第57話 鼓動
「……ようやく解放された……クララ、謝罪ならする、もう勘弁してくれ……何か機嫌をそこねたなら謝る……」
湯浴みと着替えを終えた獣は、死にそうな顔をしていた。
「え、何のことですか?」
「怒っていたのではなかったのか……?」
「いえ、そんな事は。全く。それにしても…獣さんは……随分お行儀が良さそうな格好になりましたね」
獣の毛は、汚れて毛羽立った状態から、すっかりつやつや、もふもふに変わっていた。
金の装飾が光る、青いサーコートを羽織り、首元には白いヒラヒラした何か。腰にはベルト。
「獣になってから始めてだな、こういった格好は」
どことなく貴族か、王様のような威厳が感じられるような……
「ところでクララ、何故首だけ出しているのだ?」
「心の準備が出来てないのです……」
今更ながら恥ずかしすぎる……
羞恥で死ぬ、死んでしまう!
「同盟者よ、ほれ!さっさと"舞台"に上がるのだ!」
「わっ」
後ろにいたアトラに押し出される。
「これは……見違えたな……」
獣は驚いたように私を見る。
長く伸びてしまった白髪は、二つに分けて編み降ろして、着ている赤い服は、大きく肩を露出した、上半身のラインが出るような、ぴったりとした長い袖のチュニック……コタルディというらしいけど……
「ぁ……あまり……こっち見ないで……ください」
「そうか、すまん……」
穴があったら潜りたい、二度と出てきたくない。
なぜこんな身体のラインが出るような服を……!
「(似合うではないか!婦人たちと余の前衛的なセンスが理解できんのか?)」
婦人達はともかく、あなたは二百年も前の人でしょうが……!
「(良いではないか!今度は手に収まる台本をきちんと用意したのだ!その通りに行けば楽勝よ!)」
楽勝ってちょっと……!それに"この"台本は私にはちょっと難しすぎて……
「何か落としたぞ?」
握りすぎて手にかいた汗が、隠し持った紙片を掴み損なわせる。
「ぁ、あぁぁぁ!!見てはダメです!」
「(何故、悉く余の斜め下を行くのだ同盟者よぉぉぉ……)」
終わった……終わってしまったぁ……
「ほら、クララ、何やら大事なものなのだろう?」
……え、あれ、見てない?
「み、見てませんか?」
「ん?ああ、内容は見ていない。安心しろ」
九死に一生を得た、後半戦が始まった瞬間に終わってしまうところだった。
「さて、次はどこへ行くのだ?」
手元の台本を見る。
「え……あ、はい、次は……川に行きます……行きましょう」
「もう水は御免だぞ?」
「大丈夫……大丈夫です……多分」
◆◆◆◆◆◆◆◆
河岸は、様々なランプや炎の灯りが照らし、暗闇を色鮮やかに飾り立てていた。
頭は相変わらず茹っているけど、この熱にも何とか慣れてきた。
獣の顔を見ても大丈夫なくらいには。
「時は、お前のため花の装をこらしている、
摘むべき花は早く摘むがよい、その身を摘まれるその前に。萎んでしまうその前に」
優しく静かな音色だった。
「気をつけて、気をつけて、人には言うな、この秘密、チューリップひとたび萎めば開かない」
光に照らされた詩人は、そう誰に言うでもなく、六弦を奏でる。
「さて、今日乗せるのはあんたらかい?」
帆船を桟橋に停めたお爺さんは、カエルのような目でこちらを見る。
「船頭さんだったのですか……?」
「交代で覚えるのさ、運ぶ物は尽きないからね。さあ!乗れ乗れ!こういう風に使うのは久しぶりだ!」
「獣さん……?何で距離を取ってるんですか?」
「……何でもない、何でもないのだ、気にするな」
ジリジリと後ずさる獣。
「大丈夫ですって、沈んだりしませんよ」
「そ、そうか……そうだな、情けないところを見せてしまったな」
「……私も人の事は言えませんから、さ、お手をどうぞ」
「あ、ああ」
おっかなびっくりの獣の手を引いて船に上がる。
「(……こりゃ、余のお節介は必要なさそうだの、ではの、あとは"強く当たって流れだ")」
肩に張り付いていた蜘蛛は何処かへ去っていった。
◆◆◆◆◆◆◆◆
仄かな光が縁取る川を、ゆっくり進む船の上、詩人が演奏する六弦の音が静かに響く。
「……獣さん?」
「なんだ?」
「……一曲、お相手願いますわ」
「得意ではないが、良いか?」
「大丈夫です、ここは宮廷じゃあ、ないんですから。それに貴方は言いましたよね?出来なくたって構わないって」
「そうか、そうだな……だが踊るには随分と静かな曲だが……」
「これから流行るのは、こういう緩やか曲と踊りなんだそうですよ?元々は農民の踊りだとか。さ、私の手を取っていただけませんか?」
「ああ……」
「……後は、私の腰に手を回して、ください」
「……こうか?」
身体が密着する。
「後は、歩幅を合わせてゆっくり回りながら……リズムに合わせるだけ……」
「お、おお……?難しくないか……?」
歩みだしたその足の運びは、まだぎこちない。
「剣と一緒です……相手の呼吸を合わせるのです……」
「……なるほど、そう考えると簡単に思えてきた」
ぎこちなさは残るステップも、段々とリズムに従って、少しずつ、少しずつ重なっていく。
「……息が合ってきましたね、あとは右に……左に……」
「わかった、こうだな」
いつしか歩幅はぴったりと重なって、詩人の繰り返すメロディーに乗せられていく。
「このような静かな踊りというものも、あるのだな……」
「……らしいですね」
「……知っていたのでは?」
「……それは……秘密です」
暗闇で顔があまり見えていない事を願う。
こんな顔……他の誰にも見せられない。
「獣さん……私は……」
「クララ……?」
「私は──」
その言葉を囁く。同時に河岸で花火が上がり、鳴る。
それは他の誰にも聞こえない。
鼓動も他には聞こえない。
それを……聞かれても構わない相手以外には。
「そして……必ず、貴方の"呪い"を解いてみせます」
獣はとても驚いたのか、狼の耳が立っていた。
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