第22話 渡河

 黒々とした水を湛える静まり返った地底湖。


 異臭を漂わせ、湖畔を這い回る、タール状の粘液の塊のような異形達。


 もはや牢獄ですらない、ただの洞穴。


「……アレも獣なのですか?」


「同類の匂いがするが、あそこまで"崩れて"生存しているとは……」


 獣は鼻を塞ぎながら言う。彼の嗅覚では、耐え難い匂いなんだろう。


「………」


 無言で近寄ってくる一匹の異形。


「あなた達もここに閉じ込められているのですか?」


「て、きぃ、り……なにもの?」


「……!」


 あの黒衣の者と同じ言葉……!?


「もしかして《玩具修理者》の事を知っているのですか!?」


「そのなは……!!」


 私が尋ねると、異形は何かに驚いたのか、粘液の表面にいくつもあった目が開かれ、そそくさと湖の中を泳いで逃げていった。


「ま、待って!」


「……行ってしまったな」


「あやつらに何か聞いてもロクなことはないぞ、所詮眷属であるからな」


 アトラは、上から降りる為に使っていた糸を片付け終わったのか、私達の隣に立つ。


「さて、湖の先に行かねばな」


「何故だ?」


「あのヌルヌルした眷属どもが臭くてたまらんので、余の生贄の半分の融通を条件に降りてもらったのだ。そうしたら湖ごと下に移動していったのだ。しかも対価と言って余の財宝まで持っていきよった」


「湖ごと……?」


 そんな力があるのなら、駒としてはこれ以上にない程素晴らしい。


「それが奴の魔術の力だ。さっさと会いに行きたいが……」


 言い淀むアトラは湖を見る。


「何か問題でも?」


「上にいた頃は奴の力で湖の水を退けているうちに、橋を架けておったが、ここにはそんなもの無いのでな……」


「泳ぐのは──」


「主人よ、このような暗い水では前後を見失いかねない、どの程度の距離があるのかも分からない、長時間水の中で体温が奪われれば危険だろう。主人が言うのであれば仕方がないが……」


 すごい勢いで獣は拒否感を示した。そんなに嫌なんだろうか。


「単純に余は泳げん。この脚ではもがくだけだ。まあ、泳げるクセに何かと理由をつけて断っているどこぞの獣とは訳が違うな」


 アトラがニヤニヤしながら獣を見る。


「……そうなると……いや」


 あたりは暗く、湖は深く、降りてきた天井は遥か高く。


 いるのは異臭を発する異形ばかり。


「どうした?主人よ」


「同盟者よ、思いついたことがあるのなら言ってみるがよい」


「……昔話ですが、海を渡る為に、キツネがアザラシに頭数を数えると言って一列に並ばせて、背を渡ったと言う話がありました」


 昔、祖母が教えてくれたお伽話の一つだ。


「ほぅ?そんな昔話がの。奴らも同じように並べろと?」


「……彼らが素直に言う事を聞いてくれれば良いのですが」


「よし!待っておれ、そういうのは余の仕事であろうな!」


 アトラは少し離れた場所で、ずりずりと這っていた異形を糸で捕まえ、上に乗った。


「えー、おほん。よいかの、お前の所の主の命で、お前らが今何匹いるのか数えねばならん。そのまま報告に行かなばならんから、主人のいる小島までまっすぐに並んでくれんかの?余は数を数えながら帰るのでな」


「て、きぃ、り……わかった」


 あっさりとアトラの命令を聞いた異形達は、真っ直ぐ並んでいく。


 尊大な態度もこういう時は役に立つらしい。


「こんな簡単にいくと思わなかったの。同盟者よ、ほれ、行くぞ」


 アトラはそう言って先に進もうとするが、私の目の前にはヌルヌルした何か。これをよじ登ったり、その上を歩くと思うと。


「命令です、私を抱えて登りなさい」


 獣へ振り向く。獣は心底嫌そうな顔をした。


「了解した、後悔するといい、次にお前を抱える時はこの粘液付きの毛皮だ」


「降りたら洗ってください」


「……了解した」


 不承不承な獣は鼻を塞ぐ手を離して、私を背負い、毛を逆立てながら、異形の上によじ登った。


 自分が提案したおとぎ話の先の展開では、アザラシの上を渡ったキツネはその先で猟師に撃たれていた。


 自分達がそうならないことを祈るばかりだ。

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