。昨日、貴方様がサドカイ派の者達に素晴らしい教えを御教えになったと聞いたので、私共もラビの御教えを拝聴したいと存じます。しかしラビ、私共がエルサレムに着いたのは昨日の今日のことなので、とても疲れております。そこで、確実に御教えを持って帰るために、最も大切な掟を一つ、お教えください。」

 ラビは一人一人を見透かすようにじっと見つめると、一言こう言われた。

「申命記第六章です。即ち、『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』です。次に、レビ記十九章です。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』。これも大切です。」

「私共も、神は御一方だけでありますし、どのような生贄や供物よりも、行いが大切であると考えております。」

「貴方方の考えは正しいですから、自信を持っていいですよ。貴方方に主が導くままに、行きなさい。」

 パリサイ人達は目を爛々と輝かせて帰って行った。パリサイ人と言っても、一枚岩ではない。パリサイ派には、今三人の主要な大ラビがいて、その中の穏健派の者達だろう。何て言ったっけ。到底自分の生活の中に入ってくるような事ではなかったので覚えていない。

「イシュ、会計士、禿岩、それから坊や、ちょっと来なさい。」

「ラビ、すみませんが弟は今頭を怪我して医者に治療してもらってます。」

「じゃあお兄ちゃんで良いよ。四人にちょっと、過越しの食事の準備をしてほしいんだ。」

「ええ!? 今更ですか!? だってもう、七日切っちゃってますよ!?」

 イシュは反論したが、会計士はずいと前へ出て、微かに笑った。

「はい、ラビの晩餐に相応しい豪邸を押さえて来ます。」

「あ、違うの。禿岩とお兄ちゃんが、都に入って水瓶を抱えた男に会うはずだから、彼に聞けば会場は分かる。会計士とイシュは、その家の人たちのお手伝いをしてきてほしいんだ。」

 またラビの訳の分からないおつかいか、と、イシュは話を聞き流すことにした。

「…わかりました。こんなに沢山の弟子の分の料理を用意するのは大変ですからね。」

「ん? 違うよ。十三人分でいいよ。」

「…? 医者やヘレニスト達はどうすれば良いのです?」

「ちょっと悪いけど、今年の過越しは特別だから、私と高弟達だけで行う。」

「分かりました。そのように。」

 ほら行きますよ、と、会計士にせっつかれて渋々外へ出る。禿岩と兄がそれに続いた。


 都は迫る過越しの祭りの為に活気づいていた。人は多く、喜びをかみしめる富裕層や、お零れに与ろうとする乞食も沢山いる。そんな当たり前の、去年来た神殿の時とは比べ物にならない沢山の人の中の人生に、触れようとする者はいなかった。ラビが指名する水瓶を抱えた男は一体どこにいるのか、あれがそうじゃないか、いいやあれは荷物を抱えているだけだ、あっちがそうだ、ばかいえ、ありゃあ女だよ、そんな声が雑踏の中時折聞こえてくる。

「こら!」

「わあ!」

「あんまり離れるなよ! この人混みだ、はぐれたら大変だぜ。」

 兄が、一人浮いていた自分をぽんっと胸の中にしまい込む。思わず顔が赤くなった。胸が高鳴ってしまう。ときめきに言葉を失っていると、イシュはイシャの頭を掴んで、ぶんぶんと横に振り回した

「言わんこっちゃない! しっかり歩いていろよ。」

「あ、ありがとう。」

「それより禿岩が見つけたぜ、あの家だ。」

 大きな邸宅から、何故か会計士が出てくる。先にたどり着いていたらしい。ということは、兄ははぐれた自分を探しに出て来たのか。

「じゃ、俺達はラビを迎えに行ってくるからな。お前らはおつかいしっかりやれよ。」

 会計士は無言で、市場へ歩いていく。慌ててイシュはそれを追いかけた。会計士はずっと無言で、市場に行っても御愛想笑いの一つもしない。イシュに荷物を半分ほど持たせ、頭の中に叩きこんだ買い出しの内容を反復しているだけだ。

「なあ会計士。そもそも晩餐の準備って出来てんだろ? ぼく達はなんで買い出ししてるんだ?」

「医者やヘレニストの分ですよ。どうやらあの家で御使いが知らせたのは、十三人分だけだったようでしてね。他の弟子達や、女たちの分は用意されていないんです。」

「ふーん。」

「………ああ、今の店で最後です、イシュ。悪いのですが、私の分も持って先に帰っていてもらえますか。私は私用があります。」

「しよー? なんだそりゃ。十二弟子の仕事よりも大事な事か?」

「ええ。このエルサレムに住んでいる兄の所に、挨拶に行きたいのです。」

 家族がエルサレムにいるのか。まあ、会計士はカリオテの出身だし、家も金持ちだし、不自然ではない。家族に会うのであれば、積もる話もあるだろうし、自分がそこにいるのは野暮という物だ。それに、先に帰っていれば楽が出来るかもしれない。何せ自分は細かいことが苦手だ。何を言いつけてもダメな客人に、無理に仕事をさせようとはしないだろう。

 イシュは二つ返事で了承し、元来た道を戻った。荷物が多いと身動きが取れないから、かっぱらいには気を付けようと、なるべく富裕層が歩く場所を歩くが、逆に富裕層が、下男が何故こんな所を歩いているのかと不思議そうに見ていた。余計な御世話だ、と舌を出してやると、一人、勇んで来そうになっていたので、慌てて走りだした。


「ただ今戻りました。」

「おっせーじゃねえか! またどっかで迷子になってるかと思ったぞ!」

 帰るや否や、兄に怒鳴られた。何故こいつは、どこに行ってもその場所の主のように振舞えるのだろう。才能だろうか。

「耳元でゴロゴロバリバリうるさいな。しょうがないだろ、会計士と途中で分かれたんだ。」

「ハァ? お前、また迷子になったんじゃないだろうな。」

「兄貴の所にご挨拶だとさ。」

「兄貴? 会計士様に兄上がいらっしゃったなんて初耳ですが。」

 荷造りを解いていた医者が手を止めて話題に入り込んでくる。

「あいつ、人とあんまりしゃべんねーから、知らなくたって不思議じゃねーよ。」

 坊やに至っては、二階の会場の下見をしつつ話を盗み聞きしていたらしい。階段から降りてきて、イシュの持ってきた荷物を興味深そうに見つめている。

「それはそうかもしれませんが…。ラビ、会計士様には本当に兄上がいらっしゃるのですか?」

「…………。」

「ラビ?」

「…あ! ごめん、ちょっとお祈りしてた。私をちょっと一人にしてほしい。」

 ラビはそう言って、坊やの後に続いてきた馬面と入れ違いになるように二階に上って行った。その場にいた全員が疑問符を打ち立てたが、何となく追う気分にもなれなかった。各自、元々やっていた作業に戻る。医者は荷造りを解きだしたし、坊やと馬面は相変わらず買った物を物色している。イシュは特にやることが無かったので、思い切り伸びをして、緊張した筋肉をほぐし、椅子に腰掛けて軽く船を漕ぎだした。

 その内、おい、と兄がイシュを呼びよせた。外はもうそろそろ日が沈む。

「いくらなんでも、そろそろ晩餐の時間だ。お前、会計士呼んで来い。」

「えー? なんでぼくが。」

「お前と会計士がどこで分かれたのか、知ってるのはお前だけだろ。呼んで来い。」

「ちぇー。行ってきまーす…。」

 かったるいなあ、と思いながら、邸宅を出る。静かな夜は訪れそうもない。

 薄暗くなってくると、暴漢も出る。さっさと見つけてさっさと帰ろう。そう思っていると、裏通りから聞きなれた声がした。集中して聞いてみると、どうやら少女と話をしているようだ。

「おじさん、こんなにいっぱい、大丈夫なの?」

「大丈夫だよ、さ、早くお母さんをお医者に見せておやり。そのお金を誰にも見せてはいけないよ。大金だから、お嬢ちゃんの命がなくなるからね。」

「うん!」

 小さな少女、それも痩せ細り、髪もぼさぼさで、明らかに毎日物乞いをしていると言わんばかりの貧相な少女が、欠けた歯に痣だらけの顔に満面の笑みを浮かべ、更に深く塗り込められた闇へ走っていく。決して太陽の届かない闇の中へ。会計士の背中に、落ちて行く太陽の光が当たっている。

「分かりますか、イシュ。」

「あ、気付いてたの。」

「貴方からは好色な匂いがしますから。」

 振り向いた会計士の顔は、怒りに満ちていた。

「あの少女をごらんなさい、貴方の瞳にはどのように映りましたか? あんなに小さな体でも、もう成人しているんですよ。売春をして必死に家族を養うあの少女には、病気の母がいるのです。いいえ、もしかしたら物乞いをするための口実で母親なぞとうに死んでいるのかもしれない。しかしあの少女を救うのに、一体何が必要だったかわかりますか? ラビの御教え? 違う。ラビの奇跡? 違う! お金ですよ、金! ほんの一枚のシェケル銀貨凡《およそ一万五千円》があれば、あの少女は救われるのです。あの少女は売春をしないでいられるのはたったの三日! しかし例えその金が直ぐに底を尽きるとも、暫しの間売春をしなくて済む! 幼い弟や妹達を養える! 私の手元に、少女を救うだけの銀貨が幾らかあって、それを施すことの、一体何が間違えていると言うんです!」

「な、何を言ってるかわかんないけど、とにかく、会計士は良い事をしたんじゃないの?」

「良い事ですって! どこが! 天に富を積んでも、あの少女は太った豚どもに食い荒らされて一生を終えるのですよ! そうして得た天の富が、彼女を幸せに出来ると思うのですか? あの少女は救いを、ラビを求めていないのではありません。そもそも世界はそうだと思って生きているから、ラビを求めないのです! ラビのような御方がいる事さえ知らない、そんなあの少女の心は、身体は、もうどうにもならない位に傷ついて荒んでいる。なのに、同じ町にいるのに、ラビはあのような少女達を思い出されなかった! ご自分を思い出す余裕のある異邦人の女にはお情けをおかけになられ、ラビを知る余裕のない幼気な少女の事は思い出されなかった! これはまるで不平等です。これがラビの仰る神の国なのか? 全く不平等な幻の毒じゃありませんか! ラビの行いはパリサイ人と一体何の違いがあるっていうんですかッ!」

「どーどー! わかったわかった! アンタは正しいよ、アンタがやったのは施しじゃなくて立派な救命行為だ! つまりそれが言いたいんだろ? ラビは言葉で大勢の大人の男達を救うが、アンタは金で一人の少女を救った、こうだろ?」

 すると会計士は、薄暗闇でも分かるくらいに真赤に顔を火照らせた後、失望したように肩を落とし、行きましょう、と言う代わりに肩を叩いた。


 その時、チャリン、と何か金属のくぐもった音がした。 

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